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ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

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王陽明、「泛海」で心情つづる。

2017-10-19 12:11:04 | 一茶庵「易社」
一昨夜の稽古で、着くやいなや目にとまったお軸は、雄大さの中に男の激しい生きざまを文字に表現したかのように見えた。

来月の19日に開催される「四天王寺煎茶会」に向けての稽古に熱が入り、お軸についての解説がないのかと思っていたが、お点前稽古が一段落つくと、お軸の解説に移った。

いつもの通り、この詩の文字数は?から始まる。そして読める字があるか?という問いになかなか明確に分かる文字は少ない。
わかった文字から連想し、わからない文字を想像していく連想ゲームをしているかのように進んでゆく。

ひと通り読み終わり、中国の明大の時代に生きた王陽明の「泛海(ぼうかい/海に泛(う)かぶ)」という詩であることわかった。

王陽明が、書いた当時の自身の心情を表現した詩である。この詩は、王陽明の想像の世界と現実の状況が混在した不思議な詩だと宗匠はいう。

その内容は以下のとおり。

「泛海」
險夷原不滞胸中
何異浮雲過太空
夜静海濤三萬里
月明飛錫下天風

「海に泛(うか)ぶ」
險夷(けんい) 原(もと) 胸中に滞(とどま)らず
何ぞ異ならん 浮雲の太空(たいくう)を過(す)ぐるに
夜は静かなり 海濤(かいとう)三万里
月明(げつめい)に錫(しゃく)を飛ばして天風を下る

逆境であれ順境であれ、それらに心を煩わせることなどない。
それらは、あたかも浮雲が空を通り過ぎるようなものなのだから。
静かな夜の大海原を、月明かりに乗じて錫杖を手にした道士が天風を御しながら飛来する、まるでそんな広大無碍な心境である。
目的地に飛んでいった僧侶のように、わたしも目的地を目指したい。

と言った内容である。

王陽明は官僚であり、そして陸軍大将として戦いを指揮してきた。その道中、苦難も経験し、後に「陽明学」という思想を生んだ人物である。その王陽明はこよなく茶に傾倒したと言われている。

宗匠曰く、煎茶は、隠棲した文人の趣向にあるよりも、激動騒乱の中で親しまれたのだ、という。

この書は、陽明学者で思想家の「安岡正篤」氏が、一茶庵でしたためた直筆書。







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蘇軾の心情を綴った「赤壁賦」。

2017-09-08 15:22:38 | 一茶庵「易社」
蘇軾の「赤壁賦」の詩の一節に「撃空明兮泝流光」というのがある。
その一節が、稽古の席に掛けてあった。
この「赤壁賦」は、後世に伝わった名文である。

赤壁は、ご存知の三国志で覇を競って大激戦をしたところ。
蘇軾は、魏の曹操や呉の周瑜の盛衰を偲び、自分の儚い身の上を嘆き、大自然の前では人間は儚いものであることを悟る。
虚心に明月と長江の清風とを楽しみ憂いを忘れた、という感慨を綴ったのが、この赤壁賦である。

この一節は、赤壁賦の中でも蘇軾の情緒心を最大限に表現した一文である。
訳すと、「空明(くうめい)を撃ちて流光に泝(さかのぼる)」となる。

今回の稽古は、この一節の、蘇軾の想いを感じるとるためには、イマジネーションを膨らますことが宗匠から求められた。
しかしながら、基礎知識があるわけではないので、過分な内容にあたふたするだけだった。

しかしながら、宗匠の誘導によって見えてきたストーリーは、
東山に月が浮かび、長江の水面の、白露のように光る月に導かれ、小舟は飛翔し天に昇っていく心地になる、という蘇軾の心情を綴った一節ということである。

お茶は、茶銚に茶葉を入れ、茶碗にとっていた冷水を、茶葉に掛からないようにゆっくり入れ、待つこと5分。それを茶碗に注ぐ。それを3煎淹れた。たなごころ、という淹れ方である。









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東寺の立体曼荼羅を訪ね。

2017-08-24 15:34:38 | 一茶庵「易社」
先日、久々の上洛した。以前から思いを馳せていたが、やっと実現した。その場所は「東寺」さん。講堂にある「立体曼荼羅」を訪ねた。
ご存知のとおり、弘法大師 空海が仏(悟り)の世界を、視覚で理解できるように、と解りやすく表現したのが、この「立体曼荼羅」と言われている。
それを改めて鑑賞したく訪ねた。

東寺さんのあと、西本願寺に参拝。阿弥陀堂と御影堂にお参りし本堂内でしばし寛がせていただいた。













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カワセミを眺めながら、冷水で淹れる煎茶を愉しむ。

2017-07-17 09:47:20 | 一茶庵「易社」
先日の煎茶の稽古は「翡翠」がテーマだった。掛けてあったお軸は宝石の翡翠ではなく、カワセミが描かれていた。

カワセミは、色合いがとても鮮やかなのでよく写真の被写体にもなっている。川で見かけるとだいたい2羽でいる場合が多い。つまり、オシドリ同様、つがいで行動する鳥である。

煎茶席では、このような日本画的に描かれている絵のお軸は珍しい。だいたいが墨画のものが多い。2羽いるはずのカワセミが1羽しか描かれてない。それもよく観れば、なんと悲しそうな表情になっている。

文学的にカワセミといえば”愛の象徴”の意味する。それが1羽で悲哀感が表現されている。ということは、待てども来ない愛しい人を想い悩む描写ということになる。

こんな悲哀の絵を鑑賞しながら、冷水で淹れる煎茶の味がだんだんと渋く変化していく。

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「詩」と「詞」の違いに戸惑う。

2017-07-16 16:12:33 | 一茶庵「易社」
「詩」と「詞」の違いを学ぶ機会があった。といっても理解度はかなり低いかもしれないが、なんとなくこうだろう、という薄識で書くのは気が引けたが折角なので題材をあげてみた。


翡翠屏開繡幄紅,謝娥無力曉粧慵,錦帷鴛被宿香濃。

翡翠の屏風が開かれ、幔幕(まんまく)に、刺繍のあげばりの中に、花の中に、頬を赤くする。あれほど美しかった妃嬪も年を重ね、寵愛(ちょうあい)を失えば無気力になり、夜明けの化粧をしなくなり、にしきのとばりの内におしどりの掛布も能(よ)く滲みこませたお香が強くかおる。

微雨小庭春寂寞,鷰飛鶯語隔簾櫳,杏花凝恨倚東風。

春の細雨は寝殿前の中庭には春なのに寂しさと空しさが広がり、ツバメが飛び交い、鶯が春を告げているのにすだれの籠檻(かんろう/自由がない)のなかで隔離されているようなものだ。杏の花の季節には恨みを凝り固まるものであり、東の風に向かって正門に倚(よ)りかかる。

世の中はすべて春を示しているのに、いつまで待ってももう寵愛を受ける事は無い。前段はそれでもなお、寵愛を受ける準備は常にしていなければならない閨(けい/寝屋)のようすを詠い、後段は、探春の宴、行楽に対しても準備だけはしていなければいけない外部の景色様子を詠う。


上記にあるのは「詞」である。煎茶で教えていただいているのは「漢詩」という中国の古典詩。このたび、「詞」が初登場したのでこんがらがっている。文字だけを見ているとまったく変わらないのだが、前段と後段の情景などが異なるのが「詞」と理解した。書いた日や時間が違うが、ただテーマが同じようなので全体の意味としてつながって成立する。
「詩」は、起承転結があって、すべての文字の中で意味が成立するものだと理解したら、わりとすっきりしたわけである。

前回でも書いたように、煎茶稽古は「翡翠」がテーマだった。鳥の「カワセミ」、宝石の「ヒスイ」が登場し話の展開がされていった。
ともに色が特徴で"美しい"が共通の認識である。カワセミはだいたいが番(つがい)で行動するが、描かれるのは一羽が多い。美しいヒスイは"高貴"をイメージする。高貴な女性が旦那さんや恋人がいるにもかかわらず、いつも独りで寂しい想いをしている情景を「翡翠」を題材に「詞」で表現したものを今回は教えていただいた。

独りでモヤモヤとしながらまとめてみたが、なにせ想像力に乏しいおやじには、ちょいと難解であった。








下段2枚の写真はYahooより転載

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