ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1120

2021-01-13 17:51:50 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

     第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」2

 1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1120 読むと貧弱になる『こころ』

1121 超短編の羅列

『こころ』なんてものは、読まないでいいのなら、読まないに越したことはない。

<谷崎 『こゝろ』なんぞというやつも、このごろだいぶ言われるんだけれども、あれ、半分くらいでいいんで、実に長つたらしく延(のば)しているように思うんだけどね。ぼくは読んでて実に退屈で、たまらなくなつちやう。

武田 それは『明暗』に比べたら、『こゝろ』は実に落ちますよ、ね。ほんとの習作だものね。判(わか)りやすいだけでね。

谷崎 だけど、このごろ、だいぶ……。

武田 いや、判りやすいからですよ。

谷崎 それだけの理由か。なるほどね。

武田 『こゝろ』は短編ですよ。ああいうものが日本の精神の根本である、という考え方が、非常に日本の文化を貧弱にさせてるんだ。

(『文藝臨時増刊 谷崎潤一郎読本』昭和三十一年*)>

二人はえらくいらついている。なぜだろう。卑怯なヒッキーであるSを美化するような『こころ』が、彼らには青臭いものに思われたからかもしれない。しかし、本当の理由は、別にありそうだ。現在、武田泰淳はもののみごとに忘れられてしまった。谷崎潤一郎でさえ、ときどき思い出される程度だ。こんな近未来の「日本の文化」の有様を予感して、いらついていたのではなかろうか。彼らは、そう遠くない将来、文豪伝説が支配的になって自分たちが過去の人になることを予感していたのかもしれない。

「このごろ」に注意。〈『こころ』は名作〉という伝説は、戦後生まれのようだ。「半分ぐらいでいいんで」というのなら、一割ぐらいでもいいんで、逆に、三倍ぐらい書いても、Sの自殺の動機は明らかになるまい。Sに本気で死ぬつもりはなかったようだからだ。〈死にたい〉と書き込みをするナルシシストのJKと一緒で、他人の同情を買おうとしていた。映画の『こころ』(市川崑監督)にはSの葬式の場面があるが、本文にはない。「自分で死ぬ死ぬって云う人に死んだ試(ためし)はないんだから」(中二)という言葉なら、ちゃんとある。

『こころ』を『明暗』と比べる武田の読解力はかなり怪しい。「ほんとの習作」は意味不明。「習作」のようではある。Nの作品で「判(わか)りやすい」と思えるものなんか、一つもない。

「それだけの理由か」は残念。谷崎の考える「理由」が知りたかったよ。

「短編」は無茶。だが、「短編」の羅列のようではある。一文で一篇の超短編の羅列みたいだ。いや、一文さえ、しばしば、意味不明だ。

「判りやすい」といった印象を得て平気な武田的読書法が、「非常に日本の文化を貧弱にさせてるんだ」と、私は思う。『こころ』が「非常に日本の文化を貧弱にさせてるんだ」としても、その理由は文芸的価値などとは関係がなく、Nの奇妙な言葉遣いにあるのだ。

谷崎は〈なぜ、自分は『こころ』なんぞが気になるのか〉という問題を婉曲に提示しているようだ。ところが、武田はこの問題を回避しようとしてあせりまくる。こんな武田的態度が「非常に日本の文化を貧弱にさせてるんだ」と、私は思うのだよ。

*小谷野敦『「こころ」は本当に名作か 正直者の名作案内』から再引用。

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1120 読むと貧弱になる『こころ』

1122 アララな人

『こころ』の意味がわかったように思う人でも、Sを尊敬するとは限らない。

<『こころ』を読むのは、約二十年ぶりになる。

なつかしくページを繰っているうちに、アララという感じになってきて驚いた。見上げるような畏敬の念を含(ママ)めてみていた先生が、何だろうこの人、という雰囲気なのである。

かつて、人間を愛しうる人、愛さずにいられない人という「私」の先生評にうなずき、その厭世的な言動や世間の人や自分自身の命に対する愛想づかしすら先生の深い倫理感(ママ)から出たものだと理解して、自らの心をこんなにも真剣に覗き込んで生きることに一種の尊敬を覚えていたはずなのに、この度は、どうも塩梅(あんばい)が違う。

いちいち、つっかかりたくなるのである。そういう気持ちを、まあまあとなだめつつ読み進んだというのが、正直なところなのだ。

(吉永みち子『鑑賞―こころを捕えたのは誰?!』*)>

「約二十年」前の吉永は文学少女で、「傷ましい先生」(上四)に同情できる自分が可愛く思えたのだろう。『こころ』は、彼女にとってジュブナイル小説だったわけだ。

「アララという感じ」が大方の印象であるはずだ。遺産を食いつぶしながら「ごろごろばかりして」(上三十三)いる中年男に対して、普通の人は嫌悪感や不潔感や警戒心などを抱くはずだ。ただし、本当はもっと変なのだ。Sの日常生活がほとんど描かれていない。『オブローモフ』(ゴンチャロフ)の主人公みたいに食って寝てばかりいるのではなさそうだ。静によると、Sは「殆んど煩(わずら)った例(ためし)がない」(下三十四)ということだが、怪しい。Sの言うことや書くことのすべてが、私には「頗(すこぶ)る不得要領のもの」(上七)だからだ。変人とすら思えない。生きている感じがしないのだ。だから、死にそうにも思えない。Nの弟子で自殺した芥川龍之介は、「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない」(『或旧友へ送る手記』)と書いている。彼はNに勝ちたくて自殺したのかもしれない。

「人間を愛しうる人」以下は、本文からの不正確な引用。本文が意味不明だから、記憶も不確かになる。なお、Sのことを「人間を愛し得る人」(上六)などと評したのはPだ。

「いちいち、つっかかりたくなる」のが普通の人だろう。

「そういう気持ちを、まあまあとなだめつつ」というのは、吉永が通人気取りで、もう一人の自分に向かって和風のコミュ力を発揮するように強いているところだ。自分で自分をなだめるのは勝手だが、「アララという感じ」になった他人に対しても「まあまあ」とやれば、柔らかい暴力を振るっていることになるよ。

〈みすぼらしい爺さんが実は天下の副将軍だった〉という話なら、面白そうだ。しかし、〈アララな人が死んじゃったよ。アララ〉なんて話のどこが面白いのだろう。いや、面白いとか面白くないとか、そういう問題ではない。不気味だ。

不気味なのは、『こころ』だけではない。私にとってNの文章の全部が「頗(すこぶ)る不得要領のもの」なのだが、そんな文章の書き手であるNを〈文豪〉と呼ぶ人たちがいる。その全員が、私には不気味だ。つまり、日本人の大多数のことが不気味に思えてならない。

*『こころ』(集英社文庫)所収。

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1120 読むと貧弱になる『こころ』

1123 『こころ』批判も意味不明

『こころ』に批判的でも、〈『こころ』には確かな意味がある〉という前提で書かれたような文章は、やはり意味不明であることが多い。

<……「心」「行人」「明暗」など、漱石晩年の作品に、私は、彼れ(ママ)の心の惑ひを見、暗さを見、悩みをこそ見るが、超脱した悟性の光り(ママ)が輝いてゐるとは思はない。

(正宗白鳥『夏目漱石論』)>

「心」という表記に戸惑う人がいるかもしれないが、これは『こころ』のこと。「「心」「行人」「明暗」」と並べる理由は不明。執筆順なら、『行人』が先にくる。また、『こころ』と『明暗』の間の『道草』が省略されている。怪しい。「晩年」は『明暗』にしか当てはまらないはず。〈「作品に」~「見る」〉という構えはいただけない。「惑いを見」も「暗さを見」も「悩みをこそ見る」も意味不明。こういうものを「見る」からどうだと言いたいのか。〈一応認めるけど〉みたいなことか。だったら、卑怯。

正宗は、文豪伝説の信者から〈君には漱石先生の「超脱した悟性の光り」が見えないのさ〉と反論されたら、どのように応じたろう。

「超脱した悟性」は意味不明。

<① 広義には、思考の能力。

 ② カントにおいては、感性に与えられる所与を認識へと構成する概念能力・判断能力で、理性と感性の中間にあり、科学的思考の主体。

 ③ ヘーゲルにおいては、弁証法的思考能力としての理性に対して、対象を固定的にとらえ、他との区別に固執する思考能力。

(『広辞苑』「悟性」)>

〈悟性は超脱しない〉と、私は思う。だから、比喩としてすら、そんな「光り」はなく、それが「輝いて」いるはずもなく、その様子を思い描くことはできない。で、結局、「思はない」というのはナンセンス。正宗は、「超脱した悟性」を〈卓越した感性〉といった、ちょろい意味で用いているのかもしれない。だったら、やっちゃったね。

<更に從つて、一般的に云へば、直示、直觀の慧解によつて、悟性を超絶する眞理に見參し、ここに唯一信樂(しんぎやう)の世界を見出さんとする心的傾向が神秘説で、これを奉ずる内的人が神秘家である。

(フランシス・グリーアスン『近代神秘説』日夏耿之介「譯者の序」)>

「悟性を超絶する眞理」というのなら、私にもわからなくはない。勿論、理屈だけだ。

「直示、直觀の慧解」は難解。「慧解」は〈ゑげ〉と読む。「眞理に見參し」は意味不明。「信楽」は、新仮名では〈しんぎょう〉だ。旧仮名なら、「しんげう」(『広辞苑』)だろう。

(1120終)


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辛苦我慢のかほり

2021-01-11 13:49:12 | ジョーク

   辛苦我慢のかほり

真綿で首絞める辛苦我慢ほど

スガしいものはない

会見のときの君のようです

ためらいがちに語る言葉に

驚いたように戸惑う記者に

季節が知らん顔して通り過ぎてゆきました

疲れを知らない子どものように

数字が予想を追い越してゆく

呼び戻すことができるなら

君は何を語るだろう

(終)

 


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夏目漱石を読むという虚栄 1110

2021-01-09 20:01:17 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」

第一章 イタ過ぎる「傷ましい先生」

  

<王さまは、手紙を読みなおしてみました。

「え、え――っ!」

よく読むと、こう書いてあるのです。

 

『王さま。あなたは、ブルー・トレインにのらなくてはなりません。たすからないかもしれません。みょうなことがおこり、おもい病気にかかるでしょう……。』

 

三ど、読みなおしました。

「どこか、おかしいな。」

 ウイパッチおばさんの、うらなったとおりになったのです。けれども王さまは、はじめのとき、かってに読みまちがえてしまったのでした。

王さま、あなたは、ブルー・トレインにのらなくてはなりません。(もしのらないと)たすからないかも……。と読んだのでした。ウイパッチのうらないは(もしのったら)ということだったのです。

王さまは、ブルー・トレインにのりたいばかりに、ウイパッチの力をかりようとした。つまり、あやしいやつは、王さまだったのです。犯人といえば、いえるかもしれません。

そのとき、おしろのラッパがなりました。

テレレッテ トロロット

   プルルップ タッタタター

(寺村輝夫『王さまうらない大あたり』)>


1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1110 正直な感想から始めよう

1111 〈意味〉の意味

日本人なら誰でも名前ぐらいは知っているはずの夏目漱石を〈N〉と書く。

〈Nは文豪だ〉といった類の言説を十把一絡げにして〈文豪伝説〉と書く。

文豪伝説の主人公であるNの代表作とされる『こころ』(*)は、私には意味不明だ。

<僕もね、正直言いまして、『こころ』ってよく理解できないんです。「文学の奥深さ」に行きつく前に、「なんなんだよ、この話は?」みたいな方に行ってしまいます。あの登場人物がみんな何を考えているのか、さっぱりわけがわからなくて、感動できませんでした。

(村上春樹『村上さんのところ』)>

『こころ』が「へんな作品」(あんの秀子『マンガでわかる 日本文学』)であることは、すでに専門家の間では常識になっているようだ。『夏目漱石「こゝろ」を読みなおす』(水川隆夫)を読むと、そのことがよくわかる。この本は、専門家たちが問題にしてきた『こころ』の不可解な話などを列挙して説明を加えただけのものだ。しかも、問題のすべてが取り上げられているわけではない。また、『こころ』の本文の細部の意味までは読みなおされてはいない。

私がわからなくて困っているのは、本文の普通の意味だ。注釈や大意や要旨などといったものを含む意味だ。それは一つに絞られる。多義的な場合でも、〈表の意味は甲だが、裏の意味は乙だ〉というふうに、セットとして一個だ。そして、それは容易に共有される。

ちなみに、近頃の〈生きてる意味がわからない〉なんて言葉の意味がわからない。

<① ことばのわけ。例漢字(かんじ)は意味をあらわしている文字です。

 ② ものごとを行うだけのねうち。かち。例宿題(しゅくだい)のときだけ勉強しても意味がない。

 ③ あることをするもとになった考え・わけ。例きみがふゆかいな顔をしている意味がわからない。

(『学研 小学国語辞典』「意味」)>

私の用いる〈意味〉の意味は①だ。ただし、本文に出てくる「意味」が〈価値・理由・含蓄・内容・意図・目的・原因・意義〉などと置き換えてよさそうなら、突っこまない。

<気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟(たた)ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十一)>

これは、私が大嫌いな『こころ』の中で一番嫌いな文だ。

「同じでしょう」か? 「少し」か、〈多く〉か、どうやって知れるのだろう。この「意味」は不明のまま、『こころ』は終わる。「虚栄」と並べるのなら、「気取る」は〈気取り〉としてほしかった。

*『こころ』のテキストは新潮文庫版を用いる。

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1110 正直な感想から始めよう

1112 SとKと静とPを紹介しよう

『こころ』に関する事典などの説明も、しばしば、意味不明だ。

<主人公の孤独な倫理観を描いて広く読み継がれた漱石の代表的小説。

(『日本歴史大事典』「こゝろ」佐藤泉)>

「主人公」とは、冒頭で「先生」と呼ばれている男のことだ。以下、彼を〈S〉と書く。これは〈sensei〉の「頭文字(かしらもじ)」(上一)だ。Sは教師ではない。医者や弁護士などでもない。無為徒食の中年男だ。「孤独な倫理観」は意味不明。「倫理観」は「倫理上の考(ママ)」(下二)のことか。だったら、その中身は空っぽ。「自由と独立と己れとに充(み)ちた現代に生れた我々」(上十四)がどうのこうのといった意味不明の「覚悟」(上十四)とやらが、それか。「覚悟」も意味不明。「孤独な人間」(下二)を自認するSに、普通の意味での倫理が必要だろうか。「倫理観を描いて」は意味不明。〈「描いて」~「読み継がれ」〉では文が捻じれている。つまり、主語が違っている。「読み継がれた」を形容するのなら、「広く」は〈長く〉などとすべきだ。「読み継がれた」だと、過去のことみたいだ。つまり、今は読まれていないみたいだ。

『こころ』について語られている言葉も、このように、しばしば、意味不明だ。

<親友を裏切ったため苦しみ自殺する主人公〈先生〉の孤独な内面を、前半は〈私〉という学生の眼をとおして間接的に、後半は〈先生〉の遺書という書簡体をとって描いている。

(『百科事典マイペディア』「こゝろ」)>

「親友」は「K」(下十九)と呼ばれている。「親友を裏切ったため」は不可解。裏切れないのが親友だろう。友だちというゲームはとても難しいらしい。Sの言動のどれがKの何を「裏切った」ことになるのだろう。「裏切ったために苦しみ」は理解に苦しむ。苦しむのは裏切られた側だろう。Sは、Kに対する自分の言動を恥じて苦しんでいる。「孤独な内面」は意味不明。外面について、Sは「殆んど世間と交渉のない孤独な人間」(下二)と自己紹介している。ただし、妻帯者だ。妻の名は「静(しず)」(上九)という。ちなみに、二人の間に子はない。「前半」は、「上 先生と私」と「中 両親と私」だ。この「〈私〉」を〈〉と書く。〈pupil〉の頭文字。Pが語り手である前半を〈P文書〉と書く。〈「間接的に」~「描いて」〉は意味不明。「学生の眼をとおして」は間違い。語り手Pは、「学生」ではない。すでに卒業している。ただし、語り手Pによって語られるPが「大学生」(上十一)だったことはある。「後半」は「下 先生と遺書」だ。Sは「遺書」をPに郵送した。「遺書という書簡体」や「書簡体をとって」は意味不明。なお、『こころ』の内部の世界に存在する「遺書」と「下」は、同じではない。P文書における「遺書」からの引用と思われる語句で「遺書」に見えないものがある。また、「下」は「……」で始まっているが、この記号をSが書いたとは思えない。「下」の終わり方もおかしい。Pに対する別れの挨拶がないのだ。形式的には、「下」はP文書に含まれている。だから、PがSの「遺書」を編集した可能性は否定できない。

『こころ』の最大の欠陥は、Kの「眼をとおして」Sの姿が描かれていないことだ。

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1110 正直な感想から始めよう

1113 Sはスネ夫のS

Sは「真面目(まじめ)な私」(下四十七)と自己紹介する。また、Kについても「真面目(まじめ)」(下三十七)と紹介している。だが、私には、彼らが真面目とは思えない。いうなれば、糞真面目だろう。真面目な人は信頼できる。だが、糞真面目な人は違う。危ない。自分勝手だ。SもKも勝手に自殺するのだから、普通の意味で真面目であるはずがない。

「遺書」の物語は、〈友人関係にあった青年二人が一人の少女に恋をした〉みたいに誤読されてきた。この設定は『浮雲』(二葉亭四迷)から借りたものだろう。『浮雲』のヒロインは正体不明だったが、静も正体不明。才色兼備という設定のようだが、その証拠は皆無。

主要なキャラクター三人の性格設定から全然なっていない。きちんと性格設定をしてしまったら、「花やかなロマンス」(上十二)も「恐ろしい悲劇」(上十二)も成り立たず、吉本新喜劇みたいなものになっていたろう。松竹新喜劇ではない。

ここで、話を単純にするため、『ドラえもん』(藤子・F・不二夫)を利用する。ついでに、『坊っちゃん』(N)と『虞美人草』(N)の登場人物も並べてみる。

『ドラえもん』 『坊っちゃん』 『虞美人草』      『こころ』

のび太     「うらなり」  小野          Sが演じたS

出来杉     「赤シャツ」  甲野が演じた甲野    Kが演じたK

静香      「マドンナ」  藤尾          静

スネ夫     「五分刈り」  甲野          S

ジャイアン   「山嵐」    宗近          K

 ドラえもん   清       藤尾の母で甲野の義母  静の母

 「五分刈り」というのは、『坊っちゃん』の語り手で主人公のあだ名だ。これは『坊っちゃん』の後日談として創作された小説『うらなり』(小林信彦)に由来する。

『ドラえもん』のスピンオフでスネ夫を主人公にした物語があるとしよう。『こころ』の場合、〈Kの物語〉が原典で、そのスピンオフが「遺書」の物語に相当する。〈S〉は、偶然、〈スネ夫〉の〈S〉でもある。音は〈似非(えせ)〉に通じる。

Sの「自叙伝」(下五十六)なるものは、ジャイ子よりはましな静香を相手にしたスネ夫のナンチャッテ・ロマンスみたいなものだったろう。俗にいう想恋愛だ。病的な恋愛妄想ではなくて、童貞が勝手気ままに恋愛を空想して苦しんで遊んでいたらしい。

Sは、少女静にとって、どうでもいい青年だった可能性がある。静香にとってスネ夫がどうでもいい男子なのと同じことだ。一方、SやKにとっても、静の性格など、二の次だったようで、容貌すら問題でなく、身近にいた少女というだけで萌えたらしい。安直。

先の表で注目してもらいたいのは、静と並んで、「マドンナ」と藤尾がいることだ。「マドンナ」は箱入り娘で正体不明。「五分刈り」は彼女に一目惚れしたみたいだが、その話は立ち消えになっている。一方、藤尾は男たちを手玉に取る性悪女として描かれている。静のキャラは、清純派と肉食系のどちらのようにも思える。私には区別できない。おかしなことに、Sにも区別できないようだ。Nにも区別できなかったのかもしれない。

(1110終)


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モラス

2021-01-04 13:39:54 | ジョーク

   モラス

モラスヤ モラス

ベンジョカラ トオイト

モラス

ホンノチョビット ワロタダケデモ

モラス モラス

(終)

 


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夏目漱石を読むという虚栄 ~略記その他について

2021-01-02 18:14:35 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

       ~略記その他について

作品名は『』(二重鉤)で括る。「」(鉤)の中は引用、()(括弧)の中には出典などを記す。<>(山括弧)や≪≫(二重山括弧)は読みやすさを考えて用いる。

『こころ』のテキストには新潮文庫版を用いる。文庫は入手しやすいからだ。新潮文庫版を選んだのは、表記が最も原文に近いと思われるからだ。

〈原文〉とは『こころ』(岩波書店)の初版本のことだ。これは新聞発表時のものと違う。また、『漱石全集』(岩波書店)のものとも違う。

慶応三年に生まれて大正五年に死んだ漱石こと夏目金之助を〈N〉と記す。そして、『こころ』の作者と区別する。

〈作者〉は作品に付随する虚構の人格だ。たとえば、『こころ』の作者と『坊っちゃん』の作者は別人ということだ。同様に、これらの読者も作品に付随する虚構の人格であり、実在の誰彼とは質が違う。

『こころ』は、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部に分かれている。引用箇所を示す場合、これらを「上」「中」「下」などと略し、回数を添える。たとえば、冒頭の文の場合、〈上一〉と記す。

「上」と「中」で「先生」と呼ばれている人物を〈S〉と記す。〈sensei〉の頭文字だ。 Sを「先生」と呼ぶ「私」を〈P〉と書く。〈pupil〉の頭文字であると同時〈pet〉の頭文字でもある。

「上」と「中」の語り手はPだ。「上」と「中」を合わせて〈P文書〉と書く。〈P文書〉の聞き手は不明。〈聞き手〉ではなく〈読み手〉とするのが常識的だが、〈語り手〉と対応させるために〈聞き手〉と記す。この聞き手を〈Q〉と記す。空想上のQは空想上の語りの場である「此所(ここ)」(上一)にいる。P文書はPとQの問答であり、この問答の聴衆を〈G〉と記す。〈gallery〉の頭文字だ。Gの原型はPの兄だろう。

「下」を「遺書」と略記する。「下」の語り手はSで、聞き手はPだ。言うまでもなく、このPは作中に実在するPを素材にして語り手Sが想像している人物だ。

「遺書」の語り手Sは、P以外に「遺書」を読むことになる人物を想像している。その人物を〈R〉と記す。「外の人」(下五十六)がRだ。

奇妙なことだが、RとGを区別することはできない。不合理なことだが、彼らと『こころ』の発表当時に実在した人々を区別することはできない。彼らは、高学歴の男たちと思われる。

「魔物」(下三十七)や「黒い影」(下五十五)などを一括して〈D〉と記す。〈demon〉の頭文字だ。KはDだったのかもしれない。

(終)


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