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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

神武東征の意味する所

2018-03-04 16:19:26 | 歴史
久しぶりの投稿です。
神武東征とは、「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」が日向の地を出発して
近畿(橿原)の土地へたどり着き、初代天皇 神武天皇に即位するまで物語で
「古事記」の上巻(日本神話)の最後に登場します。

神武天皇も伝説上の人物で、神武東征も神話の一部と解釈する方が自然です。
・神武天皇即位の時が 紀元前660年2月1日(現在の建国記念日)
・45歳で日向を出発、52歳で即位、127歳で崩御
・八咫烏の道案内
時代背景も内容も人間業ではありませんね。
天皇家の歴史書として作成された「古事記」天照大神、素戔嗚と共に必須の登場人物であった事は間違いないでしょう。

さて、先の投稿 古代日本の遺跡の分布
古墳の分布

神武東征の移動地図

まさに一致するのです。
物語は、日向を出発した神倭伊波礼毘古命一同は、筑紫、安芸、吉備(山陽の豪族)の協力を得る
近畿では、長髄彦が反対し、戦い、苦戦の結果、八咫烏の道案内により勝利し、近畿地方をまとめる。
実際は、古墳時代(聖徳太子らの飛鳥時代の前)の出来事でしょう。
古事記で紹介されている
・「出雲の国譲り」で山陰地方は既に、天照大神の一族の国の配下へ(多分、古墳時代前期、4世紀程)
・「神武東征」山陽地方が加わる。
・近畿の長髄彦は争いに負ける。(古墳時代後期 5~6世紀頃)ではないでしょうか。
実際に、飛鳥時代(ヤマト朝廷)では、朝鮮半島から、仏教や漢字が近畿山奥の奈良(明日香)へ伝来します。
九州、中国地方、近畿地方を掌握していなければ、人材の移動が出来ません。

592年 39代推古天皇(女帝)即位
遣隋使派遣、冠位十二階や十七条憲法を定めるなどの年代は信憑性があります。
初代天皇即位が、古墳時代中期 西暦500年位
39代推古天皇即位が592年の100年程であれば
だいぶ、架空の歴代天皇が書き加えられています。
宮内庁が指定している古代天皇家のお墓(古墳)も近畿の各豪族の古墳をだいぶ使用している事になります。

魏志倭人伝に紹介される卑弥呼の邪馬台国が3世紀前半
「古事記」に紹介される
出雲の国造り(大国主ら)が古墳時代初期(3世紀後半から4世紀前半)
同じ時期に、九州、山陽(安芸、吉備)も豪族が力をつけて古墳を作る。
出雲の国譲りが4世紀後半
神武東征で山陽地方がまとまるのが5世紀
ヤマト朝廷が近畿をまとめるのが6世紀で
飛鳥時代が6世紀後半
と歴史のつながりが出来ます。
「古事記」の上巻(日本神話の部分)も正確ではありませんが
当時の歴史を伝えていると思います。


邪馬台国まで 12000里 と水行10日陸行1月の誤差

2018-01-28 18:59:15 | 歴史
魏志倭人伝に紹介されている邪馬台国までの道程ですが
・(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
・南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。
九州説では、南(行)水行十日、陸行一月の出発点は(帯方)郡だとします。
そして、水行10日は、帯方郡が住行10日でちょうど10000里です。
水行10日が一日1000里で10日です。
そして、末盧国から奴国まで600里で陸行6日、陸行一日100里とすれば
邪馬台国まで、陸行2000里、20日のはず。
陸行1月は、28日(或いは27日)で、7日(或いは700里)の誤差が発生してしまいます。

さて、水行10日で末盧国(或いは宗像市、不弥国)に着いたとして
残り、陸行が2000里で邪馬台国
一日100里で計算したら20日のはずが、28日
1.4倍の誤差が発生します。
誤差で良いのか??
以前から、この誤差が気になっていました。

単純に誤差の可能性もあります。
陸行ですので、昼間の日照時間帯が移動可能な時間です。
実際には
・景初二(三)年の朝献 難升米(なしめ)等が洛陽に向かったのが6月
・「親魏倭王の金印」を卑弥呼へ贈ったのが12月ですので
ですので、行きが夏で20日程だったので12000里
帰りが、冬で陸行28日ほどかかったので陸行1月の表示になった。

もう一つの可能性は
一日100里進むのが難しい地理があった。
邪馬台国(熊本県の大牟田、八女辺りとして)から末盧国(松浦半島)へ博多(奴国、伊都国)を通らずに
佐賀、伊万里経路を陸行で移動した。
距離的にはあまり変わりませんが、玄界灘連合(奴国連合)と有明海側連合があったとすれば
博多(奴国、伊都国)を避けた可能性はあるはずです。
では、有明海側(佐賀市経由)のどこに難路があるのでしょうか。
問題は、筑後川です。
河口では幅100mほどあります。
当時の橋は、大きな木を渡すぐらいですので数m位が限界です。
船を使わずに筑後川を渡るためにかなり上流へ移動したはずです。
直線距離では大牟田<=>佐賀は近くても
陸路では大牟田、鳥栖辺りまで川を登り宿泊して、川を下ります。
3~4日は多くかかってしまったでしょう。
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎であれば
華奴蘇奴国から末盧国までは15~20日はかかったでしょう。

もう一つの誤差が
邪馬台国の大きさです。
奴国(博多湾)が5万戸で、邪馬台国が7万戸ですので
国の大きさもかなり広かったでしょう。
邪馬台国の端から、卑弥呼の建物までも1日以上かかった。
これらを加えると、2000里が陸行28日かかる可能性は十分あります。
陸行1月=2000里の計算が十分誤差の範囲に入ると思うのですが、如何でしょうか。

佐賀県 基山は?

2018-01-28 18:55:59 | 歴史
先の投稿
邪馬台国を発見② 投馬国の比定地から絞り込み
 9番目 対蘇国(とすこく)      鳥栖、多久
10番目 蘇奴国(さがなこく)     佐賀
11番目 呼邑国(おぎこく)      小城
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎
では?と紹介しましたが、地図を見ていて気だ付いた地名に
佐賀県三養基郡基山町 と 基山という山です。

13番目 鬼国(きこく)         基山
確かに、神崎市に近いです。

15番目 鬼奴国(きなこく)
16番目 邪馬国(やまこく) 二つ合わせて 基山

19番目 支惟国(きくこく)       基山
20番目 烏奴国(あなこく)       鳥栖
21番目 奴国(なこく)         博多
ちょっと順番がずれますが、現在のJR鹿児島線上です。

13番目 鬼国(きこく)         基山で
だいぶ博多に近いので
残りの7ヵ国は大分、別府側の国ではないでしょうか。
博多までの地名では
大宰府、二日市などがありますが
奴国が博多になったように後の地名です。
14番目 為吾国(いごこく)辺りが該当している可能性もありますよね。
ちょっと気になったので追記しておきます。
倭国の30か国は
玄界灘の松浦半島から博多、宗像市まで玄界灘湾岸
博多から有明海側を通る現在のJR鹿児島線、長崎本線の国々
北九州市から大分、別府、宮崎に通じる周防灘、太平洋湾岸の国々
の3つの経路上ではないでしょうか。
そして
水行20日の 投馬国
水行10日陸行1月の邪馬台国がひときわ大きな国です。
周囲5000里の倭国は
松浦半島から有明海、熊本(大牟田、八女)、大分・宮崎で収まりそうな気がします。

古代日本の遺跡の分布

2018-01-27 19:50:53 | 歴史
日本の遺跡で検索するとWikiで
旧石器時代
縄文時代
弥生時代 で一覧が見れます。
以前よりこれをうまく集計してグラフにでも出来ないかなと考えていましたが
画面を見ながら数を数えるのも億劫で
エクセルの関数を使ってみたら意外と簡単に集計出来ましたので、そのグラフを紹介しておきます。

エクセルの使い方を勉強したい方は、是非
エクセル塾 目次(Vol 1)
を参考に勉強してみて下さい。


しかし、完ぺきではありません。
Wikiを見ても、京都市の遺跡が少ないですし、東京、神奈川も少ないような気がします。
歴史を見ると、平安京、鎌倉、江戸時代と時代がありますので、過去の遺跡が壊されてしまったのでしょう。
もちろん、地域の面積も違います。
おおざっぱな意見ですが
旧石器、縄文時代は東日本に多い
・長野や山梨など内陸部の盆地も
・文化の広がりは東北から西へ移動したのでしょうか。
弥生時代
・九州など西日本に多い
・農耕文化は河川地域
・高床式建物などで定着して住む
・弥生文化は大陸から伝わり九州から東へ移動していった。

古墳時代
遺跡と云えば、古墳になります。
古墳の分布図です。

・弥生時代同様、西日本に多い
・大型古墳と云えば近畿である。
近畿、山陽、福岡(玄界灘側)、宮崎(太平洋側)に集中しています。
(有明海側にありません)
何となく、神武東征の移動図に一致します。

日本神話の「天孫降臨」から「神武東征」は古墳時代を表現しているのではないでしょうか。
出雲の国造(大国主命)も同じ時代の山陰地方です。
瀬戸内海の山陽連合国 VS 出雲を中心とする山陰 に権力が二分していた事を表現しています。
まだ、漢字が無い時代ですので、代々語り伝えた事になります。
平安時代に「古事記」で文字になりますが
神話という形で表現します。
高天原の天照大神と素戔嗚は、弥生時代で間違いないと思いますが、如何でしょうか。

九州の邪馬台(ヤマト)国 と 近畿のヤマト朝廷

2018-01-08 17:24:17 | 歴史
魏志倭人伝に紹介される卑弥呼の邪馬台国
九州説では、九州北部で250年程までの事が記載されている。
飛鳥時代に近畿(奈良)に登場するヤマト朝廷
後に「古事記」「日本書紀」に紹介される。
但し、初代神武天皇即位を大陸の紀年を取り入れたため年代がめちゃくちゃ

この二つのヤマトの国を、うまく説明しないと邪馬台国九州説が成立しません。
邪馬台国近畿説で考えると簡単です。
「200年に倭国の女王として、魏の国へ貢物を贈ったのは、近畿(奈良)のヤマト朝廷の女王 卑弥呼」
その後、発展し4~500年位までの西日本を統一した。
しかし、
・ヤマト朝廷の先祖を紹介する日本神話では、天孫降臨が九州で、神武東征の物語がある。
この必要性がわかりません。

残念ながら
・卑弥呼死後、250年位以後の倭国の紹介が大陸の史記に出てこない。
・日本に漢字が伝わるのが4世紀以後で近畿、九州共に歴史が文字で残されていない。

わずかな手がかりが
・七枝刀
・広開土王碑
・倭の五王の手紙
・筑紫碧井の乱
です。

・七枝刀
369年 百済の王が倭の王の為に作って送った刀
この時代、倭と百済は友好的な関係であった。(或いは支配していた)
卑弥呼の死後から100年以上後の事です。
世代では、10代近くかかったいるでしょう。
ここで国の名前が 倭 です。邪馬台国の後継者 なのか ヤマト朝廷の先祖なのか
ここで、 大和 の漢字が使われていれば良かったのですが。
倭の王は
・魏志倭人伝で最後に王として紹介された、女王 卑弥呼の後継者の可能性が強い。
・朝鮮半島の百済に最も影響力を持っていた国の王
この時代
・既に西都原古墳の船形埴輪に見られる様に大きな船を作る力があった。
・瀬戸内海航路で交易が出来る。
・近畿でも鉄器類の遺跡が多数出てくるようになる。
既に、近畿の王が力を付けています。
・広開土王碑(高句麗時代の王)
倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民とした。(倭国が朝鮮半島を支配)
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
大陸で魏が滅び、宋、五胡十六国時代になり国が乱れる。高句麗か力を増す(304年~)
倭国が大陸と交易が出来なくなり、朝鮮半島(百済、新羅)と交易した時代。
第一の疑問 この時代に朝鮮半島を支配していた一族とは?

・倭の五王の手紙
413年 - 478年
中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王(讃、珍、済、興、武)が朝鮮半島を支配しようするがかなわず。
宋の皇帝へ応援の手紙を出す。安東将軍倭国王など多数の位を得るが、兵を引き上げる。
第二の疑問 支配を高句麗に奪われた後も軍を送り続けた国は?五王は天皇なのか?

筑紫磐井の乱
古事記、日本書紀に紹介される527年 九州の筑紫碧の反乱
・南加羅の支配を新羅に奪われている。
・近畿のヤマト王権が新羅討伐の軍を贈る。
・筑紫磐井が新羅側につき妨害する。
・ヤマト王権(継体天皇)が麁鹿火に命令して筑紫磐井を討伐
500年には朝鮮半島の支配(南加羅まで)を失っています。
たぶん、朝鮮半島の支配より、新羅から倭国が攻撃される可能性があったのではないでしょうか。
九州の玄界灘湾岸(旧伊都国、奴国、宗像、大宰府)が重要な拠点になっています。

300年代後半から500年まで大体の歴史が伺えます。
卑弥呼の死後(魏が滅んだあと)、倭国は朝鮮半島を支配する様になっている。
400年には、高句麗に支配を奪われ始める。
朝鮮半島の支配に力を入れるが478年には軍を引き上げる。
更に、527年に新羅討伐を行おうとします。
倭国は、何故、朝鮮半島の支配にここまで力を入れたのか?
ちょっと不思議です。
この時代に、百済から仏像が贈られて仏教や漢字が伝わり飛鳥文化が出来ます。
氏姓制度で、天皇の身の回り、地方を支配する権力を制度化します。
律令制が徐々に完成してきます。
近畿のヤマト朝廷の完成です。

もう一度、朝鮮半島(百済、新羅)、九州、近畿、出雲の歴史を重ねて考えてみます。

大陸の史記 三国志(魏志倭人伝)と後漢書

2018-01-07 19:48:26 | 歴史
古代の日本を知る手掛かりが大陸の史記しかありません。
・三国志(魏蜀呉の三国の歴史) 283年に呉の出身であり、後に晋の役人となる陳寿か完成したとされています。
 その中に、魏志倭人伝と云う章があり、古代の日本(倭国)の事が書いてあります。
・後漢書 宋の時代(5世紀)に、范 曄(はん よう)にて完成
大陸の歴史は
秦(しん)紀元前778年 - 紀元前206年 始皇帝で有名
漢(かん)通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)
魏・食・呉の三国志の時代(魏 220年 - 265年 皇帝から238年「親魏倭王」に金印が卑弥呼に贈られる)
西晋(せいしん)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。
五胡十六国時代
宋(そう)420年 - 479年 と権力の移り変わりです。

何と、魏志倭人伝 より 300年近く遅れて 後漢書 が完成しているわけです。
後漢書は、漢の時代だから、三国志(魏志倭人伝)より前だと、私も勘違いしていました。
更に、陳寿の三国志に「謝承後漢書曰」 つまり 後漢書を参考にして書いた とあるのです。
なになに??
実は、『後漢書』(呉の謝承 中国後漢末期から三国時代の呉にかけての人)から始まっていたのです。
謝承の『後漢書』は、250年位、陳寿の三国志より前に完成して、陳寿は謝承の『後漢書』を参考にして書いていたのです。
247年が卑弥呼死亡ですので、邪馬台国の時代を、後漢書、三国志(魏志倭人伝)はかなり正確に記述しているはずです。
250年から283年の出来事は、新たに陳寿が知り書き加えた記事という事になります。
魏志倭人伝の記載をまとめると
・漢の皇帝から「漢委奴国王」の金印が贈られる・
・倭国大乱がおきている。
・卑弥呼が女王に推薦される。
謝承の『後漢書』
・魏の皇帝が卑弥呼に「親魏倭王」に金印を贈る
魏書から記載
・卑弥呼の死
・台与が女王になる。
陳寿が調べた事
では、無いでしょうか?

倭国の国々ですが
・狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国は、古く漢の時代よりあった。
・帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。 水行10日陸行1月 は魏の時代にわかった。
・投馬国 水行20日 は、後に台与の時代にわかった事
陳寿は、過去の史記を引用、魏の時代以降の事実を追加した書物に思えるのですが
如何でしょうか。



  

邪馬台国を発見② 投馬国の比定地から絞り込み

2018-01-01 00:05:32 | 歴史
さて、前投稿 邪馬台国を発見① 九州説派?近畿説派?の続きです。

魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国は 九州説です。
倭国は周囲5000里ですので
長崎、佐賀、福岡、大分、熊本(北部)の地域です。
邪馬台国は、その南側に位置しています。
有明海沿岸、福岡内陸部、大分、宮崎内陸位まででしょうか。

まずは魏志倭人伝に出てくる
・水行20日でたどり着ける投馬国の場所とその航路を考えてみます。
邪馬台国まで水行10日陸行1月です。
投馬国の水行20日も帯方郡を出発地でなくてはおかしいです。
その航路は
帯方郡から末盧国(松浦半島)まで水行10日です。
松浦半島から玄界灘を東へ進んだのでしょうか。
それはあり得ないのです。
伊都国に一大卒と呼ばれる役人がいて物々交換の検査をしています。
伊都国で上陸することなく玄界灘を東へ進んでしまう事は一大卒が許すわけがありません。
投馬国への航路は
帯方郡から狗邪韓国(7日)対馬、壱岐(2日)==>宗像市の大島です(壱岐から1日)
帯方郡から宗像市まで水行10日です。
(ひょっとしたら対馬から宗像市へ直行して水行9日かもしれません)
当時の最強国 伊都国と奴国を通ることなく大陸と交易できる航路が出来ます。
末盧国経由は漢の時代、1世紀ごろです。
魏の時代には、船も大きくなり壱岐から福岡の宗像辺りまで一日で渡航出来る様になります。
宗像一族が力を付けた時代です。
・そのまま、関門海峡を渡り周防灘を南下すれば、10日もあれば十分に日向、西都原付近まで行けます。
・もし投馬国が ズマ国と発音、出雲国であっても、日本海側を東へ進めば、鳥取県出雲市へ着くことが出来ます。

投馬国は、日向、或いは出雲でしょうか、この宗像経由の航路が邪馬台国を特定する重要なヒントです。
邪馬台国の候補地で
三門、朝倉など福岡の山間部、大分、宮崎の候補地が消えます。
理由
邪馬台国は水行10日の後に、陸行で1月かかります。
末盧国から奴国、不弥国まで陸行6,7日ですので更に山道を20日程で朝倉は可能性がありますが
宗像市まで水行10日で行けるのですから、福岡、大分の候補地は近すぎる事になります。
別府、大分、宮崎、日向など湾岸の国は船で行けますので陸路は不要です。
対象外です。
邪馬台国は有明海側の国です。

ここで、魏志倭人伝に紹介される新しくわかった国20国を見てみます。
奴国から順に並んでいると思われますので、ちょうど真ん中あたり
 9番目 対蘇国(とすこく)
10番目 蘇奴国(さがなこく)
11番目 呼邑国(おぎこく)
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく)
の南側に大国 邪馬台国が位置しています。
実は、これらの国名が現在、ある地域が集中しています。


 9番目 対蘇国(とすこく)      鳥栖、多久
10番目 蘇奴国(さがなこく)     佐賀
11番目 呼邑国(おぎこく)      小城
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎
です。
ひょっとしたら、奴国の手前 烏奴国(あなこく)が鳥栖かもしれません。

もうひとつ、宗像で船を下りて佐賀へ向かうには博多(奴国、伊都国)を通過することになります。
大国 伊都国、奴国に知られずに佐賀へ到着する陸路のルートを考えます。
水行で末盧国で船をおりますが、あえて松浦半島の西側 玄海町側に舟を付けます。
陸路で伊万里(巴利国(はりこく))=>多久、武雄を経緯して佐賀、神崎辺り(吉野ケ里の近く)へ陸路を歩きます。
そして、更に南下すると
筑紫川流域の有明海湾岸が 邪馬台国です。
人口7万戸で博多湾の奴国より広い地域だったでしょう。
筑紫川から熊本市付近までが邪馬台国の領地です。

その南側にある狗奴国
熊本の八代には球磨川があります。この辺りが狗奴国です。

では、次に卑弥呼が祈祷を行った宮殿は何処になったのでしょうか。
似ている建物は、吉野ケ里の環濠内の集落です。
こちらは特定できません。
また、この地域に ヤマト に比定できるような地名が無いのです。
実は、奈良飛鳥のヤマト朝廷により消されます。
その地は、架空の国 高天原 に変更されたのです。

・卑弥呼に贈られた親魏倭王の金印は何処
 金印は卑弥呼の手元ではなく、伊都国、或いは宗像で交易に使われたでしょう。
 魏が滅んで大陸との交易が出来なくなったら不要です。
 他の形に変えられてかもしれませんね。
・卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡は
 鏡の他にも沢山の絹など生地が贈られています。
 大勢の女性と共に生活していたこともきちんと伝わっています。
 意外と鏡も、一枚づつ女性に配られたかもしれませんね。
 卑弥呼が使った鏡だけが特別なものだったのでしょうか。
・直系100歩の卑弥呼の墓は
 100人の殉職者と共に埋められています。
 当時は、まだ甕棺ですし、卑弥呼が生前に墓を作らせたとも考えられません。
 中央に卑弥呼を入れた甕棺、周囲に仕えていた女性陣も生きたまま甕棺に入る。
 穴を掘って、甕棺を埋めて上に土を盛っていく。
 弥生時代の集合墳に近いと思います。
 但し、魏志倭人伝に直系(丸い)100歩、手前に儀式の場所がある
 と記載された事から、後の前方後円墳が出来たのではないでしょうか。
 古墳時代に王が生前に作る竪穴式石室、横穴式石室 や 石棺ではないはずです。
 ましてや石室の中に沢山の鏡が置かれる儀式も後の事です。
 弥生時代の集合墳で中央に身体を折り曲げた形で一枚の鏡を抱いている女性が卑弥呼です。
 古墳の様にはっきりとしたお墓ではないでしょうから、見つけるのは至難の技ですね。
現在思いつく所はここまでです。

今年も古代の人々の気持ちを考えなら当時の歴史を紐解いてみます。
歴史の祠(ほこら)これからも宜しくお願いします。

それにしても昨年は、北朝鮮の各・ミサイル開発、中国の領土拡大 と
更に協力な武力、経済力をもって東アジアの地域支配を変えようとしています。
中国大陸、朝鮮半島では2000年前の歴史がまだ続いているのでしょうか。
2000年を経過しても人間の本質は成長していないのかもしれませんね。

邪馬台国を発見① 九州説派?近畿説派?

2018-01-01 00:01:26 | 歴史
新年あけましておめでとうございます。

新年早々ですが、邪馬台国の場所を指定いたします。
九州説
近畿説
について書いてみます。
上記サイトにそれぞれの主張があります。
皆さんは、どちらの説が有利だと感じられますでしょうか。
私は、九州説です。
邪馬台国の紹介があるのは、魏志倭人伝など大陸の史記です。
当時の倭国には、漢字がありませんでした。
邪馬台国は
・帯方郡(平壌)から、壱岐・対馬を経緯して12000里
・博多湾の奴国まで、10500里
・倭国は周囲5000里(博多湾の奴国を含む)
・倭国の東が海で、船で渡ると倭人が住んでいる。
・南に狗奴国があり、更に南に舟で渡ると歯黒国、小人国がある。
・南水行10日陸行1月は、帯方郡から末盧国まで水行10日と一致
で九州説に一致するのです。
対して、近畿説の反論は
・南は東の間違いで、博多湾の奴国から東へ水行10日(瀬戸内海)陸行1月(山陽から奈良まで)と主張
・東の倭人は、琵琶湖 或いは 伊勢湾の反対側に住んでいた倭人
という事になります。
しかし、もし東を南と間違えたとなると奈良にある邪馬台国の
南にある狗奴国は 実は、北にある狗奴国は京都
更に南にある歯黒、小人国が日本海の島々??
海の向こうの東にある倭種の国は、奈良の東にある海??
どう見ても矛盾が矛盾を広げます。

邪馬台国近畿説を主張するのであれば、邪馬台国=ヤマトと発音
後のヤマト朝廷=倭国=邪馬台国 の主張の方が力強く感じます。

次に九州説の反論です。
ヤマト朝廷が歴史に出てきたのは4世紀後半
邪馬台国が紹介されたのが2世紀末~3世紀前半
異なる国である。しかし、ここまで呼び方が似るでしょうか。

考えられる事
・奈良の倭の一族が魏志倭人伝など大陸の史記を読んだ。
・漢字が読める、理解できるレベルであった。
確かに、飛鳥時代には仏教が伝来し、より難しい仏典が伝わっています。
・飛鳥文化は、朝鮮半島の文化である。
・奈良に住んでいた一族が大陸の史記を理解した。
 自国の名前を 倭 と云う漢字を、読み方を ヤマト と名乗った。
ではないでしょうか。

もう一つ気になるのが、天皇家の正当性を主張する「古事記」「日本書紀」に登場する神々
日本神話です。
高天原に住む天照大御神の子孫、ニニギが天孫降臨した国が高千穂
日向で国を作り、初代天皇 神武天皇の神武東征
(日向を出発、北九州、瀬戸内海の安芸などを経由、大阪湾で敵に阻まれ、和歌山から奈良の土地へ移住する物語)
近畿説では、天皇家の正当性の主張で歴史の事実は関係ないと主張されていますが
もし、奈良のヤマト一族の血統を主張するのであれば
天孫降臨の土地が奈良の明日香
出雲と九州が奈良の天照大神に国譲りを行うストーリーにすべきだったはずです。

当時、明日香の一族に魏志倭人伝を伝えた朝鮮人は、邪馬台国は九州であったと教えたのです。
その話は明日香の一族以外大阪や出雲の国でも知られています。
倭(ヤマト)国と名乗る以上、九州地方へ天孫降臨、神武東征の物語を挿入せざるを得なかったのです。
もちろん、卑弥呼は、天照大神として登場させます。
「古事記」を作成する以前より、飛鳥のヤマト王(26代継体天皇位??から)は、九州の邪馬台国の女王 卑弥呼の子孫であると
主張して西日本の統一を推進したのではないでしょうか。

実際は、縄文時代から日本に住んでいた倭人は
・徐福など始皇帝から逃げて来た大陸人が新しい弥生文化を取り入れた(紀元前4世紀位から)
・そこへ漢の役人一大卒が伊都国を作り玄界灘湾岸を支配(1世紀位)
・有明海側で、一大卒の影響を受けずに邪馬台国が続いた。
・三国時代に、更に大陸から移住する人がいた(3世紀位)
・魏が滅びると高句麗が大陸との交易を出来なくして
・百済から瀬戸内海経由で大坂へ
・新羅から出雲へ朝鮮人が移住した(4世紀位)
この時に漢字と史記が伝わる。
そして、飛鳥の一族が古代から倭国に住んでいた一族
(邪馬台国、安芸、備前など奈良の明日香の一族が倭国の正当な民族であると主張した)が
正当な倭人であると主張する為に国をまとめた

飛鳥人、邪馬台国人 VS 大阪、出雲の朝鮮人 の分離です。
九州~瀬戸内海~近畿(大阪湾を除く)一族を天照の子孫(天皇家の本家)
鉄製武器で有利に立つ出雲は、スサノオ(分家、元は兄弟)
として、古くから住む倭人と
挑戦、大陸から移住民族との統合を可能にしたのです。

この事実は、平安時代まで語り継がれ「古事記」「日本書紀」になり
古くから死後の世界への信仰もありましたので
・太陽神(生きる、昼間の神)天照
・闇の神(死後の国、夜の神)月読(月夜見)
・争いの神(戦争、武力の神)素戔嗚
の三人の神様を擁立して、天皇家(倭人の祖先)は天照大神
とする日本神話が完成します。  
現在の伊勢神宮・出雲大社の神社制度なります。
天皇家か勝手に作り出した神々の神話ではなく、当時の状況、知りうる歴史を参考に
完成した物語だと思います。

天皇家の三種の神器も
・縄文時代から倭国に伝わる勾玉
・魏国から卑弥呼に贈られ、儀式に使っていた鏡
・素戔嗚が天照に渡した鉄の剣
きちんと物語になっています。

長くなりましたが、邪馬台国は九州北部で決定します。
さて、では邪馬台国は九州の何処にあったの??
次投稿で更に邪馬台国の場所を絞り込んでみましょう。

神道と仏教の死後の世界

2017-12-29 19:17:11 | 歴史
平安時代に作成された「古事記」「日本書紀」には神話と云う形で神道の始まりが表現されています。
飛鳥時代には、朝鮮半島から仏教が伝来しており、平安時代にも奈良の大仏様など多くの寺院が建てられています。
双方での死後の世界について考えてみます。
仏教
・現在、私たちが知っている仏教の多くは鎌倉新仏教と呼ばれる宗派です。
 (浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などが出来ます)
当時の日本に伝わった仏教は小乗仏教
 (大乗仏教は、御釈迦様の教への修行を実行しよう、小乗仏教は御釈迦様の教えを広めよう)
・死後に悟りを開くための修行を行う場所が天国、悟りを得ようとしない人が地獄へ行きます。

神道
・死んでしまうと黄泉の国へ行きます。
・誰もが醜い姿になっていて、出口は大きな岩でふさがれています(イザナギの神様がふさいでくれました)
・天国(高天原)には天照大神様など神様だけが住んでいます。
・天照大神は伊勢神宮、素戔嗚の神様は出雲大社に鎮座されており我が国の平和と発展を見守ってくれています。

仏教と神道の双方とも国を加護する意味が強く、各家庭のご先祖様を供養して、ご先祖様が見守ってくれると云う意味合いは薄いようです。
しかし、古墳時代は先祖供養の時代であり、集合式ではあっても、誰もがお墓に埋葬されています。
葬儀の儀式があった事も魏志倭人伝に紹介されています。
死んだ方が蘇ってくる事は恐怖であったのでしょうか。
現在の仏教のおける死後の世界、良い行いをした人は天国へ、悪い人は地獄へ落ちると云う観念はなかったようです。
その様な時代に伝わって来た仏教も国(倭国)を災いや天災から守ってくれる教えであったようです。
一度は、仏教の中に天照大御神が組み入れたりしますが、神仏分離の形で仏教と神道が別れていたのが当時の平安時代です。

古墳時代の大きな古墳も、その国の王が権力の象徴として生前に作ります。
現在のお盆になるとご先祖様が返ってくると云う発想は、仏教、神道双方になかったのではないでしょうか。

天照大神、素戔嗚の時代は特定できます。

2017-12-23 20:05:51 | 歴史
「古事記」の記載を読む限り
初代神武天皇の神武東征が紀元前660年になります。
その4代も前の神様である天照大神、素戔嗚の物語は、数億年前のお話という事になり
神様たちの寿命には驚かされます。
作り話で年代を調整している事は間違いないのですが
神話の中に、この二人の物語の年代を特定できるお話があります。
三種の神器、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣です。
八咫鏡・八尺瓊勾玉は、照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際に
石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。
この鏡は銅鏡ではなく鉄製の鏡とされていますが、遺跡から発見されるのは銅鏡ばかりです。
卑弥呼が魏から贈られたのも銅鏡で、倭国で複製された鏡も銅鏡です。
弥生時代の鉄器の分布ですが、
九州北部で弥生時代中期
出雲、九州中部で弥生時代後期
近畿では古墳時代です。
八尺瓊勾玉は、玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。


・草薙剣
素戔嗚が天の岩戸の事件の後、高天原を追放され出雲の土地へ降りて、やわたの大蛇を退治
最後に尻尾を切り落とすと自分の剣が折れて、出てきたのが草薙剣
素戔嗚が持っていたのが青銅製の矛、新しく手に入れたのが鉄製の剣です。
素戔嗚が草薙剣を手に入れたのは、弥生時代後期です。(卑弥呼と同じ時代)

つまり
天照大神は、弥生時代中期から後期
素戔嗚は、弥生時後期の人物を物語にしています。
それは、魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の卑弥呼の時代になります。
卑弥呼は
・鏡を使った祈祷を行う
・生涯独身の女性
・1000人の女性陣(多分、巫女)がいる。
・倭国の女王の推薦される。
卑弥呼が亡くなるが、まもなく台与が女王となる。
天岩戸の物語では
・素戔嗚のいたずらで、天照大神の下で機織をしていた女性が亡くなる。
・天照大神が天の岩戸に隠れる(卑弥呼が死亡する)
・天の岩戸から出てくる(台与が次の女王となる)
・素戔嗚が追放される。
・邪馬台国と投馬国(ズマ国)共に比定地確定せず。

イザナギが産んだ三貴神
・月読見(月夜) 黄泉の国(死者の国)を治める。
・天照(高天原に残る太陽神)
・素戔嗚(出雲に降りて国造り、戦いの神様)
は弥生時代後期から古墳時代初期
国譲りの物語
素戔嗚の子孫がアマテラスの子孫に出雲の国を譲る物語は
古墳時代後期から飛鳥時代(ヤマト朝廷初期)の物語
・魏志倭人伝に紹介される邪馬台国と卑弥呼
・鉄器の分布
・ヤマト朝廷の始まり
と歴史の事実と一致します。
蘇我氏VS物部氏(2/3) 仏教派と神道派
聖徳太子が6世紀末で、33代推古天皇(女帝)です。
わずか3000年程時代に、天照大神、素戔嗚の時代から初代神武天皇(天照~4代目)、33代推古天皇が凝縮されている事になります。
一代20年程で計算すると10人程は実在せず、或いは挿入された天皇家とは無関係の国王ではないでしょうか。