制御屋の雑記

気になる出来事や感じたことなどを、すこしばかり言ってみようかとw

ゼロ戦で、10万持ってキャバレーに行こう!

2006-08-08 | 思い
TAKARAのゼロ戦のおもちゃに付いていたものですが、なかなか良い文章だと思ったので紹介します。
ちなみに当時のゼロ戦は、装甲はぺらんぺらんで落下傘もありません。


文/梅本 弘(戦記小説家)

 日本の文芸作品でもっともたくさん翻訳され、海外で広く読まれている本は? ノーベル文学賞の大江健三郎や川端康成、最近外国でも人気の村上春樹とかじゃないよ。じつは坂井三郎の「大空のサムライ」なのだ。なにしろ(アメリカのマーチン・ケイデンが改作した)英語版だけて最低100万部。独仏伊露中文やら、スペイン、フィンランド語版、その他にも原著者に無断で出版されているものもあって「何部出てるのかわかりません」と笑っていた坂井三郎氏は先年、惜しくも物故されたが、初めてお会いした際、開口ー番におっしゃった言葉が忘れられない。「空中戦の戦果というのは、まァ、そのほとんどが誤認ですね。わたくしは64機を撃墜したということになってますがね」。アメリカの戦史研究家、日系三世のヘンリー・サカイダ氏は坂井氏の著書をもとに米軍の公式記録を徹底調査、本の記述に合致する約20機の損害記録を調べ出し、それらは坂井氏が実際に撃墜した可能性が高いとしている。

 しかし坂井氏の偉大さは、撃墜数の多寡よりも大戦中、彼の指揮下で飛んでいた列機をただの一度も失わなかったことと、二度もあった「奇跡の生還」であると思う。筆者は、坂井さんからゼロ戦最大の長所はなんだと思うとたずねられたことがある。答えは「大口径の20mm機銃でも、旋回性能や上昇カの良さでもない。長い航鏡距麟。たとえばキャバレーに行くのに1万円しか持ってなかったら勘定が足りるか気が気じやない。10万円持ってれば安心して飲める。つまり燃料にゆとりがあれば空戦に専念できるでしょ」。坂井さんの奇跡の生還2回、まず第1回はガタルカナル上空で頭部に重傷を負い、途中何度も失神しながらのラバウルヘの生還。2度目は夜間、列機を連れた見込み航法で帰った硫黄島ヘの生還だ。坂井さんの並はずれた気力と視力、そして飛行経験に裏打ちされた勘によって為された偉業だが、どちらも零戦の長い長い航続距離がなかったら、もともと不可能なことだった。

 ところがゼロ戦が最初に配備されたころ、この長い航続距離を聞いて「乗る者の身にもなってほしい」と嘆いた戦闘機隊長がいたという。作戦を立案する参謀士官の立場から言えば航続距離の長い戦闘機を持っていればさまざまな作戦を有利に進めることができる。だが、狭い操縦席に閉じこめられて大小便垂れ流しの状態で何時間も飛ばなくてはならない現場の兵隊はたまったもんじやない。ゼ口戦の航続距離の長さは当時の戦闘機の常識を覆すもので、そのおかけで連合軍が驚愕するような作戦の数々を実施することができたんたけど。坂井さんは太平洋戦争開戦に先立って、ゼ口戦で極限まで飛んだら何時間飛べるか実験したという。で、なんと12時間も飛んだらしい。そのおかけでゼ口戦隊は太平洋戦争の開戦時、いきなり台湾から遙々フィリピンを攻撃できた。攻撃された米軍はやって来た日本戦闘機がまさか台湾から来たとは思わず、どこかフィリピンの近海に日本の空母が来ているに違いないと思ったものだ。

 その坂井さんも長時間操縦桿を握り腕を上げているのが辛いので、操縦桿の先端にはまるような穴を開けた杖を作り、それで腕を上げずに操縦桿を操作できるように工夫したという。そうしたら部隊でその杖を作るのが流行って、なかにはそこに「見敵必殺」とかの彫刻を入れる器用でマメな人まで出てきた。練達の海軍搭乗員でも長距離飛行はみな結構辛かったのだ。「もっとも日華事変までの話で、アメリカ相手に戦いはじめてからは、そんな暢気なことはできなくなりましたけどね」と坂井さんは笑っていた。ラバウルからガダルカナルまで三時間も飛んで、命がけの空戦をして、また帰りに三時間。帰途、疲労のあまり居眠りをして墜落してしまった人もいたという。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 在韓米軍、追加削減へ=09年... | トップ | ベテラン議員が安倍氏招き会... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思い」カテゴリの最新記事