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茨城から発信します 笠間の木村武山記念館

2013-11-01 07:00:00 | 茨城紹介

木村 武山は、明治9年旧笠間藩士木村 信義の長男として生まれました。

明治23年地元の小学校を卒業後に上京、東京開成中学校に

入学していますが翌年東京美術学校普通科に編入しました。

ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け、

以後画家としての人生を観山と共に歩んでいます。


明治29年9月に卒業後も同校に留まり、

日本画研究科へ進み同年日本絵画協会第一回展に

「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受けています。

映画「天心」でこちらを向いているのが菱田春草でした  

明治31年2月には平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。

同年10月に創立された日本美術院に参加、副員から正員になっています。

明治35年頃から先輩の下村観山との強い絆が生まれたようで、

谷中初音町の八軒家に下村観山や横山大観と共に住み、

朦朧体への批判で世評が厳しくなった美術院を支えています。

中心作家としての立場が明快になっていきます。


明治39年、観山の推挙により天心らの五浦移転に、

一家をあげて同行します。

武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており、

後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めました。

大正3年、大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、

同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力しました。

壮麗な花鳥画・仏画を出品し、その中心画家として活躍しました。

代表作に「阿房劫火」「孔雀明王」等があります

みごと入賞に輝き、日本画家の第一人者の地位を築きました。

 

武山は「仏画の武山」と称されるほど、仏画に優れていました。

 高野山金堂壁画を初め、晩年には大日堂の壁画に情熱を捧げ、

昭和12年に脳溢血で倒れた後も、左手で描き続けましたが、

 

完成を見ずに67歳で死去しました。

  Saas-Fee の風さん と笠間の木村武山記念館へ行きました。

残念ながら休館日だったので、その時の記事はこちらで紹介します。