「大白法」 平成29年2月16日(第951号)
【教学基礎講座】26
《五 重 三 段》 下
ー 文底下種三段末法流通の正体 ー
今回は、いよいよ五重三段の教判が説かれた目的である第五の文底下種三段です。
序分
まず、『観心本尊抄』を拝してみましょう。
「又本門に於ても序正流通有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経々は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく」(御書 六五五㌻)
ここに明らかなように、三千塵点劫の古の大通十六王子覆講の法華経より、中間を含め釈尊が出世して説いた一代五十年の諸経、また横に十方、縦に三世一切の諸仏が説いた微塵の経々のすべてが、文底下種三段の序分となります。一往、文面では文上本門は序分に含まれません。それは文上本門が、始成正覚を払って久遠を開顕した純円の教法であって、「小乗教・邪教・未得道教・覆相教」ではないからです。しかし、文底の意義よりみれば、文上本門も再住は垂迹化他の教法として、文底下種三段の序分となります。
正宗分
次に文底下種三段の正宗分について言えば、先の『観心本尊抄』の文により、それが『寿量品』であり一品二半であることが理解できます。
一品二半には、第四の本門脱益三段の正宗一品二半と、文底下種三段の正宗一品二半とがあります。この両者の名は同じく一品二半ですが、後の流通分に「彼は脱、此は種なり」と示されるように、その意義内容には天地水火ほどの違いがあるのです。
総本山第二十六世日寛上人は、『観心本尊抄文段』の中で、本門脱益三段の一品二半と文底下種三段の一品二半との意義内容の異なりについて、「配立の不同」という三つの観点から説明されています。
「配立の不同」とは、一品二半の立て方の相違です。本門脱益三段は天台の立て方で、『涌出品』の略開近顕遠・動執生疑の文(法華経四一九㌻七行目より)『寿量品』・『分別功徳品』の十九行の偈に至るまでの一品二半です。これに対して、文底下種三段は大聖人の立て方で、『涌出品』の略開近顕遠の文を除いた動執生疑(法華経 四二二㌻三行目)よりの一品二半なのです。簡単に言えば、略開近顕遠を含む一品二半を立てるのが天台の配立、含まないのが大聖人の配立となります。
この配立の違いは、「種脱の不同」に基づきます。つまり、天台の配立による第四の正宗一品二半は、在世脱益のための文上本果の教法であり、大聖人の配立による第五の正宗一品二半は、末法下種のための文底本因の教法なのです。
そして、天台の配立による第四の三段の一品二半を「略広開顕の一品二半」「在世の本門」と名付けるのに対し、大聖人の配立による第五の三段の一品二半を「広開近顕遠の一品二半」「末法の本門」と名付け、また「我が内証の寿量品」(御書 六五七㌻)と称します。
第五の三段の一品二半を「我が内証の寿量品」とするのは、『涌出品』の動執正疑によって『寿量品』の説法が起こるためで、一品二半の意義が文底の寿量品にあることによります。この「我が内証の寿量品」とは、『百六箇抄』に、
「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」(御書 一六九五㌻)
と説かれるように、本果脱益を説き顕わす文上寿量品の二千余字ではなく、御本仏日蓮大聖人が証得された文底下種の当体、すなわち久遠元初本因名字の妙法蓮華経をよく説き顕わす側の文底寿量品の二千余字を言います。この文底の文々句々が、文底下種三段の正宗一品二半の意義内容となるのです。
なお、この文底下種三段の正宗一品二半によって説き顕わされる本因妙の当体は、末法流通の正体となりますから、正宗分と混同してはなりません。
流通分
流通について、『観心本尊抄』の文面には、これが流通文であるとは示されていません。 しかし、日寛上人は文脈の綱格の上から、文底下種の正宗分の文に続く「迹門十四品の正宗八品は・・・・・」より、最後近くの「法華を知る者は世法を得可きか」まで、迹本二門の三段(大白法九四九号四面三照)のすべての文が、流通分に当たるとされています。そして、「総じて一代五十余年の諸経、十方三世の微塵の経々、並ぶに八宗の章疏を以て、或は序分に属し、或は流通に属し、謂わく、彼の体外の辺は以て序分と為し、彼の体内の辺は以て流通に属するなり」(御書文段二六二㌻)
と御教示されています。つまり、文底下種三段の正宗分である久遠元初唯密の正法から見たならば、迹門・本門を含む一代五十年の諸経や十方三世諸仏の微塵の経々は、この三段の序分ともなり流通分ともなるということです。しかし、そこには体内と体外の相違があります。この体外と体内の立て分けは、文底下種三段正宗分の大法が顕われる以前か、以後かという違いによります。迹門について言えば、未だ本門の顕われる前の迹門は、実際の天月を知らずに池に映った月を真の月と思うようなもの(本無今有)に過ぎません。これに対して、本門が顕われた後の迹門は、池の月は天の真月の影と知った立場で、本門に即した常住の迹門となります。前者が体外の迹門で文底下種三段の序分となり、後者が体内の迹門で流通分となるのです。
また、本門について言えば、『観心本尊抄』には、本門はもとより末法のために説かれた流通分であるとされています。しかし、この本門にも体外・体内の両意があります。文底下種の大法が顕われる以前の本門は、やはり単なる池月のような体外の文上脱益で、文底の序分に過ぎません。一方、下種の大法が顕われて後の本門は、文底体内の文上脱益、つまり種家の脱益で、文底下種の流通分となるのです。
このように、本迹二門を含む一代五十年の諸経並びに十方三世諸仏の微塵の経々等において、文底体外の辺は文底下種三段の序分とし、文底体内の辺は流通分とするのです。
文底体内におけるこれらの経々が、なぜ流通分になるかというと、「迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん」の意で、これら文底体内の本迹以下の経々には、正宗一品二半によって説き顕わされた流通の正体である本因下種の妙法を、さらに助顕し、弘通する意義があるからです。
流通の正体
流通分において最も重要なことは、末法流通の正体を決するということで、ここに末法の一切衆生が即身成仏を遂げる観心の本尊が説かれます。
該当部分を挙げると、
「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(御書 六五六㌻)という御文です。
ここでは、まず在世の本門と末法の本門とを相対して、一往、純円の名が同じであると示されます。在世の本門は、教主は久成の仏で始成の方便がなく、教法は久遠の一念三千で本無今有の方便がないので純円と言います。
これに対して、末法の本門は、教主は名字凡夫の本仏で色相荘厳の方便がなく、教法は下種の妙法で熟脱の方便がないので純円と言うのです。
次に「但し」以下は、再往、法体に相異のあることが明かされます(再往体異)。日寛上人は、これを文・義・意の三つの観点より決せられています。
『御書文段』を拝すれば、文の重では、在世と末法との本門の異なりが判じられます。つまり、在世の教主は色相荘厳の脱仏であるから「脱」、末法は名字凡夫の下種仏であるから「下種」と言い、また在世の本門は文上脱益の一品二半であるから「一品二半」、末法の本門は文底下種の妙法であるから「但題目の五字」と言います。
義の重では、末法流通の正体が示されます。在世脱仏の説く本門は、在世脱益のためであって末法流通の正体とはなりません。末法下種仏の説く本門正宗は、末法下種のためですから、そのまま末法流通の正体となるということです。意の重では、末法一切衆生の観心成仏の本尊が結成されます。要するに、在世脱益の人法は教相の本尊であるため、末法観心の本尊とはなりませんが、末法下種の人法は、そのまま末法観心の本尊となるのです。この末法観心の本尊とは、正宗分の一品二半たる「我が内証の寿量品」によって説き顕わされた所詮の人法一箇の御当体で、人に約せば御本仏日蓮大聖人、法に約せば本門戒壇の大御本尊となるのです。
このため『観心本尊抄』では、さらに本門脱益三段の文証を挙げて検証し、結要不嘱の筋目から地涌の菩薩が末法に出現し、仏法の根源である寿量品文底本因下種の法体、本門の本尊を建立し、弘通すべきことを、「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書 六六一㌻)
と結論づけられているのです。
このように、末法の観心の本尊を結成するところにこそ、五重三段の帰結があり、また末法万年にわたる一切衆生の即身成仏の要道が決せられるのです。
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