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成実宗

2023年03月10日 | 仏教各宗(一)(南都六宗)

第一章 仏  教  各  宗   からの転載

  一、南都六宗

       成 実 宗(現在、宗名のみ、宗団は存在しない)

 【沿革】

 成実宗は、インドの訶梨跋摩の『成実論』を依りどころとして、中国に興った学問宗派である。

 『成実論』は鳩摩羅什によって訳出され、羅什門下の僧導・僧嵩らによって弘められたが、天台大師智顗や三論宗の嘉祥大師吉蔵によって小乗論と断定されている。

 日本には、天武天皇の時代に百済の道蔵が来朝してから盛んとなり、東大寺、元興寺、大安寺、西大寺、法隆寺などで、三論宗に付随して研学された。延暦二十五(806)年以後は、三論宗の寓宗(他宗に寄寓する宗派。付宗とも言う)となっている。

 

【教養と修証論】

 『成実論』とは「真実を成就する論」 の意で、部派仏教(小乗仏教)内の諸学派の偏った見解を整理統合し、四諦の意義を明かすことによって仏教の真実を顕そうとしたものである。

 成実宗では、具舎宗と同様に諸法を五位に大別し、さらにそれを八十四法に細別して説き、さらに苦の原因となる業と煩悩について詳説して、苦諦と集諦を解説している。

 また、減諦については、仮名心・法心・空心という三種の心を説き、これを減することが涅槃を得るための実践であるとしている。

 一、仮名心とは、仮のものを実在すると考える心で、凡夫の心を言う。真理から見れば、これらはすべて仮であるから「仮名心」と言う。仏の教えによってことごとく苦・空・無常・無我であることを知って、仮名心を減しなければならないとする。

 二、法心とは、要素的な存在そのものを認める心を言う。すなわち、我々の身心は色受想行識の五陰仮和合であり、実有としての我(定まった性質)はないと知っても、五陰そのものの存在を認める心が残るため、法心を減しなければならないとしている。

 三、空心とは、一切諸法すべては空無であると考える心を言う。法心の減によってすべてが空に帰しても、まだ一切は空であるという考え方が残るため、そこで空に囚われた心を減して涅槃を得なければならないとしている。

 この三種の心を減する具体的な方法として、二十七の修行の階位を設け、 析空観によって空理を悟り、涅槃に至ることを説いている。析空観とは析色入空観の略で、諸法を徹底的に分析すれば、すべてが因縁仮和合のものに過ぎず、 定まったものは何もないという空諦を悟る観法を言う。

 最後の道諦については、苦を滅し悟りを実現するために禅定と智慧を説き、智慧の中でも特に空と無我を悟る「真智」を強調している。

 このように成実宗では、衆生の身心は色受想行識の五陰の仮和合であり、実有としての我はないという我空と、その五陰の法も実体があるものではなく、因縁和合のものに過ぎないとする法空の二空を立て、析空観によって一切諸法はすべてが空であると達観し、その上に四諦の理を得ることを説いている。

 

【破折の要点】

 ▼成実宗も 具舎宗と同様に、小乗の教えを基に成立した宗派であり、我法の二空を立てるが、析空観によって悟る空理は小乗の「但空」の理に過ぎない。諸法の真実の相は空仮中の三諦が円融しているもので、それを説き明かしたのが法華経である。『成実論』も『倶舎論』と同様に、仏教の基礎的な教理を説いたものに過ぎず、末法の衆生を救う教えとはならない。

 また、修行の面でも、二十七の階位に基づいた歴劫修行であり、悟りに至ったとしても、それは小乗の極果である阿羅漢果にとどまるものである。

 ▼成実宗は、伝来当時は仏教の基礎学として講学されたが、平安初期に三論宗の寓宗となり、現在では宗名のみで、宗団としては存在してない。

 

 

 

 

 

 


令和五年元旦勤行の砌

2023年03月09日 | 御法主日如上人猊下御言葉(一)

大白法 令和五年1月16日(第1093号)

 

令和五年 元旦勤行の砌

     (令和五年一月一日 於 総本山客殿)

 

 立宗七百七十一年の新年、明けましておめでとうございます。

 皆様には、本年「折伏躍動の年」の新春を迎え、決意も新たに、いよいよの御精進をお誓いのことと存じます。

 さて、本年「折伏躍動の年」は文字通り、仏祖三宝尊への御報恩謝徳のもと、全国の寺院が講中一結・異体同心し、全力を傾注して折伏を行い、仏国土実現・一天広布達成へ向けて大きく躍動し、御奉公の誠を尽くしていかなければならない、まことに大事な年であります。

 特に今、依然として新型コロナウイルス感染症の猛威が止まず、末法濁悪の世相そのままに、混沌とした状況を呈していますが、かくなる時こそ、私どもは、「折伏躍動の年」にふさわしく、一人ひとりが断固たる決意と勇猛果敢なる行動をもって、身軽法重・死身弘法の御聖訓のままに、一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を一人でも多くの人に下種・折伏し、この難局を乗りきっていかなければなりません。

 大聖人様は『聖愚問答抄』に、

 「抑(そもそも)仏法を弘通し群生を利益せんには、先(ま)づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁(わきま)ふべきものなり。所(ゆ)以(え)は時に正像末あり、法は大小乗あり、修行に摂 折あり。摂受の時折伏を行ずるも非なり。折伏の時摂受を行ずるも失(とが)なり。然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是を知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法邪師一人もなしといはん、此の時は山林に交はりて観法を修し、五種六種乃至十種等を行ずべきなり。折伏の時はかくの如くならず、経教のおきて蘭菊に、諸宗のお(頣)ぎ(口)ろ誉れを擅(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし、是折伏の修行なり。此の旨を知らずして摂折途(みち)に違はゞ得道は思ひもよらず、悪道に墜つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明なり。是仏法修行の大事なるべし」

  (御書 四〇二㌻)

と仰せであります。

 されば、私ども一同、この御金言をしっかりと心肝に染め、今こそ、五濁乱漫たる末法濁悪の世の中にあって、不幸と混乱と苦悩の原因たる邪義邪宗の謗法を対治し、全人類の幸せを目指して果敢に折伏を行じ、もって広大無辺なる仏恩に報い奉っていかなければならない大事な時と知るべきであります。

 どうぞ皆様には、本年「折伏躍動の年」を迎え、決意も新たに、講中一結・異体同心し、一天広布へ向けて大折伏戦を展開し、もって全支部が必ず折伏誓願を達成されますよう心から願い、簡単ながら一言もって新年の挨拶といたします。

                                 (文責在大日蓮編集部)





 一月度 広布唱題会の砌

     (令和五年一月一日 於 総本山客殿)

 

 宗旨建立七百七十一年の新春、明けましておめでとうございます。

 皆様には、すがすがしく新年を迎えられ、「折伏躍動の年」の初の広布唱題会に参加され、決意も新たに、いよいよの御精進をお誓いのことと存じます。

 本年「折伏躍動の年」は、私ども一同、仏祖三宝尊への御報恩謝徳のもと、僧俗一致・異体同心の盤石なる体勢を構築して大折伏戦を展開し、もって一天四海本因妙広宣流布達成へ向けて大きく前進すべき、まことに大事な年であります。

 特に今、新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延によって、日本のみならず世界中が騒然とした様相を呈し、各所で様々な混乱と支障をきたし、大きな障害となっていますが、私どもは改めて『立正安国論』の御聖意を拝し、一人ひとりが妙法の広大無辺なる功徳を拝信して自行化他の信心に住し、真の世界平和と仏国土実現を目指して、今こそ勇躍として破邪顕正の折伏を行じていかなければなりません。

 大聖人様は『開目抄』に、

 「夫(それ)摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし、火は水をいとう、水は火をにくむ。摂取の者は折伏をわらう、折伏の者は摂取をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。譬へば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失ふ。末法に摂受・折伏あるべし。所(いわ)謂(ゆる)、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし」

  (御書 五七五㌻)

と仰せであります。

 まさしく今、末法は「邪智・謗法の者の多き時」にして、この時は摂受ではなく、折伏をもってすることが肝要であるとの御教示であります。この御指南を改めて拝し、講中一同、決意も新たに異体同心して一意専心、折伏を行じていくことが肝要であります。

  各位にはこのことを銘記され、「折伏躍動の年」にふさわしく、一天広布へ向けて折伏を行じ、いよいよ精進されますよう心から願い、 本日の挨拶といたします。

                                 (文責在大日蓮編集部)








 唱題行(一月二日)の砌

     (令和五年一月二日 於 総本山客殿)

 

 令和五年「折伏躍動の年」の新年、 明けましておめでとうございます。

 皆様には、立宗七百七十一年の新春を迎え、決意も新たに、一天広布達成へ向けて、 なお一層の努力をもって折伏を実践し、いよいよの御精進をお誓いのことと思います。

 さて、本年「折伏躍動の年」は、全国の法華講員一同が、仏祖三宝尊への御報恩謝徳のもと、一天四海・皆帰妙法を目指して異体同心・一致団結し、総力を結集して大折伏戦を展開し、真の恒久平和と仏国土実現を願って大きく躍動してかなければならない、まことに大事な年であります。

 特に今、依然として世界的に新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、末法濁悪の世相そのままに、混沌とした様相を呈していますが、かくなる時こそ、私どもは一人ひとりが『立正安国論』の御聖意を拝し、断固たる決意と勇猛果敢なる行動をもって、身軽法重・死身弘法の御聖訓のままに、一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を一人でも多くの人々に下種・折伏し、この難局を乗りきっていかなければならないと思います。

 大聖人様は、『法華初心成仏抄』 に、

 「仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。 されば天台・妙楽も此の心を以て、強(し)ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。地獄には堕つれども、疾(と)く浮かんで仏になるなり。当世の人何(なに)となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何(いか)にとしても仏の種は法華経より外になきなり」

  (御書 1316㌻)

と仰せであります。

 この御文中「毒鼓の縁」とは、 既に皆様もよく御承知のように、涅槃経に説かれている譬え話で、毒鼓とは毒薬を塗った太鼓のことであります。これを大衆のなかで打つと、その音を聞こうと思わなくても、自然に耳に入り、これを聞けば皆、死ぬと言われておりまして、法を聞信せずと反対しても、やがて煩悩を断じて得道できることを毒鼓、すなわち毒を塗った太鼓を打つことに譬えているのであります。

 つまり、一切衆生には皆、本質的に仏性が具わっており、正しい法を聞き、発心・修行することによって成仏できることを言い、末法今時では順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であっても、 三大秘法の妙法を聞かせることによって将来、必ず救済することができるのであります。

 されば、私どもはその御文をしっかりと心肝に染め、 いよいよ自行化他にわたる信心に住し、勤行・唱題に励むとともに、不幸の根源たる邪義邪宗の謗法を退治し、 妙法広布の実現に尽くしていくところに、私どもの一生成仏がかなえられることを銘記すべきであります。

 どうぞ皆様方には、本年「折伏躍動の年」にふさわしい自行化他の信心に住せられ、自他共の幸せを築かれますよう心から祈り、新年の挨拶といたします。

                                 (文責在大日蓮編集部)

 

 

 

 

 






霊 山

2023年03月08日 | 教学ノート(四)

大白法 平成30年1月16日(第973号)

  教 学 ノ ー ト 

     ㊴ 霊 山

 霊山とは、霊鷲山の略称で、インドのビハール州にある山です。

山頂が鷲の形をしていることや、鷲が多く棲んでいたことからこの名前が付けられたようです。

 ここは、古代に栄えた摩(ま)竭(か)陀(だ)国(こく)の首都・王(おう)舎(しゃ)城(じょう)の東北にあって、法華経が説かれた場所でもあることから、仏様がお住まいになる清浄な国土(常寂光土)を意味し、霊山浄土とも言います。

 日蓮大聖人様は御書の『南条殿御返事』に、

 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(中略)かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」

  (御書 1569㌻)

と仰せです。

 一大事の秘法を胸の中に収める日蓮大聖人様のいらっしゃる所こそ霊山浄土です。ですから、大聖人様の御魂魄である本門戒壇の大御本尊様がいらっしゃる総本山大石寺が末法の私たちにとっての霊山浄土です。

 同じく御書の『御義口伝』には、

 「霊山とは御本尊並びに今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処」

  (同 1770㌻)

と仰せです。

 つまり、総本山大石寺はもちろん霊山浄土ですし、代々の御法主上人猊下が御(ご)書(しょ)写(しゃ)あそばされた御本尊様が安置されている日蓮正宗の寺院や、皆さんのお家も霊山浄土なのです。正しい御本尊様を信じて「南無妙法蓮華経」と唱える私たちがいる場所は、御本尊様のお力によって霊山浄土となるのです。 

 似たような言葉に念仏の経典である阿弥陀経には「西方極楽浄土」という世界が説かれていますが、今の世の中では「私たちが住むこの汚れた苦しい世界を捨てて、極楽浄土に行き幸せになろう」という誤った解釈が広まっています。これは、現実の苦しみから逃げようとする、間違った教えてあり、現実が厳しいから楽な世界へ行こうという教えでは、いつまで経っても幸せになれるはずはありません。

 大聖人様の仏法は、どんなに苦しい時でも「南無妙法蓮華経」と唱えて困難を乗り越え、現実に住むその場を霊山浄土としていくのです。

 「只一心に信心おはして霊山を期(ご)し給へ」

  (同 723㌻)

との御金言の通り、一心に信心修行に励むことで必ず御仏智を戴き、幸せへの道が開かれることを確信しましょう。 




🖊 ポイント

御法主日如上人猊下は、

「須弥山に近づく鳥は金色となる」

 (御書 1054㌻)

と仰せの如く、(中略)総本山に登山参詣する功徳は凡智をもってしては計り知れない大きなものがあり、過去遠々劫の罪障を消滅し、三業の悪を転じて法身・般若・解脱の三徳を成ずる」

 (大白法 757号)

と仰せです。今年は何回登山できるでしょう、計画を立てましょうね。

 

 

 

 

 

 


四苦八苦

2023年03月07日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年11月16日(第969号)

  教 学 ノ ー ト 

   ㊳ 四 苦 八 苦

 四苦八苦とは、私たちが受けるすべての苦しみを総称した言葉です。

現代では「四苦八苦する」などの言い方で、たいへん苦労することの意味で用いられています。

 四苦は、生苦、老苦、病苦、死苦の四つの苦しみのことを言い、これに愛別離苦、怨憎会苦、 求不得苦、五陰盛苦の四つの苦しみを加えて八苦と言います。四苦とは別に八苦があるのではありません。

 まず、生苦とは、生まれる苦しみ、老苦とは老いる苦しみ、病苦とは心や身体に不調をきたす(病気になる)苦しみ、 死苦とは死を迎える苦しみのことです。

 次に愛別離苦とは、 愛しい人と別れて離れなければならない苦しみ、怨憎会苦とは、恨み憎む人と会わなければならない苦しみ、 求不得苦とは、求めても自分の思い通りに得られない苦しみ、五陰盛苦とは、五陰(色、受、想、行、識)に執着することによって受ける苦しみのことです。

 現実世界の中で、四苦八苦から生じる苦悩を受けずに生活できる人は一人としていません。

 「世の中の人々は、いつも四苦から起こる様々な苦悩を受けている。またその苦しみが悪因となって、来世では地獄・畜生・餓鬼の苦しみを受けることになり、仮に天界や人界に生まれたとしても、心は貧しく困窮し、愛しい人とは離別し、怨み憎む者と出会っては怒り苦しむことになる。このように人々は、苦悩に埋もれているにもかかわらず、苦しみを自覚できず、苦しみの中で平然と暮らし、大きな苦しみに遭っても心配しないでいる(趣意)」(法華経 151㌻)

と説かれています。

 日蓮大聖人様は、こうした苦悩に満ちあふれた中で生きていく心得を、 『四条金吾殿御返事』に、

「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうち と(唱)なへ ゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(御書 991㌻)

と仰せです。

 私たちは苦は苦、楽は楽と認識し、苦楽共に受け入れて御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えるならば、どんな苦悩や困難にも負けることなく、力強く人生を送ることができるのです。




🖊 ポイント

御法主日如上人猊下は、 

「真実の仏法を知らない多くの人々が、三界六道の苦しみを受け、転々として苦しみを繰り返し、この苦しみの世界から出ることができずに喘いでいます。これはすべて、邪義邪宗の謗法の害毒によるものであります。

 私どもは、こうした苦悩に喘ぐ多くの人々に対して、邪義邪宗の害毒の弊害を説き、折伏を行じ、救っていかなければなりません」(大白法 891号)

と仰せです。人々を苦しみから救う正法を弘めるのは、私たちの使命です。

 

 

 

 

 

 


出世の本懐

2023年03月06日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年10月16日(第967号)

  教 学 ノ ー ト 

     ㊲ 出世の本懐

 出世の本懐とは、 仏様が世に出現なさった究極の目的を言います。 

 その目的について釈尊は法華経の中で、仏様の本懐(本来の望み、本望としていること)は一切衆生を成仏させることで、そのために仏様は世に出現されたと説かれました。 

 

また、大聖人様は、

 「釈尊は四十余年で、天台大師は三十余年、そして伝教大師は二十余年かかって出世の本懐を遂げられた。その間の大難は言うまでもない(趣意)」(聖人御難事・御書 1396㌻)

と、釈尊、天台、伝教の三師の例を挙げられて、法華経の行者は必ず出世の本懐を遂げられるということと、その成就のためには必ずたいへん大きな難が起こることを仰せです。

 この三師のうち、釈尊は「法華経」 を説かれました。天台大師は「摩訶止観」を講述されましたし、伝教大師は「大乗戒壇」を建立されて、人々に成仏の方途を示されて、同じように本懐を遂げられたのです。

 大聖人様の御本懐とは、三大秘法の意義をすべて具える本門戒壇の大御本尊様を顕わすことであり、末法万年の一切衆生を救うことです。

 大聖人様が本懐を成就されたのは、 

 「清(せい)澄(ちょう)寺(じ)と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年 太(たい)歳(さい)己(つちのと)卯(う)なり」(同 ㌻)

と説かれるように、建長5(1253)年の4月28日、宗旨建立から27年目の弘安2(1279)年です。

 この弘安2年は、熱原法難の最(さ)中(なか)で、入信間もない読み書きもできない身分の低い熱原の農民たちが、身命に及ぶ大難に遭いながらも命をかけて正法を信じ抜くという姿を示しました。大聖人様は、この法難に時の到来を感じられて、この年の10月12日、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされたのです。 

 そのことを、

 「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教はほ(粗)ゞし(知)ろしめして、いさゝかもひ(弘)ろめさせ給はず。当時こそひろまらせ給ふべき時にあたりて候へ」(本尊問答抄・同 1283㌻)

と仰せです。

 私たちは、この御本尊に対し奉り、篤い信心をもって読経・唱題に励み、自行化他に邁進することによって成仏することができるのです。




🖊 ポイント

総本山第26世日寛上人は、『観心本尊抄文段』に、

「弘安元年 已(い)後(ご)、究竟の極説なり。就(なかん)中(ずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。况んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」

 (御書文段 197㌻)

と仰せられています。

 

 

 

 

 


受 持

2023年03月03日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年9月16日(第965号)

 「教 学 ノ ー ト」 

     ㊱ 受 持

 受持というのは、」正しい教えを受けて、深く信じ、 持(たも)つことを言います。

 『法華経』に5種類の就業法が解かれていますが、そのうちの一つです。

 受持の他の4つの修行法は、 読(読み上げる)・誦(暗誦する)・解説(解釈して人に説く)・書写(書き写す)があります。

  日蓮大聖人様の教えでは、受持するということは、本門戒壇の大御本尊様を固く信じて、南無妙法蓮華経と唱えることです。

 大聖人様の御書の『日女御前御返事』に、

 「法華経を受けた持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書 1389㌻)

という御金言があります。これは「私たちが『南無妙法蓮華経』と唱えて信心をしていくことは、5種類の修行法すべてが含まれています」ということを仰せになっています。

 また、『観心本尊抄』という御書には、

 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書 653㌻)

という御金言があります。

 これは、釈尊が仏になるために積んだ修行の功徳(因行)と成仏の功徳(果徳)は、すべて妙法蓮華経の五字に納まっていますから、この妙法を受持信行する人は成仏することができると説かれているのです。

 ですから、私たちが毎日、朝夕に勤行すること、お仏壇のお掃除をしたりお水をお供えすること、総本山に登山すること、寺院に参詣すること、御供養申し上げること、折伏をすること、など、日頃の信心活動が、そのまま成仏のための修行なのです。

 このように、御本尊様を信じて妙法を唱える受持の修行に具わっている広大な功徳について、御法主日如上人猊下は、

 「妙法受持の功徳をおのれ一人だけに留めず、謗法の害毒によっていまだ塗炭の苦しみにあえぐ多くの人々に下種結縁し、折伏逆化の闘いを進めていくことが肝要なのであります」(大白法 695号)

と御指南くださっています。

 私たちは、日蓮正宗の教えを受持できる喜びと功徳を、一人でも多くの人に伝えていきましょう。




🖊 ポイント

総本山第26世日寛上人は、妙法受持の広大なる功徳について『法華取要抄文段』に、

 「此の本尊を受持する則(とき)んば祈りとして叶わざること無く、福として来たらざること無く、罪として滅せざること無く、理として顕われざること無し。故に此の本尊信受の輩は但受持の一行のみにして尚成仏すべし」(御書文段 539㌻)

と御指南されています。

 

 

 

 

 


十大部

2023年03月02日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年8月16日(第963号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

     ㉟ 十大部

 十大部とは、日蓮大聖人様が御一期(御一生)を通して著わされた御書のうち、第二祖日興上人様が特に重要な御書として選ばれた十篇の御書のことです。

 この十大部は『富士一跡門徒存知事』(御書 1870㌻)に定められています。

次に、十大部の名称と、いつ、どこで書かれたかを記します。

・『唱法華題目抄』文応元(1260)年5月28日 鎌倉

・『立正安国論』文応元年7月16日 鎌倉

・『開目抄』文永九(1272)年2月 佐渡

・『如来滅後五五百歳始観心観心本尊抄』文永10年4月25日 佐渡

・『法華取要抄』文永11年5月24日 身延

・『撰時抄』建治元(1275)年6月10日 身延

・『報恩抄』建治2年7月21日 身延

・『四信五品抄』建治3年4月 身延

・『下山御消息』建治3年6月 身延

・『本尊問答抄』弘安元(1278)年9月 身延

また、このうちの『立正安国論』、『開目抄』、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』、『撰時抄』、『報恩抄』を指して五大部とも称します。

 大聖人様の御入滅後、日興上人様の弟子以外の門流では、御書を軽視し、紙が貴重な時代でしたので御書を溶かしてもうー度新しい紙にしたりしてしまう者がいました。

 日興上人様は、大聖人様が著わされた御書を仏様の御金言であると拝し、御書を破却し焼失する他門流の行為を批難し、嘆かれました。

そして、弟子・檀那に御書を講談されるなどして、十大部はもちろんのこと、いかなる御書も尊重するよう教示され、また御書を後代に伝えるために、門下を挙げて御書の筆写を行い、御書の護持と伝承に心を尽くされたのです。

第五十九世日亨上人は、

「祖書の御写本がもっとも多く現存するのは、日興上人が他を引き離して最大多数であり、また大聖の書抄をただちに御門下の僧分または信徒に読みきかせられたのも、興尊が特長であろう」(富士日興上人詳伝 三九五)

と仰せです。

現在、私たちが大聖人様の正しい教えを聞き、学ぶことができているのは、ひとえに、日興上人様の御書を大切になさる信心姿勢によるのです。

したがって私たちは、この日興上人様の御心をしっかりと体した上で御住職・御主管の御法話を拝聴し、また自らも御書を拝読することが大切です。

 

 🖊 ポイント

『平成新編御書』には、大聖人様が21歳の時から、御入滅あそばされる61歳の時までの御書が御認めになられた年代順ご収録されています。

その目次を見ると、十大部の御書の中で、五大部の御書には◎が、それ以外の五篇の御書には○の符号が御書名に付いています。

御書を開いて拝読してみましょう。

 

 

 

 

 

 


雪山の寒苦鳥

2023年03月01日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年7月16日(第961号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

     ㉞ 雪山の寒苦鳥

 「雪山の寒苦鳥」とは、インドの雪山という雪深い山に住むと言われる想像上の鳥を言います。

  寒苦鳥の説話は、次のような内容です。

 「雪山に住む寒苦鳥は、日中の暖かさによって夕方まで眠り続け、日が沈みかけたころに目を覚ましました。

  お腹をすかせた寒苦鳥は、急いで食べ物を探しに行きました。早く食べ物にありつかなければ、夜の寒さに凍えて死んでしまうかも知れないからです。

  寒苦鳥は駆けずり回り、やっと食べ物を得ることができました。

 すると、夕日が沈むのと同時に辺りは冷え込んできました。 その寒さは、時間が過ぎるにしたがって厳しさを増してきました。

 寒苦鳥は、凍りつく寒さに震えながら眠れぬ夜を過ごし、夜が明けたら真っ先に暖かい巣を作ろうと思いました。

 そして、辛くて長い夜が明けました。

 次の日、雪山は日の出と共に気温が上昇しました。寒苦鳥はその暖かさで眠くなってきました。

 こうして再び、日中は眠って過ごし、日暮れ近くに食べ物を探し、夜には明日こそは巣を作ろうと決意するのです。

  しかし、次の日も、また次の日も、暖かさによって眠りにつき、結局巣を作ることなく一生を終えてしまったのです」 

このことを、日蓮大聖人様は『新池御書』に、

「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといえども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう。一切衆生も亦復是くの如し」(御書 1457㌻)

と仰せられています。

 謗法を犯して地獄に堕ちた人は、地獄に堕ちて苦しんでいるときには、再び人間として生まれたら、今度こそは真剣に仏道修行に励もうと思います。 

 しかし、いざ人間に生まれると、名聞名利(地位や名誉、金品等の財産)に執らわれて仏道修行を全うできず、 再び、地獄の苦しみを受けることになるということを譬えられたものです。私たちは、寒苦鳥のようにならないよう、日々信心修行に精進していくことが大切です。 




🖊 ポイント

御法主日如上人猊下は、

「朝夕の勤行をきちんとしなければならない、勉強をしなければならないと思いながら、遊びに夢中になって忘れてしまったり、テレビやメールやチャットに熱中して、無駄な時間を費やしてしまうことはありませんか、。

 たしかに、どんな人にも寒苦鳥のような怠け心はあります。しかし、その心に負けず、なすべきことをしっかりとやっていくことが大事なのであります」

(大白法 915号)

と御指南あそばされています。

 

 

 

 

 

 


妙法の四力

2023年02月28日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年6月16日(第959号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

     ㉝ 妙法の四力

 妙法の四力とは、私たちが祈りを叶え、成仏という幸福の境界に至るために必要な信力・行力・仏力・法力の四つの力用(働き・作用)を言います。 

 まず、「信力」とは、日蓮正宗の御本尊様以外に成仏の道はないと心の底から信じることです。 

 次に、「行力」とは、他の宗教の教えや爾前経(釈尊が法華経の前に四十余年かけて説いた方便の教え)の経文・教義を交えず、ただ日蓮大聖人様の御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と唱えることを言います。

 続いて、「法力」とは、御本尊様の功徳が広大無辺であることを言います。 

 最後に、「仏力」とは、御本仏が御本尊様を顕わされ、大慈大悲の上から一切衆生を救済されることを指します。 

 このうち、 信力・行力は、正しく妙法を修行する人に具わる力(自力) であり、仏力・法力は御本尊様に備わる 力用 (他力)に当たります。 

 これらの妙法の四力の成就する過程について、総本山第26世日寛上人は、『観心本尊抄文段』に、蓮華と水と日光の譬えをもって、次ように御指南されています。 

 「蓮華の華は信力、蓮は行力で、水は法力、日光は仏力のようなものだ。蓮華が水から生長するように、私たちの信力・行力は必ず法力によって顕われる。(中略)水によって蓮華が生長するといっても、日光がなければ枯れてしまう。同様に、法力によって信力・行力が顕われても、仏力を得られなければ私たちは退転してしまう。しかし一方、蓮華が日光を得て大輪の華を咲かせるように、私たちも仏力を戴くことによって、信行が成就して、速やかに成仏できるのである(趣意)」(御書文段 228㌻) 

 このように妙法の四力とは、御本尊様の法力によって私たちの信力・行力が生じ、さらに仏力によって、四力が一つに合して、私たちの正しい信心が成就することを言うのです。

 しかし、いくら御本尊様に仏力・法力が具わるといっても、日蓮大聖人様が『日厳尼御前御返事』 に、

 「叶ふ叶はぬは御信心により候べし」(御書 1519㌻)

と仰せのように、私たちが勤行を怠けたり、真剣な信心修行に励まなければ、祈りは成就しません。私たちは御本尊様の広大なる仏力・法力を深く信じ、より一層の勤行・唱題・折伏という信力・行力の錬磨に励むことが大切です。 




🖊 ポイント

御法主日如上人猊下は、

「なぜ我々が頂戴する功徳に差が出てくるのか。功徳に差が出てくるのは、御本尊様の仏力・法力に差があるのではなくして、我々の信力・行力に差があるからなのです。やはり一生懸命、自行化他の信心に励むということが大事であります」(大白法 818号)

と明快に御指南されています。自行化他の実践ができているか、自分の日頃の信心を、今一度見つめ直してみましょう。

 

 

 

 

 

 

 


本門の題目

2023年02月27日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年5月16日(第957号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

     ㉜ 本門の題目

 本門の題目とは、三大秘法のうちの一つで、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることを言います。 

 この本門の題目には、「信」と「行」の立て分けがあります。 

 信とは、本門の本尊を疑いのない心で信じることです。

 行とは、その信心をもって実際に御題目を唱えることです。

 日蓮大聖人様は、

 「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」

  (御書 814㌻) 

と戒められています。

 御本尊様に疑いの心をもって御題目を唱えても、功徳を戴くことはできません。また、信じる心があっても、実際の行である唱題をしなければ、功徳を戴くことはできないのです。 

 したがって、本門の題目とは、御本尊様を強盛に信じ唱題を実践する、信と行を具えた御題目を言うのです。

  また大聖人様は、

 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」

  (同 1594㌻)

と仰せられています。

 そして大聖人様が、

 「日蓮は二十八年の間、ただただ妙法蓮華経の御題目を一切の衆生の口に入れようと励んできたのである(趣意)」

  (同 1539㌻)

と仰せになられ御自ら行じられたように、私たちも、常に信と行を具えた御題目を唱え、その功徳を体験し実感して、御本尊様への確信を深めることが大切です。

 そして、その功徳に歓喜した心を基として、大聖人様が教え導かれているままに折伏を行じ、他の人々に妙法の偉大な功徳を説いていくことが、末法における御題目の意義なのです。

 御法主日如上人猊下は、

 「大御本尊への絶対的確信と、断固たる決意を持って実践遂行する時は、必ずやあらゆる困難を乗り越え、所願を達成することができるのでありまして、その源泉こそが、まさしく唱題であります」

  (大白法 895号)

と仰せです。

 私たちは、本門戒壇の大御本尊様を固く信じて、信行具足の本門の題目を自行化他にわたって唱え、多くの人に教え、弘めていくことによって、大きな功徳、利益を受けることができるのです。



🖊 ポイント

御隠尊日顕上人猊下御指南

「題目は、自らも唱え、他の人々にも勧めることが大きな功徳を積むのである。人々の心は、様々な過去からの罪業と、現在持つ多大な煩悩で歪曲している。(中略)曲がった心は題目の功徳によって、自然にまっすぐになる。それには、法華経に説かれてある不思議な功徳を信ずることであり、経の説くままに素直に信じて唱えることにより、曲がった心もまっすぐになっていくのである」(三大秘法義 618㌻)

 

 

 

 

 


本門の戒壇

2023年02月26日 | 教学ノート(四)

大白法 平成29年4月16日(第955号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

     ㉛  本門の戒壇

 本門の戒壇とは、三大秘法の一つで、本門の本尊を安置する所を言います。 

 「戒」とは、 悪を捨て、善に進ませる戒法の徳、すなわち、「非道を防ぎ悪行を止めること」を旨とする仏道の徳を意味します。また「戒壇」には、仏に教えを信じて修行する者が、この戒を受け誓いを立てる場所という意味があります。

 奈良時代には、東大寺(奈良県)や薬師寺(栃木県) に小乗の戒壇が建立され、平安時代には、比叡山延暦寺に大乗の戒壇が建立されました。 しかし、これはあくまでも釈尊が説いた仏法の利益がある時代における戒壇です。 

 末法の今日においては、御本仏日蓮大聖人様が顕わされた本門の本尊を受持することに一切の戒の功徳が収まるため、本門の本尊を安置する場所がそのまま戒壇となり、その意義や功徳は他の戒壇とは大きく異なります。 

 本門の戒壇には、「亊」「義」 の二つの意義があります。 

 「亊」の戒壇とは、大聖人様が 『三大秘法稟承亊』に、

 「王法仏法に冥(みょう)じ、仏法王法に合(がつ)して、(中略)霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。亊の戒法と申すは是なり」(御書 1595㌻)と仰せられ、また『日蓮一期弘法付嘱書』に、

 「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同 1675㌻)

と仰せのように、この仏法が広宣流布した暁には、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきであると説かれています。 

 また、総本山第二十六世日寛上人が『寿量演説抄』に、

 「未だ時至らざる故に直(ただき)に事の戒壇之なしと雖も既に本門の戒壇の御本尊在(ましま)す上は其の住処は即戒壇也」(歴代法主全書)

と仰せのように、広宣流布の時に至らなくても、本門戒壇の大御本尊が一念三千の当体であり広布の根源の法体であることから、本門戒壇の大御本尊様おわします所は、そのまま現時における亊の戒壇であるとされています。

 次に「義」の戒壇とは、その意義が亊の戒壇に通じるという意味です。末寺や、家庭に下付された御本尊御安置の場所を言います。

 私たちは、総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊を根本として、大聖人様の御遺命である広宣流布と、本門寺の戒壇の建立に向かって、日々の信心修行に励み、一人でも多くの人にこの尊い教えを説いていくことが大切です。 




🖊 ポイント

大聖人様は、「三大秘法稟承亊」に、

「インド・中国・日本の三国並びに一閻浮提(全世界)の人が懺悔し滅罪する戒法であるばかりではなく、大梵天王や帝釈等の諸天善神までも来て礼拝すべき戒壇である(趣意)」(御書 1595㌻)

と仰せのように、世界の平和と幸福を確立するためには、本門戒壇の大御本尊を信仰すべきであると説かれています。

 

 

 

 

 

 

 


上野尼御前御返事

2023年02月22日 | 平成新編日蓮大聖人御書(一)
日蓮大聖人御書大石寺 『上野尼御前御返事』 全文です。
 

上野尼御前御返事                  弘安四年一月一三日 60歳

 (御書 一五五二頁)   

 聖(すみ)人(ざけ)ひとつ(筒)ゝ、ひ(堤)さ(子)げ十か、十(むし)字(もち)百、飴(あめ)ひとを(桶)け二升か、柑(こう)子(じ)ひと(一)こ(籠)、串柿十くしならびにく(栗)り給び候ひ了んぬ。春のはじめ、御喜び花のごとくひらけ、月のごとくみ(満)たせ給ふべきよしうけ給はり了んぬ。

 抑(そもそも)故五ら(郎)うどのゝ御亊こそを(想)もいいでられて候へ。ちりし花もさかんとす、か(枯)れしく(草)さも(萌)ねぐみぬ。故五郎殿もいかでかか(帰)へらせ給はざるべき。あわれ無常の花とく(草)さとのやうならば、人(ひと)丸(まる)にはあらずとも花のもともはなれじ。い(嘶)ばうるこ(駒)まにあらずとも、草のもとをばよもさらじ。

 経文には子をばかた(敵)きととかれて候。それもゆ(謂)われ候か。梟(ふくろう)と申すとりは母をく(喰)らう。破(は)鏡(けい)と申すけだものは父をが(害)いす。あ(安)んろ(禄)く山と申せし人は師(し)史(し)明(めい)と申す子にころされぬ。頼(より)朝(とも)と申せしつわものは為(ため)義(よし)と申すち(父)ゝをころす。子はかたきと申す経文ゆわれて候。又子は財(たから)と申す経文あり。妙(みょう)荘(しょう)厳(ごん)王(のう)は一(いち)期(ご)の後無(む)間(けん)大城と申す地獄へ堕ちさせ給ふべかりしが、浄蔵と申せし太子にすくわれて、大地獄の苦をまぬかれさせ給ふのみならず、娑(しゃ)羅(ら)樹(じゅ)王(おう)仏(ぶつ)と申す仏とならせ給ふ。生(しょう)提(だい)女(にょ)と申せし女人は、慳(けん)貪(どん)のとがによて餓鬼道に堕ちて候ひしが、目連と申す子にたすけられて餓鬼道を出で候ひぬ。されば子を財と申す経文たがう事なし。

 故五郎殿はとし十六歳、心ね(根)、み(容)めかた(貎)ち人にすぐれて候ひし上、男のの(能)うそなわりて万人にほめられ候ひしのみならず、をやの心に随ふこと水のうつわものにしたがい、かげの身にしたがうがごとし。い(家)へにてははし(柱)らとたのみ、道にてはつ(杖)へとを(思)もいき。はこのたか(宝)らもこの子のため、つかう所従もこれがため、我し(死)なばに(荷)なわれての(野)ぼ(辺)へゆきなん、のちのあとを(思)もいを(置)く事なしとふかくをぼしめしたりしに、いやなくさ(先)きにた(立)ちぬれば、い(如)か(何)んにやい(如)か(何)んにやゆ(夢)めかま(幻)ぼろしか、さ(醒)めなんさ(醒)めなんとを(思)もへども、さめずしてと(年)しも又か(返)へりぬ。いつとま(待)つべしともを(覚)ぼへず。ゆきあうべきところだにも申しを(置)きたらば、はねなくとも天へものぼりなん。ふねなくともも(唐)ろこ(土)しへもわたりなん。大地のそこにありときかば、い(争)かでか地をもほ(掘)らざるべきとを(思)ぼしめ(食)すらむ。

 やすやすとあわせ給ふべき事候。釈迦仏を御使ひとして、りや(霊)うぜ(山)ん浄土へまいりあわせ給へ、若(にゃく)有(う)聞(もん)法(ぽう)者(しゃ)無(む)一(いち)不(ふ)成(じょう)仏(ぶつ)と申して、大地はさゝばはづるとも、日月は地に堕ち給ふとも、し(塩)をはみ(満)ちひ(干)ぬ世(よ)はありとも、花はなつにならずとも、南無妙法蓮華経と申す女人の、をもう子にあわずという事はなしととかれて候ぞ。いそぎいそぎつとめさせ給へつとめさせ給へ。恐々謹言。

 

正月十三日                                 日蓮花押

上野尼御前御返事

 
 

 

 

 

 
 
 

法華経について ⑨

2023年02月21日 | 法華経について(一)

「大白法」平成26年6月1日(第886号)より転載

  日蓮正宗の基本を学ぼう 76

   法華経について ⑨

    『薬草喩品』

 今回は、『薬草喩品第五』について学びます。

 「薬草喩」とは、当品に説かれる譬喩に由来しており、特に声聞・ 縁覚の二乗を救済するための妙法という真の薬を説く意味が拝されます。

 譬説周述成段

 『薬草喩品』は、釈門正宗分で広開三顕一が明かされる三周の説法中、『譬喩品第三』の後半から始まる譬説周のうち、述成段(対告衆による領解の正しさを認め仏様がさらに説き示す部分)に当たります。

 『譬喩品』後半の譬説周正説段(仏様が正法を説かれる部分)において、釈尊は「三車火宅の譬え」を説き、これを聞いて中根の須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞は、三乗方便・一乗真実という開三顕一の法理を覚知します。四大声聞は領解段(説法を聴聞した衆生が仏様に理解した内容を述べる部分)である次の『信解品』において、その理解した旨を「長者窮子の譬え」をもって釈尊に申し上げます。

 これを受けて『薬草喩品』では、釈尊が「長者窮子の譬え」は真実の功徳を顕わしているとして一応四大声聞の領解を納受して讃歎すると共に、功徳の甚大なることをさらに深く理解させるために「三草二木の譬え」を説かれるのです。

 

 三草二木の譬え

 この譬えは、仏様の実相は本来一味ですが、衆生の境界に差別があるために受ける功徳が異なることを示された上で、一仏乗によって、すべての衆生が平等に利益されることを説かれたものです。 

『薬草喩品』より三草二木の譬え

 「世界中の山や川、谷や大地には、様々な草木が生い茂っており、名前も形も異なっています。

 雨雲が遍く空を覆い。雨が一時に等しく降り注ぐと、その雨は、一切の草木に行き渡り、高木、低木、大・中・小の薬草それぞれに応じた潤いをもたらします。 草木は、それぞれの持つ特性に従って、雨による潤いを受け、生長して花果を結びます。草木は、同一の大地に生じ、 同一の雨に潤されますが、名前や生長していく姿には、それぞれ差があり違いがあるのです。

 仏様の教えもまた同じです。仏様が世の中に出現されるのは、大きな雨雲が涌き起こるごとく、説法が一切の人々に行き渡るのは、雨雲が遍く空を覆い尽くすごとくであります。

 そして、『私は仏であり、未だ仏道に至らない者を導き、未だ解了しない者を解了せしめ、未だ仏道に安んじない者を安んぜしめ、未だ涅槃に至らない者を至らしめます。私は今世・来世を見通した一切を知る者、一切を見る者にして、仏の道を知り、仏の道を開き、仏の道を説く者であります。皆この法華経を聴聞するためにここに集まりなさい』と説かれました。

 仏様は、集まり来たった十界の衆生に機根の差があることを観ぜられて、それぞれに相応して種々に法を説いて衆生を歓喜せしめ、善根を修めさせます。説法を聴聞した衆生は、今世は安穏にして後生は善所に生まれ、ようやく仏道に入ることができるのです。

 それはあたかも大きな雨雲が、一切の草木に雨を降らし、それぞれの草木に応じた潤いを与えて平等に生長させるようなものです。 

 仏様の説法は、一地・一雨と同じく、ただ一乗真実の教えを、一切衆生に平等に説くことにあります。 

 しかし、聴聞した人間・天上・声聞・縁覚・菩薩の衆生は、仏様の教えの通り受持・読誦の修行をしても、各々が功徳を別々に受け止め、仏様の教えが一相一味であることを知りません。種々の草木が自らの上中下の特性を知らないように、五乗七方便のそれぞれの衆生もまた自身の種・ 相・体・性を知らず、ただ仏様のみが五乗の因果と差別相を知り、衆生の心相も諸仏の教法も一相一味無差別であることを覚知されているのです(趣意)」

  (法華経 二一五㌻)

 譬えの中に示されるように、大きな雨雲は仏様、雨とはその教え、草木は一切衆生のことです。雨雲が平等に潤いの雨を降らせるとは、一切衆生を仏様の悟りの境界へ導く一仏乗たる法華経に譬えられたものです。 

 また種々の草木は、天台大師の『法華文句』に依れば五乗のそれぞれに当たり、小さな薬草が人間・天上、中くらいの薬草が声聞・縁覚の二乗、大きな薬草が蔵教の菩薩、低木が通教の菩薩、高木は別教の菩薩を譬えています。これら五乗の衆生は、草木が等しく大地より生ずるのと同様に、各々が本来等しく仏性を具えています。ですから、機根に応じて一仏乗の法を様々に聞いたとしても、草木の性質にかかわらず潤すところの雨が一味であるように、衆生の機根に五乗七方面の相違があったとしても、仏様は大慈悲の上から実相一味の法を施し平等の利益を与え無差別の義を示され、究境して一切衆生を仏様の境界へと至らしめるのです。

 

 現世安穏 後生善処

 日蓮大聖人が『御講聞書』に、

 「今末法に入りて日蓮等の類の弘通する題目は等雨法雨の法体なり。此の法雨、地獄の衆生・餓鬼の衆生等に至るまで同時にふりたる法雨なり。日本国の一切衆生の為に付嘱し給ふ法雨は題目の五字なり。所(いわ)謂(ゆる)日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是なり」

  (御書 一八四一㌻)

と御示しのように、末法の一切衆生に等しく降り注ぐ法雨とは、本門戒壇の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉ることによって戴ける大功徳に他なりません。

 御法主日如上人猊下は、妙法受持による三世に亘る功徳を説かれた当品の、

 「現世安穏 後生善処(現世安穏にして後に善処に生ず)」

   (法華経 二一七㌻)

との経文について、次のように御指南あそばされています。

 「我らにとって『現世安穏後生善処』の妙法を受持信行することこそ今生の名聞であり、現世に妙法弘通に励んだ因によって後生には必ず成仏に至ることができるのであります。

 よって我らは『須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき』との御金言を心肝に染め、一意専心、自行化他の信心に励んでいくことが肝要となるのであります」

 (大白法 七三三号)

  この御指南に副(そ)い奉り、誓願貫徹に向けて精進してまいりましょう。 

 

 

 

    三草二木の譬えにおける五乗の衆生

 

     二            三

     木            草

     |            |

  |ーーーーー|    |ーーーー|ーーーー|

  高     低    大    中    小

  木     木    の    の    の

  |     |    薬    薬    薬

  |     |    草    草    草

  |     |    |    |    |

  別     通    蔵    声    人

  教     教    教    聞    間

  の     の    の    ・    ・

  菩     菩    菩    縁    天

  薩     薩    薩    覚    上

                  の

                  二

                  乗 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


法華経について ⑧

2023年02月19日 | 法華経について(一)

「大白法」平成26年5月1日(第884号)より転載

  日蓮正宗の基本を学ぼう 75

   法華経について ⑧

    『信解品第四』

 前回の『譬喩品第三』に続いて、『信解品第四』について学んでいきます。

 初めに

 『信解品第四』は、三周の説法(法説周、譬説周、因縁説周)中、譬説周の領解段に当たります。

  (本紙八八〇号六面の図を参照)

 上中下根のうち中根に当たる四大声聞(迦葉・目連・須菩提・迦旃延)が、先に『譬喩品第三』後半の譬説周 正説段で説かれた「三車火宅の譬え」を聞いて、開三顕一の法門を領解したことを「長者窮子の譬え」をもって釈尊に申し上げます。

 この譬えは、親子の物語で、窮子(貧窮の子)が父の長者によって徐々に教化される姿を通し、四大声聞が釈尊一代の五時(華厳・阿含・方等・般若・法華)に分別して、一仏乗の教えを理解した旨を述べたものです。

 それでは当品の内容に入りましょう。

 まず初めに、四大声聞は、最高の儀礼をもって釈尊を拝し、次のように申し上げます。

 「私たちは、釈尊の弟子の中でも最上位の立場でありますが、小乗声聞の悟りに安住し、仏の真の悟りを進んで求めようとしませんでした。それは、大乗の菩薩のように、自在に国土を清め、人々を教導することを喜ばなくなっていたからです。しかし、今、声聞の舎利弗に成仏の予証が与えられたのを見て、かつてない喜びにあふれています。そして、さらに『三車火宅の譬え』のような類いまれな法を聞くことができようとは思いもよらないことでした。いわば、求めずして、無上の宝珠を得たようなものです。そこで、今度は私たち四人が、ただ今の教えについて信解したところを、譬え話をもって申し上げたいと思います」 

と言って、「長者窮子の譬え」を説かれました。

 

 長者窮子の譬え

 長者窮子の譬えとは、ある長者とその息子(貧窮の子=窮子)の話です。息子は幼い時に父からはぐれ、貧しい生活をしながら他国を数十年も放浪していました。一方、父親は大富豪の長者で、大邸宅を構え、倉には宝が満ち大勢の使用人がおりました。しかし、この父親は、いつも我が子を忘れられず、「もし我が子を探し出して財宝を相続できたならば、どれほど幸せか」と願っていました。

 ある時、息子は衣食を求めて各地をさまよいながら、たまたま故郷の父の家の前に立ったのです。中を覗くと、多くの使用人に囲まれ、辺りを圧倒する威厳を具えた長者の姿が見えました。父親のことを忘れてしまっている息子は、「まずい、これは王様か、もしくは王様のような権力者に違いない。ぐずぐずしていると捕らえられて強制的に働かされるかもしれない」と、その場から逃げ去ろうとしました。

 ところが、父の長者は、そのみすぼらしい男を見て、すぐに我が子と判ったので、側近の者に命じて連れ戻させようとしました。すると、窮子は驚いて叫び、恐怖のあまり、気を失って倒れてしまったのです。

 その姿を見た長者は、我が子の心が非常に卑しくなり、高貴な身分の者を恐れるようになっていることを知り、方便をもって徐々に誘引しようと考えました。そして、使いの者に「許してやるから、好きな所へ行け」と伝えさせたのです。

 すると、窮子は喜んで貧しい里へ、仕事を求めて出て行ってしまったのです。しばらくして、長者は、浮浪者のような貧相な男二人を窮子のもとに遣わし、長者の邸宅の汚物掃除の仕事を一緒にしないかと誘われました。窮子は喜んで長者の邸宅で働くことになりました。

 ある時、長者はわざと汚らしい服に着替え、汚物掃除の道具を持って、窮子に近づきました。そして、共に働いている人を励ましたりして、すっかり窮子を安心させ、親しくなっていきました。そうして、次のように述べました。「家にあるものは何でも使いなさい。私はもう年だが、お前はまだ若い。これからお前には、特に目をかけよう。だから、お前はもうよそへ行ってはならない。ここで働くとよい」。そして長者は、窮子に名前を付けてやりました。窮子はこの処遇に喜びましたが、まだ自分はよそからやってきた身分の低い使用人だと思っていました。このような事情から長者は、二十年もの間、今までと同じように汚物を掃除させました。

 その間、長者と窮子は、互いに信頼し合えるようになり、長者の所へも自由に出入りするようになりましたが、未だ粗末な小屋に住んで、元の環境を変えることはありませんでした。

 そのうち、長者は病気となり、死期が近いことを知ったので、いよいよ窮子に財産を継がせようと思いました。そして「私とお前は、もう心が一つになっている。私の財産の管理を命ずるから、財産を失わないようにしなさい」と言って任せたのです。窮子は、非常に喜びましたが、 少しの財産も自分で所有しようとしませんでした。自分は卑しい者だという意識を、捨てられなかったのです。

 しかし、窮子は次第に大きな心構えを持つようになりました。

 いよいよ長者も臨終の時となり、親族・国王・大臣等の一切を招集して、皆に向かい、出納係である窮子こそ実の我が子であることを告げ、自身の財宝の一切を息子へと相続するのです。

 この長者窮子の譬えは、総じて過去釈尊による下種より華厳・阿含・方等・般若の前四時を経て最後法華における開会の様を譬えているのです。

 つまり、初めに譬喩中の息子が父のもとを離れ落ちぶれていく様子は、過去に仏より下種を受けた四大声聞が、それを信受せず退転し、三界六道に沈淪したことを譬えています。そして次に父子が再会し我が子に気づいた長者が使いの者に跡を追わせ、窮子がそれに恐怖し煩悶したことは、今番出世の釈尊が華厳経を説き、聴聞した声聞衆が聾のごとく唖のごとく全く理解できなかったことを譬え(擬宜)、次に汚物掃除で満足していてはならないとするのが、長者のもとに誘い込むことは小乗・阿含経の化導を譬え(誘引)、そしていつまでも汚物掃除で満足してはならないとするのが、維摩経や阿弥陀経大日経などを説いた方等経の化導を譬えています (弾呵)。また財産管理をさせて今までの状況を卑しいと思わせ、大きな心へと淘汰させることは般若経の化導の譬え(淘汰)、最後に我が息子であることを示して、一切の財宝を相続することは、成仏の境界を開かせた法華経の化導(開会)を譬えているのです。

 そして、続く『薬草喩品』での述成を経て、『授記品』において四大声聞は、釈尊より未来成仏の記別を授かるのです。

 

 真の信解とは

 日蓮大聖人様は『開目抄』において、

 「いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」

   (御書 五三六㌻)

と御教示のように、迹門において説かれた諸法実相の妙理たる一念三千も二乗作仏も、共に久遠実成を明かされていないので、すべて本無今有、有名無実の失を免れられません。したがって、対境を迹門理上の一念三千とした信解では、真の成仏は許されません。

 真の信解の意義を拝しますと、本門『寿量品』が説かれた後、『分別功徳品』現在の四信中、一念信解に至ってその意義が充実されるのです。

 これを文底の御法門より拝しますと、釈尊在世の衆生の得脱(成仏)も久遠元初下種本仏の妙法による下種を信解したことによるのです。

 末法においては、久遠元初下種の本仏たる日蓮大聖人御所持の妙法を事の当体として顕わされた本門戒壇の大御本尊に対し奉る無疑曰信の信心こそ、真の信解の意義となるのです。

 

 

 



  長者窮子の譬えと五時教判の関係図

 

      五時    五味の譬え   長者窮子の譬え

                    (教導) 

 

  第一 華厳時 ーーー 乳味 ーーーー 擬宜

 

  第二 阿含時 ーーー 酪味 ーーーー 誘引

 

  第三 方等時 ーーー 生蘇味 ーーー 弾呵

 

  第四 般若時 ーーー 熟蘇味 ーーー 淘汰

 

  第五 法華時 ーーー 醍醐味 ーーー 開会

 

 

 

 

 

 


戒体即身成仏義

2023年02月18日 | 平成新編日蓮大聖人御書(一)

  『戒体即身成仏義』                   仁治三年 二一歳

 

                         安房国清澄山住人 蓮長 撰


 無量義経に云わく「四十余年未だ真実を顕はさず」云云。法華已前は虚妄方便の説なり。法華已前にして一人も成仏し、浄土にも住生してあらば、真実の説にてこそあらめ。又云はく「無量無辺不可思議阿僧祗劫を過ぎて、終に無上菩提を成ずることを得ず」文。法華経には「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」云云。法華已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり。法華已前に衆生の得道があらばこそ、行じ易き観経に付きて往生し、大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。但釈尊如来の御教の様に意得べし、観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経なり。浄土に住生して成仏を知るべしと説くは、権教の配立、観経の権説なり。真実には此の土にて我が身を仏因と知って住生すべきなり。此の道理を知らずして、浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗経にもはづれ大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民、一切衆生の其の教を信ずるは三途の主なり。法華経は理深解微にして我が機に非ず、毁らばこそ罪にてはあらめと云ふ。是は毁るよりも法華経を失ふにて、一人も成仏すまじき様にて有るなり。設ひ毁るとも、人に此の経を教へ知らせて、此の経をもてなさば、如何かは苦しかるべき、毁らずして此の経を行ずる事を止めんこそ、弥怖ろしき事にては候へ。此を経文に説かれたり。「若し人信ぜずして此の経を毁謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん。地獄より出でて当に畜生に堕すべし、若しは狗・野干、或は驢の中に生まれて身常に重きを負ふ。此に於て死し已はって更に蟒身を受けん。常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如くならん」文。此の文を各御覧有るべし。「若し人信ぜず」と説くは末代の機に協はずと云ふ者の事なり。「此の経を毀謗せば」の毀はやぶると云ふ事なり。法華経の一日経を皆停止して称名の行を成し、法華経の如法経を浄土の三部経に引き違へたる、是を毀と云ふなり。権教を以て実教を失ふは、子が親の頸を切りたるが如し。又観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。

  (御書 九・十㌻)