以下引用 東京新聞 2017年9月21日 http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201709/CK2017092102000174.html
「合理的配慮という言葉について書かれた法律を、挙げてみてください。では、森君」
七月、筑波技術大大学院(茨城県つくば市)であった講義。指名された大学院一年の森敦史さん(26)が回答する。「障害者総合支援法です」。指で形を作って五十音の一文字ずつを表す指文字で、法律の名前を答えた。
同大は、視覚障害者と聴覚障害者のための全国唯一の大学だ。森さんはこの春、ルーテル学院大総合人間学部(東京都三鷹市)を卒業し、この大学院で学んでいる。一緒に学ぶのは、目か耳いずれかに障害がある人たちで、両方にある人は他にはいない。生まれつき盲ろうの人で大学、大学院に進んだのは、森さんが日本で初めてだ。
森さんの視力は、明暗や目の前に人がいるのが分かる程度で、形や色の区別は困難。眼球の真ん中は見えず、視界がドーナツ状になる。聴力も補聴器を着けると大きな声や音は分かるが、内容を聞き取るほどには聞こえない。
講義では、教授らが話した内容がリアルタイムでパソコンに文字化され、点字ディスプレーにも表示される。これを右手で読んでいく。一方、左手は、左隣に座って教室の様子を伝える通訳補助の手話を触って読み取っている。どんな学生が受講しているかなど、周囲の情報が伝えられる。
大学院に進んだのは、「盲ろう者でも不便なく情報が手に入る環境を整えたい」と、情報インフラを学ぶためだ。平日は毎日、一~二コマの講義を受講し、テーマに沿ったリポートも書く。基本二年だが、三年かけて修士課程を終える予定だ。
目と耳両方にハンディがあっても、勉強や周囲とのコミュニケーションには何の支障もない。手話や点字、指文字をすらすらと自在に使えるからだ。これを身に付けるのに森さんも幼少期から努力してきたが、その努力は決して一人だけのものではない。支援のたすきをつないだ両親や恩師たちの存在があった。
森さんは岐阜市内の会社員の家庭に生まれた。「目が物を追わない」と最初に診断されたのは四カ月健診でのこと。病院で全身を再検査したところ、耳も聞こえないかもしれないことが分かった。両親は原因と治療法を求めて病院を転々としたが、盲ろう自体が珍しく、医師から返ってくるのは気休めの言葉ばかり。結局、「治療する手だてはない」と、はっきりした診断を受けたのは、健診から一年が過ぎたころだった。
「思いっきり泣いたけれど、どう生活していくか。悲しんでいる余裕はなかった」と、母貞子さん(57)は振り返る。まだ、インターネットは普及しておらず、情報はなかった。「敦史のような子は、他にいないのではないか」と不安にかられた。そんなころ、人づてに盲ろう児を受け入れる施設があると聞き、二歳八カ月で通い出したのが、同市の難聴児通園施設「みやこ園」だった。
入園当初、貞子さんは、森さんが困らないよう付きっきりで手をつないでいた。それを見た当時の園長伊藤泉さん(76)はある日、何もない教室の真ん中でわざと森さんを一人にした。手の届く範囲に誰もいない場所に放り出されながら、森さんは表情を変えることも泣くこともなく、三十分間、ただ立ち尽くしていた。
「見えなくて聞こえないんだから、自分から体験させないと外の世界を知ることも、感情が育つこともない」
戸惑う貞子さんに伊藤さんはそう諭した。この出来事が、森さんが言葉を身に付けていくための第一歩になった。 (添田隆典)