(書評)
頭木弘樹・編訳『絶望名人カフカの人生論』(新潮社)
池内紀・編訳『カフカ寓話集』(岩波書店)
「絶望名人」といった評価は「カフカ伝説」(『カフカ寓話集』池内「解説」)だそうだ。
伝説でもいいけど、『絶望名人』の解釈は意味不明。同書の山田太一の解説も怪しい。彼らはカフカの作品よりも「カフカ伝説」の方が大事らしい。そういうの、飽き飽き。
カフカの作品を初めて翻訳したのは中島敦だそうだが、中島もかなり怪しい。中島は「「狼疾記(ろうしつき)」という短編小説の中でも、カフカの「巣穴」という短編にふれて」(『絶望人生』「あとがき」)いるそうだ。
『巣穴』は『寓話集』に収められている。
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想像力はかたときも休まず、私は実際、信じかけているのだが――わざわざ自分をくらましてみてどうなるだろう――あの音は、獣のたてる音であって、しかもちっぽけな連中などではなくて、一匹の大きなやつだ。反証はいくらでもあるだろう。音はどこにも聞こえ、いつも一定であって、昼夜を問わず変わらない。だからしてやはり、多くのちっぽけなやつらのせいと思いがちだが、そうであれば、あれほどの試掘で見つかりそうなものなのに一匹も見つからなかった。とすると大きな獣という仮定をたてるしかないのである。矛盾に思えることも多々あるが、この仮定を捨てるよりも、むしろその獣が想像を越えて危険なものだと考えるべきではあるまいか。その一点で、私はこの仮定を避けてきたのだが、いつまでも自己欺瞞をつづけてはならないのだ。ずっと前からひそかに思っていたことであるが、うんと離れていても音が聞こえるということについてである。そやつが猛烈に作業をしているからではなかろうか。まるで散歩中の人が野をどんどん歩いていくように、そんなふうに土を掘りすすんでいる。大いなる勢いのため、掘ったあともまわりの土がふるえていて、余震と作業の音が一つに合わさり、それが遠くから伝わってくる。巣穴にとどくのは、ほとんど消えかけた状態で、だからこそいたるところで一定の音として聞こえるのだ。獣は私をめざしてくるのではなく、むしろはっきりしたプランがあるかのようだ。それがいかなるプランであるかは見通せないのだが、想像してみるに、そやつはこちらをとり囲もうとしている。私そのものは知らないにせよ、私のいるところに円を描き、すでにわが巣穴をとり巻いて、二、三の円周をつくり終えているかもしれない。
(『カフカ寓話集』「巣穴」)
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「私」は被害妄想に囚われているみたいだ。その自覚もありそうだ。
「そやつ」の原型は、カフカの父親だろう。父親は、世間的には「ちっぽけな連中」の一人だが、息子にとっては「一匹の大きなやつ」なのだ。
こうした解釈は、文芸的価値とは関係がない。
『絶望名人』に変なことが書いてある。
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遺稿として、三つの長編『失踪者(しっそうしゃ)(アメリカ)』、『訴訟(審判)』(夏目漱石の「こころ」と同じ年に書かれた)、『城』のほか、たくさんの短編や断片、日記や手紙などが残された。
(頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』「あとがき」)
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『こころ』は、小賢しい知識人を、本物の芸術家や思想家などから区別するための試金石として使える。
『こころ』を褒める人は知識人だ。間違いない。間違ってもいい。知識人の作文は、読んではいけない。読まざるを得ないときは警戒を怠るな。ぼおっとして読んでいると、頭が悪くなるよ。間違いない。
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