今日の朝日のオピニオン欄 今こそ政治を語ろう 「宗教国家 日本」 星野智幸(作家ープロフィールをみると、65年生まれとあります。)を読んで 私も同じような体験をこの夏して、ものすごく落ちこんだことがあったので 紹介してみます。
意見広告の内容を考えるときにもアタマにいれておかなければならないことだと思うので。
内容を要約すると
年賀状のやりとりくらいで長らく会うことのなかった、子ども時代や、社会人時代の旧友たちと、久しぶりに会うと外見はおじさん、おばさんになっていても少し話せば、性格も声もたたずまいも昔のままである。ただし、話題が韓国や中国に及ぶまでは。彼ら、彼女らは、それまでとうってかわって態度が硬くなり、侮蔑的な口調で嫌悪を露わににするのだ。日本はもっと国防に力をいれるべきだと言い、特攻隊や戦没者への感謝を口にし、スポーツでの「日本人」の活躍を礼賛する。そしてそのような友人が一人や二人ではなかったという。彼ら彼女らは、筆者にいれば若いころには、決してナショナリスト的な考えなどまったくもっていなかったし、そもそも政治になんか関心がなく、おそらく選挙にもいってなかったような人達だったというのだ。
筆者はこの友人達の物のいいかたが、学生時代に少しだけ接触した、政治や宗教のセクトの人間とダブる感触があるという。価値観を共有しない他者(韓国や中国)を軽蔑し、自分たち(日本人)を優越視し、自分たちの考えを絶対化して信奉する姿が、セクトの人間の自分たちの正義を疑わず、絶対視し、批判者は敵だと、見なす攻撃性を隠さない特徴と重なるというのだ。
しかし、かってのセクトは少数者で社会から敬遠される存在だったのに対して今、上記のような主張をする人は決して少数でなく、彼ら彼女らは「普通の人が普通のことをいっているだけだ」と思っているのである。
そして、かつては政治に対し冷淡でそれを語るのはダサいと毛嫌いしていたはずの人達がナショナリズムに取り込まれた原因として、長年の経済停滞と、労働環境の悪化、いつか人生を転落するのではないかという不安、そこにおこった大震災と原発事故を挙げ、「日本人である」という絶対に傷つかないアイデンティティを渇望しているのだという。
「自分はまじめで粘り強く頭がよく、規律正しく、サムライ的な腹をくくれる強さを持ち、苦境を乗り越える力を持つ、そういう日本人の一人なのだ」と考えることは、個人が持つ劣等感を消してくれ、(心の)居場所をうしなうこともなくなる。
しかし、人々が「日本人信仰」を進んで求める社会では権利には責任が伴う民主主義を維持するのが難しい。
この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけではダメで、この社会一人一人のメンタリティを転換する必要がある。それにはまず、自分のなかにある、「日本人である」ことにたいする依存性を見つめよう。
というものです。
市民意見広告運動は
これからの社会のあるべき姿について私たちは今の政権の考えには反対で
1.日本の安保は非武装でする。
2.原発はいらない
3.経済最優先の政策は人々を幸せにしない
4.経済成長より、成熟社会をめざす
こういうことを意見として、「理屈」で説明しようとして運動をしているのですが、
どうも理屈だけでは説得できない状態になりつつあるのかなあと感じます。
「それでも日本人は戦争を選んだ」 が本当になるんだろうか。
この動きを押し戻すのは大変だろうけれど、でも、
12月6日に 国会前を埋めた、いろんな年代の人々の存在を糧に
「日本人」を信じて運動続けよう。
意見広告の内容を考えるときにもアタマにいれておかなければならないことだと思うので。
内容を要約すると
年賀状のやりとりくらいで長らく会うことのなかった、子ども時代や、社会人時代の旧友たちと、久しぶりに会うと外見はおじさん、おばさんになっていても少し話せば、性格も声もたたずまいも昔のままである。ただし、話題が韓国や中国に及ぶまでは。彼ら、彼女らは、それまでとうってかわって態度が硬くなり、侮蔑的な口調で嫌悪を露わににするのだ。日本はもっと国防に力をいれるべきだと言い、特攻隊や戦没者への感謝を口にし、スポーツでの「日本人」の活躍を礼賛する。そしてそのような友人が一人や二人ではなかったという。彼ら彼女らは、筆者にいれば若いころには、決してナショナリスト的な考えなどまったくもっていなかったし、そもそも政治になんか関心がなく、おそらく選挙にもいってなかったような人達だったというのだ。
筆者はこの友人達の物のいいかたが、学生時代に少しだけ接触した、政治や宗教のセクトの人間とダブる感触があるという。価値観を共有しない他者(韓国や中国)を軽蔑し、自分たち(日本人)を優越視し、自分たちの考えを絶対化して信奉する姿が、セクトの人間の自分たちの正義を疑わず、絶対視し、批判者は敵だと、見なす攻撃性を隠さない特徴と重なるというのだ。
しかし、かってのセクトは少数者で社会から敬遠される存在だったのに対して今、上記のような主張をする人は決して少数でなく、彼ら彼女らは「普通の人が普通のことをいっているだけだ」と思っているのである。
そして、かつては政治に対し冷淡でそれを語るのはダサいと毛嫌いしていたはずの人達がナショナリズムに取り込まれた原因として、長年の経済停滞と、労働環境の悪化、いつか人生を転落するのではないかという不安、そこにおこった大震災と原発事故を挙げ、「日本人である」という絶対に傷つかないアイデンティティを渇望しているのだという。
「自分はまじめで粘り強く頭がよく、規律正しく、サムライ的な腹をくくれる強さを持ち、苦境を乗り越える力を持つ、そういう日本人の一人なのだ」と考えることは、個人が持つ劣等感を消してくれ、(心の)居場所をうしなうこともなくなる。
しかし、人々が「日本人信仰」を進んで求める社会では権利には責任が伴う民主主義を維持するのが難しい。
この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけではダメで、この社会一人一人のメンタリティを転換する必要がある。それにはまず、自分のなかにある、「日本人である」ことにたいする依存性を見つめよう。
というものです。
市民意見広告運動は
これからの社会のあるべき姿について私たちは今の政権の考えには反対で
1.日本の安保は非武装でする。
2.原発はいらない
3.経済最優先の政策は人々を幸せにしない
4.経済成長より、成熟社会をめざす
こういうことを意見として、「理屈」で説明しようとして運動をしているのですが、
どうも理屈だけでは説得できない状態になりつつあるのかなあと感じます。
「それでも日本人は戦争を選んだ」 が本当になるんだろうか。
この動きを押し戻すのは大変だろうけれど、でも、
12月6日に 国会前を埋めた、いろんな年代の人々の存在を糧に
「日本人」を信じて運動続けよう。