ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

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北神戸地域には、珍しい「農村歌舞伎舞台」が現存する。<バックナンバーシリーズ>

2017-02-28 10:49:54 | 伝統芸能
今日は神戸市北区界隈を廻った。ついでではあるが足を伸ばし、下谷上の天津彦根神社の境内にある「農村歌舞伎舞台」を観に行ってきた。3年前に訪れたときと何ら変わらないが、外観をみながら佇むだけで、当時行われていた歌舞伎や浄瑠璃などの舞台情景が浮かんでくるようだ。

江戸時代に農民の娯楽であった農村歌舞伎や人形浄瑠璃を上演する農村舞台がいまも全国で1000以上残っている。そのうちの1割が兵庫県内にあるという。その中でも北神戸の地には15の農村舞台があり、日本でもまれな農村歌舞伎舞台の宝庫として現存。当時は、農村芸能の盛んな地域だったことをうかがわせる。

この農村歌舞伎舞台(写真)は国指定重要有形民族文化財に指定されている。直径約6mの皿廻し式の廻り舞台で、特に花道の裏返し機構により反り橋が現れる仕組みになっている。これは全国でもここだけという。特徴のある舞台が保存されている。
そして、花道はもちろんだが、太夫座、回り舞台、二重台、大迫り(おおせり)、ぶどう棚など多種の舞台機構が備わっている。
江戸時代、農民たちが五穀豊穣を祈って、歌舞伎や人形浄瑠璃を楽しんでいたようだ。

現在は、数年に一度のペースで「農村歌舞伎」が開催されると聞いてはいるが、残念ながらその話が届いてこない。


実際に行われている農村歌舞伎舞台の写真は神戸市教育委員会のもの。





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「壬生狂言」は、歴史事象のあかし。<バックナンバーシリーズ>

2017-02-24 11:14:32 | 伝統芸能
この記事は、2016年5月に書いたものである。今年もGW内に「壬生狂言」と友禅作家のあだち 幸さんの壁画(壬生寺本堂)が公開される。

昨日、京都・壬生寺に行ってきた。いま本堂公開にあわせ「壬生狂言」が行われていた。
平成19年に、知人である友禅作家のあだち幸さんの障壁画と襖絵が奉納された際に観る機会があった。そして8年ぶりに再び壬生寺訪問が実現した。

壬生狂言を鑑賞するのは、たしか40年前になろうか。残念ながらそのときに観た内容や演目も記憶に残っていない。狂言についての知識などないにも関わらず久しぶりということもあって楽しみにしていた。

「壬生狂言」というのはそもそもどんなものなのかも理解が出来てないので、資料をもとに少し書いてみると、700年前の鎌倉時代に壬生寺を興隆した円覚上人が創始された。上人が「大念佛会(だいねんぶつえ)」という法会のときに群衆を前にして最もわかりやすい方法で仏の教えを説こうと身ぶり手ぶりのパントマイム(無言劇)に仕組んだ持斎融通(じさいゆうづう)念佛を考えついた。これが壬生狂言の始まりと伝えられている。しかし、一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、すべての演者が仮面をつけ、一切「せりふ」を用いず無言で演じられる。娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格をもっている。

近年は民俗文化財としての評価が高まり、昭和51年に国の重要無形民俗文化財として、京都府下では第一番に指定を受けた。また、狂言を演ずる大念佛堂(狂言堂)は、安政3年(1856)の再建ですが、綱わたりの芸をする「獣台(けものだい)」や鬼などが飛び込んで消える「飛び込み」などの装置を持つ、他に類例を見ない特異な建造物として、 昭和55年に国の重要文化財として指定されている。

といったことが資料にあった。1時30分開演ということで大念佛堂の観覧席に坐り第一演目を待った。その演目が「炮烙割(ほうらくわり)」。節分の際に素焼きの炮烙(茶道で灰を入れるお皿のようなもの)に家内安全を祈願するために名前などを書いて奉納。その炮烙を狂言で割ることで奉納者は厄除開運が得られる、というものである。それぞれの演目を公開する序曲のような演目がこの「炮烙割」である。割っている瞬間をよくニュースなどで見たことがある。
そして二番目が「土蜘蛛」だった。これも壬生狂言ではで代表的な演目のひとつ。土蜘蛛が撒く糸の華やかさがこの演目の醍醐味である。
(いずれも映像(you tube)で紹介しているのでご参照してください。)
https://www.youtube.com/watch?v=R2CWxlR1OnA
https://www.youtube.com/watch?v=LzrQjeRh-Tc

その後、本堂を拝覧した。中央に本尊「延命地蔵菩薩」が立ち、脇侍として右に掌善童子像、左に掌悪童子像があった。本堂を囲む障壁画や襖絵があだち幸さんの作品である。

ここ壬生寺にも歴史の証としていまの世に、次の世に伝えられる貴重なものをが豊富だった。





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妄想って、実に楽しい。

2017-02-23 14:04:53 | 一茶庵「易社」
今回の稽古は「玉露」。久しぶりの玉露だった。出席者全員がそれぞれ3煎づつ淹れた。それぞれに味が明確に異なる。1煎目はまろやかで甘さを感じる。2煎目はまろやかさの中に渋みが感じられ美味しくなっていく。これが玉露の醍醐味である。

今回の稽古は、実に盛り上がりをみせた。理由は、写真のお軸の画から想像が膨らみすぎ、妄想へと広がり独自の解釈が生まれた。それにたどりつくまで笑いが止まらない。そのきっかけをつくったのが、稽古仲間の"うなぎ博士"といわれているおじさん。

いつものとおり、この画を観て、季節はいつごろ? 画に登場している人物はなにをしている? などと想像を膨らませていくわけだが、画を描く約束事を知らない者には想像すらできない。だから妄想へと走る。

宗匠が、我々の妄想を軌道修正しながら画の解釈を進める。解釈を進める中、おじさんたちは、まず "艶っぽいストリー?" という切り口から始まる。
それはさておき、季節を感じ取るものがなんであるかを見定める必要がある。この画からは、中央に描かれている「柳」が、そうである。柳の伸び具合と青々した柳に感じられるかがポイント。そして中国の古典からいうと柳は惜別を意味している。そのことを知って押さえていれば、登場人物がなにをしているのかが見えてくるはずなんだが、我々にはほど遠い。川があり橋がかかっているから老人が釣り楽しもうとしているイメージの画に見えるのである。

むかし若かりしころ、この橋を渡った向こう岸で、好きだった女性と別たときのことを思い起こし、その人はいまどうしているのだろう、というのがこの画の正当な解釈になる。
我々おじさんたちは、むかし話ではなく、いま老らくの恋を楽しんでいる姿だと切り返してみた。なら、そこで宗匠は、そうであるならば、「好詩向過橋」ではなく、いまの老らくの恋に変えていく賛を考えてみなさい、と。

そこで、"うなぎ博士" のおじさんが、見事な賛を生み出した。
「雨過青天到春風」とした。お見事!!
やはり艶っぽい話にしてしまった。


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うめ、日本の女性像を映す。

2017-02-15 11:09:38 | 自然の美しさ
雪かぶり みえぬ姿に 香がたつ

さくらの華やかさに対し静なる美しさを醸す「うめ」。文化的郷愁のにおいが強いような気がする。
控えめであるが、香で存在感をしめす。日本の女性像を映しているようだ。







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京都ならではの時間が流れる。<バックナンバーシリーズ>

2017-02-14 11:29:35 | 歴史建造物
小雨降る中、京都へ行ってきた。
よく行く京都なのだが、今日は道中が長かった。
自宅から直行で京都駅まで。そしてバスに揺られて1時間と少し。
車中ずーっと居眠り。心地よい揺れに首が痛む。

目的地は嵯峨野の「大覚寺」である。
嵐山を経由して嵯峨野へ。何年ぶりだろう!! いや十何年もの時間は経っているであろう。

ご存知の方も多いとは思うが、大覚寺は真言宗大覚寺派の本山で心経写経の根本道場。そしていけばな「嵯峨御流」の総司所でもある。扁額には「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と書かれてあった。

この大覚寺は、大門をくぐり玄関から正寝殿、宸殿、御影堂、五大堂などをを回廊でつないである。その形が「コ」の字になっている。その中央に「石舞台」(屋外)がある。
その昔、石舞台で能や舞いを天皇や皇族が楽しんだと言われている。
その石舞台で来春イベントをすることになった。どんなことをするかはまだ未定であるが、まずは舞台を見てからのことに。

御影堂の階段に座ってしばし舞台を眺めていると(写真)、京都ならではのゆったりとした時間が流れてゆく。


記事は2007年11月のもの













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