茨城から発信します

旅が好きです。
見て 聞いた 茨城を紹介します。
昔の写真から旅の思い出を紹介します

茨城から発信します  千波湖湖畔を流れる桜川

2013-07-31 10:00:00 | 茨城紹介

桜川の水源は笠間市です。

その昔、千波湖と桜川は水戸城の南側の外堀の役目を果たしました。

千波湖の面積は約332,000m2、湖の周回は3,000m

並木もありジョギングや散歩のコースとして親しまれています。


湖のほとりには、茨城県近代美術館と茨城県立県民文化センターがあり、

周辺とあわせて千波公園となっています。

黒鳥が水溜りで草を啄んでいます。

黒鳥は草食ですね。

別の水溜りから白鳥が・・・ヒナが出てきました。

以前見たときヒナは沢山いたのに1羽でした。

カラスに食べられたのかなぁ~ ?

川には川鵜や鴨、シラサギ色んな見ず鳥が住んでいます。

 

次回は千波湖へ。

 


茨城から発信します 偕楽園から千波湖へ

2013-07-29 07:00:00 | 茨城紹介

偕楽園から常磐線と国道の長い跨架橋を渡ると千波湖に着きます。

そばを流れる桜川には夕暮れ時で鳥たちが川岸に集まっています。

川の土手に茨城県結城郡(市)出身の長塚節(ながつかたかし)の

歌碑と記念碑が建てられています。

長塚節は豪農の家に生まれ、3歳のときすでに

百人一首を暗誦できたとの言い伝えがあります。

長塚節は19歳の時、家で購読していた新聞「日本」に連載された

正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読み、その写生説に激しく共感、

21歳になると子規の許を直接訪ね、入門し『アララギ』の創刊に携わっています。

子規の下ではもっぱら万葉の短歌の研究と作歌にはげんだが

子規の没後もその方向性を違えず、写生主義を継承した作風を発展させました。

子規門人の間で「節こそが正岡子規の詠風の正統な後継者である」

と評価されています。

30代前半に東京朝日新聞に連載した小説「土」は

日本の農民文学を確立した作品といわれています。

高校時代に「土」読んで感銘を受けました。

長塚節は結核のために37歳の若さで死去しました。

偕楽園で正岡子規の歌碑を見た後に長塚節の歌碑を見て

二人が師弟関係にあったことを今ごろ知りました。

 

 


庭の花と木の実

2013-07-26 07:00:00 | 雑記

 

ハイビスカスの花にも八重があるのですね?

かみさんが買ってきた八重のハイビスカスが初めて咲きました。

同じ幹に黄色とピンクのハイビスカス よく見たが接ぎ木ではありません。

数年前、我が家のアジサイを赤い花にするのにアルカリ性の肥料をやりました。

同じ幹に青と赤の花が咲いています。

根から水分を吸い上げるとき土壌の酸性とアルカリ性が

均等でないと起きるそうです。

涸沼自然公園のアジサイは全て濃紺の花でしたが酸性土壌の所為でしょう。

遠く西の方から黄砂と一緒に酸性雨が降ります。

赤いアジサイは日本でなくなるかも知れません。

アケビが大きくなりました。

アケビや山栗には人も鳥も関心はないようです。

エゴの実も大きくなりました。

鳥の鳴き声が聞こえてきます。

庭に黄色い花がたくさん咲いています。

蒸し暑い日が続き写材探しに苦労をしています。

 

 


茨城から発信します 偕楽園の好文亭

2013-07-24 07:00:00 | 茨城紹介

偕楽園の好文亭につきました。

好文亭は木造二層三階建ての本体と木造平屋造りの奥御殿から出来ています。

位置や建築意匠は斉昭自ら定めたといわれています。

各所に創意工夫と洒脱を感じさせます。

斉昭はここに文人墨客や家臣、領民を集め詩歌や養老の会などを催しています。

藩主夫人やお付きの婦人が使用した?厠も備わっています。

広さ約13ヘクタールの梅林には100種3000本の梅が植えられています。

「好文亭」は梅の異名「好文木」に由来しています。

晋の武帝の「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば開かなかった」

という故事に基づいて名付けています。

好文亭からの眺めです。

秋には萩祭りが楽しめます。

急な斜面を下りていくと「正岡子規」の歌碑があります。

ー 崖急に 梅ことごとく 斜なり ー

明治の代表的俳人正岡子規が、偕楽園を訪れた時に詠んだものです。


ここを通る度に俳句に素養のない私には奇異に感じます。

梅は傾いていたかなぁ ~


明治22(1889)年の4月、正岡子規は学友菊池謙二郎を尋ねて、

友人と二人で水戸を訪れています。


このときに詠まれたもので当時、鉄道は水戸まで通じていたが、

子規たちは貧乏学生のことで弥次喜多道中よろしく、

水戸街道をたどる徒歩旅行でした。 

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正岡子規


帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、

翌年には国文科に転科し、この頃から「子規」と号して句作を行う。

 子規は数々の野球用語の日本語訳を施したが、

そのほとんどが現在でも使われている。

それは「直球」「打者」「走者」「飛球」などである。

幼名を昇といったので、それをもじって「野球(のボール)」という雅号もあった。

東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。

日本の俳人、歌人、国語学研究家である。

 

 

 


茨城から発信します 偕楽園の竹林と表門

2013-07-22 07:00:00 | 茨城紹介

偕楽園は1841年に水戸藩主徳川斉昭によって造園が開始され、

翌年1842年に開園されました。

 

斉昭公は千波湖に臨む七面山を切り開き弘道館で文武修行する

藩士の休養の場にすると同時に領民と偕(とも)に楽しむ

場にしたいとして「偕楽園」と名づけました。

日本三名園は岡山の後楽園、金沢の兼六園と水戸の偕楽園です。

後楽園、兼六園を以前に見物しましたがいずれも素晴らしい名園でした。

蓮池は南門に近く池を見ながら竹林の斜面を登っていきます。

偕楽園の西半分を構成する竹林と杉の鬱蒼した林の中を進む道が続きます。

この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、

千波湖を一望する高台に位置する明るく華やかな一面の梅林へと到着します。

偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を

表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれています。

表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を

堪能することができるのだと解釈する説もあります。

この表門は黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれています。


現代では表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れており、

この門から入園する観光客は少ないので優雅な表門を載せました。

現在は梅林へと直接通じる「東門」が主要な出入り口として利用されています。

次回は好文亭からの眺めです。