制御屋の雑記

気になる出来事や感じたことなどを、すこしばかり言ってみようかとw

「河野談話」の白紙撤回を求める署名

2007-06-18 | 思い

 えー、「河野談話の白紙撤回を求める市民の会」というのがあります。

 「河野談話」の白紙撤回を求める署名を募っております。もし、宜しかったら署名にご協力下さい。

↓こちらです。
 http://kounodanwa.com/


 「河野談話」については、
↓ ・慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話   
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
を参照下さい。

大東亜戦争時の従軍慰安婦について、ありもしない強制性をあったかのように言っちゃった談話です。

  関連リンクは
↓ ・河野談話リンク集
 http://kounodanwa.exblog.jp/


こんな無責任な談話を一人歩きさせてはいけないと思います。

私も一刻も早く白紙撤回する事を望みます。

(´・ω・`)
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ゼロ戦で、10万持ってキャバレーに行こう!

2006-08-08 | 思い
TAKARAのゼロ戦のおもちゃに付いていたものですが、なかなか良い文章だと思ったので紹介します。
ちなみに当時のゼロ戦は、装甲はぺらんぺらんで落下傘もありません。


文/梅本 弘(戦記小説家)

 日本の文芸作品でもっともたくさん翻訳され、海外で広く読まれている本は? ノーベル文学賞の大江健三郎や川端康成、最近外国でも人気の村上春樹とかじゃないよ。じつは坂井三郎の「大空のサムライ」なのだ。なにしろ(アメリカのマーチン・ケイデンが改作した)英語版だけて最低100万部。独仏伊露中文やら、スペイン、フィンランド語版、その他にも原著者に無断で出版されているものもあって「何部出てるのかわかりません」と笑っていた坂井三郎氏は先年、惜しくも物故されたが、初めてお会いした際、開口ー番におっしゃった言葉が忘れられない。「空中戦の戦果というのは、まァ、そのほとんどが誤認ですね。わたくしは64機を撃墜したということになってますがね」。アメリカの戦史研究家、日系三世のヘンリー・サカイダ氏は坂井氏の著書をもとに米軍の公式記録を徹底調査、本の記述に合致する約20機の損害記録を調べ出し、それらは坂井氏が実際に撃墜した可能性が高いとしている。

 しかし坂井氏の偉大さは、撃墜数の多寡よりも大戦中、彼の指揮下で飛んでいた列機をただの一度も失わなかったことと、二度もあった「奇跡の生還」であると思う。筆者は、坂井さんからゼロ戦最大の長所はなんだと思うとたずねられたことがある。答えは「大口径の20mm機銃でも、旋回性能や上昇カの良さでもない。長い航鏡距麟。たとえばキャバレーに行くのに1万円しか持ってなかったら勘定が足りるか気が気じやない。10万円持ってれば安心して飲める。つまり燃料にゆとりがあれば空戦に専念できるでしょ」。坂井さんの奇跡の生還2回、まず第1回はガタルカナル上空で頭部に重傷を負い、途中何度も失神しながらのラバウルヘの生還。2度目は夜間、列機を連れた見込み航法で帰った硫黄島ヘの生還だ。坂井さんの並はずれた気力と視力、そして飛行経験に裏打ちされた勘によって為された偉業だが、どちらも零戦の長い長い航続距離がなかったら、もともと不可能なことだった。

 ところがゼロ戦が最初に配備されたころ、この長い航続距離を聞いて「乗る者の身にもなってほしい」と嘆いた戦闘機隊長がいたという。作戦を立案する参謀士官の立場から言えば航続距離の長い戦闘機を持っていればさまざまな作戦を有利に進めることができる。だが、狭い操縦席に閉じこめられて大小便垂れ流しの状態で何時間も飛ばなくてはならない現場の兵隊はたまったもんじやない。ゼ口戦の航続距離の長さは当時の戦闘機の常識を覆すもので、そのおかけで連合軍が驚愕するような作戦の数々を実施することができたんたけど。坂井さんは太平洋戦争開戦に先立って、ゼ口戦で極限まで飛んだら何時間飛べるか実験したという。で、なんと12時間も飛んだらしい。そのおかけでゼ口戦隊は太平洋戦争の開戦時、いきなり台湾から遙々フィリピンを攻撃できた。攻撃された米軍はやって来た日本戦闘機がまさか台湾から来たとは思わず、どこかフィリピンの近海に日本の空母が来ているに違いないと思ったものだ。

 その坂井さんも長時間操縦桿を握り腕を上げているのが辛いので、操縦桿の先端にはまるような穴を開けた杖を作り、それで腕を上げずに操縦桿を操作できるように工夫したという。そうしたら部隊でその杖を作るのが流行って、なかにはそこに「見敵必殺」とかの彫刻を入れる器用でマメな人まで出てきた。練達の海軍搭乗員でも長距離飛行はみな結構辛かったのだ。「もっとも日華事変までの話で、アメリカ相手に戦いはじめてからは、そんな暢気なことはできなくなりましたけどね」と坂井さんは笑っていた。ラバウルからガダルカナルまで三時間も飛んで、命がけの空戦をして、また帰りに三時間。帰途、疲労のあまり居眠りをして墜落してしまった人もいたという。
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インド国民軍退役軍人からの便り

2006-08-03 | 思い
 インパール作戦については、諸説いろいろな意見があろうかとは思いますが、ここに転載します。


 「日本はインドにとっては良い国だと思います。日本はチャンドラ・ボースと共にインドの独立のため戦ってくれました。これは、はっきりいえます。インドは日本軍の犠牲により独立することが出来たのです。もしあんなに犠牲者を出さずインド、又INA(インド国民軍)に協力しないでインドに進出した場合、インドの軍(イギリス軍インド部隊)は自分たちの方針を変えなかったでしょう。25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ・ボースの軍になったことによりイギリスから独立することが出来たのです。」

 「私たちは常に日本に対し感謝の気持ちを持っています。」

 「最後にもう一度、有難うございました。」  - デロン中佐の言葉 -

 インパール作戦とインドの独立 
 昭和16年12月8日、日本は米英に対し宣戦布告し、大東亜戦争に突入した。開戦初期、日本はハワイ真珠湾、マレー、シンガポール作戦等で戦果を挙げたが、昭和17年6月のミッドウェー海戦において、航空母艦の大半を失い、その後戦況は逆転の様相を呈してきた。  

 その時、イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援を要請してきた。日本軍はインド国内の反イギリス独立勢力の支援と、混迷する選挙区の打開を計るべく、第33師団「弓」、第15師団「祭」、そして第31師団「烈」の三コ師団によりインド国内の要衝インパールの奪取を目指した。作戦はこの三コ師団の他に、チャンドラ・ボース統率下のインド人志願兵1万5千人からなるインド国民軍(INA)も勇躍参加した。  

 3月から始まった作戦は、河幅600Mにも及ぶチンドウィン河の奇襲渡河、そして2000Mのアラカン山脈の峻険を越えるという最初の難関を克服し、「弓」の進撃にあわせ、「祭」の挺身隊はミッションを占領、インパールコヒマ道を遮断、さらに「烈」もコヒマを占領し、コヒマ、モイランそしてインパール周辺にまで日本軍は進出した。  

 インド国民軍も「烈」と「弓」の両兵団と行動をともにして、コヒマとモイランに進出。  遂に念願のインドの三色旗をインド国領土内に翻したのである。  

 しかしイギリス軍の抵抗はきわめて頑強で、戦線は膠着、更に空輸により潤沢な補給を行い、反攻を加えてきた。日本軍は食料弾薬ともに杜絶し、その消耗が極限に達した雨季の6月、ついに撤退を余儀なくされた。連日の豪雨の中の惨憺たる撤退は日本軍に多くの戦死・戦病死者をだすこととなった。  

 戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリス皇帝に対する反逆者」として、3名の将校を極刑に処そうとしたが、このことがインドの民衆の怒りに火をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイギリスも事態収拾困難と考え統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われていたインドの独立は、パキスタンとともに戦後わずか2年後の昭和22年8月15日に達成されたのである。  

 それぞれの国と家族を思う純粋な心と信念をもって戦った、日本軍とインド国民軍(INA)の英霊を私たちは忘れることは出来ない。  


 インパール作戦に参加した日本軍     約 78,000人 
 インパール作戦に参加したインド国民軍  約 15,000人  
 戦没者         日本軍        約 49,000人             
              インド国民軍     約  3,000人  



 われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。 

 1998年1月20日 於 ニューデリー      
              インド国民軍大尉 S.S.ヤダバ    
             (インド国民軍全国在郷軍人会代表)
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ザルカウィ殺害に「報復」、アル・カーイダがTV声明

2006-06-24 | 思い

 争いの連鎖が止まらない。

 日本は遙か昔に争いの連鎖を止めるために、武(戈を止めること)を道にまで昇華させて、武道としたのではないでしょうか。だから最近の柔道は別ですが、武道では必ず勝者は勝利を驕ってはいけない。ガッツポーズなんぞもってのほかです。勝者は必ず惻隠の情を持ち、敗者をも讃えるということで争いの連鎖を断ち切ってきた国だと思います。
 
     ∧__∧ 
     (`・ω・´)   
    .ノ^ yヽ、  
    ヽ,,ノ==l ノ        
     /  l | 
 """~""""""~"""~"""~" 


 【カイロ=柳沢亨之】中東の衛星テレビ、アル・ジャジーラは23日、国際テロ組織アル・カーイダのナンバー2、アイマン・ザワヒリ容疑者のビデオ声明を放映した。  

 同容疑者は声明の中で、米軍に7日に殺害された「イラクの聖戦アル・カーイダ組織」指導者、アブムサブ・ザルカウィ容疑者を「殉教者の長」と称賛した。アル・カーイダ幹部がザルカウィ容疑者の死に言及したのは初めて。  

 ザワヒリ容疑者はさらに、「同志が殺されれば必ず報復する」と語り、対米報復テロを予告した。ザルカウィ容疑者の後継とされるアブハムザ・ムハージル幹部については触れなかった。
 (読売新聞) - 6月24日11時43分更新
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060624-00000402-yom-int&kz=int
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靖国神社 六月社頭掲示

2006-06-04 | 思い
 おととい、靖国神社へ参拝した時に掲示されていた遺書が分かりました。
 あまりに印象に残っていたので、ここに転載させて頂きます。   

 出発間際  
  陸軍少佐 小 林 眞 吾 命
  第三独立飛行隊(義烈空挺隊)
  昭和二十年六月十五日
  沖縄北飛行場附近にて戦死
  新潟県出身 二十二歳
 
 今般大命を拝し特殊空挺隊として決戦の沖縄に参ずる身と相成申候 
 幼きより武人を志し身の光栄此に過るなく欣然死地に赴んとするものに候 
 末子にて一方ならぬ御世話に相成り何一つ報ゆる所無之残念に存候も今回の壮擧成らば幾分なりとも御受納被下度御願申上候 
 最後は断じて父母様はじめ一家の名を恥しめざる事を誓申候 
 遙かに御多幸を御祈申候 
 最後の乱筆御許し被下度
              末子 眞吾    
 父上様
 母 様
 昭和二十年五月二十七日1300熊本にて
 池上先生には呉々も宜敷御伝へ被下度
 出発間際時間なく失禮仕候

 とても22歳の人の文とは思えません。私だってこんな文章はとてもじゃないけど書けないです。
 昔の人には頭が上がりません。こうやって命を賭けられて死んでいった先人達の上に我々は生きているのだと思うと、我々は襟を正して生きていかなければいけないと思います。
コメント (2)
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八坂神社へ行って来ました

2006-05-20 | 思い


 なんか行ってみようと思い立ち、京都の八坂神社に行ってきました。

 八坂神社は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱神子神)を御祭神として祀られています。

  天照大神は天神(アマツカミ)の代表、素戔嗚尊は地祇(クニツカミ)の代表的存在として崇敬されています。特に素戔嗚尊は、母の死に慨き悲しみ、あるいは天照大神との勝利に驕り、さまざまな罪も犯しましたが、高天原からの追放という悲境に自ら雄々しく立ち向かい、遂にこれを克服して、善悪を超えて彼岸に到達したわが国最初の英雄神でもあります。
 素戔嗚尊こそが、日本神話の中で一番個性的で魅力的な神であるともいえます。それというのも、現に素戔嗚尊を祀る神社は全国に数多く存在するからです。天照大神よりも圧倒的に多いのではないでしょうか。その多くは、「祇園さん」、「天王さま」、「天王さん」と呼ばれて親しく信仰されています。


 私もこの御祭神のなかでも、素戔嗚尊のお話は群を抜いておもしろく、親しみを覚えます。
 しかも素戔嗚尊の荒魂が祭られているのが「悪王子社」です。悪王子ですよ悪王子w 
 これだけ神様を身近に感じられる国は、日本だけではないでしょうか?

 これおもしろいですよ→ 素戔嗚尊の物語(八坂神社)

 八坂神社の青龍石は有名なんだそうで、祇園辺りの地域は京都でいうと東の方角にあたるらしいです。京都では風水を元にたしか寺や神社が建てられていており、北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎とそれぞれ守っているそうです。 
 で、こちらには青龍の穴というのがあり、その上に本殿があるそうです。そこから取れた青龍の石を分けてもらえます。私も分けて頂いてきますた。
    

 この画像ではあまり分かりませんが、ほんとになんというか青濃く美しい石です。
 これをお守りとして持っておくとよく、また家の東側に飾っておくと福がくるといわれているそうですよw


 参考:八坂神社ホームページ
    八坂神社(祇園社)サイトマップ

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戦争を知らない人のための 靖国問題

2006-04-20 | 思い

 戦争を知らない人のための 

     
靖国問題
 
 
上坂冬子 著 文藝春秋

 
 憲法論議にしても皇室論議も靖国論議も、まずは正しい歴史の事実を知り、そこから議論を始めないと不毛の論争になります。

 私自身もそうですが、あまりにも幕末くらいから太平洋戦争が終わるまでの事実に基づいた歴史を、学校でも社会でも習っていません。ていうかスルーでして、自分であれこれ調べるしか無かったです。この本を読んで、益々無知は罪であるのだと、あらためて強く思います。

 ぜひぜひ、御一読をお勧めします。(´・ω・`)
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伊勢神宮

2006-03-10 | 思い
 ただ今、愛知県に出張中で思いっ切りハマってましたが、次の仕事の都合で残念ながら明日帰ることになりますた。
 お、んなら帰りのついでに伊勢神宮にでも寄って帰ろうと言うことで、伊勢神宮にお参りしてから帰ることにしました。
 どうでもいい話ですけどww

 参考:伊勢の神宮
     伊勢神宮崇敬会
     伊勢神宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「台湾人元日本軍人・軍属の慟哭」

2006-02-24 | 思い
 我々は過去の史実と真摯に向き合い、そしてそれを教訓として学び、無数の先人達の生き様を後世に伝えなくてはならない責任と義務があると思います。 
 社会や教育が出来ないのなら、気がついた者から始めれば良い。またそうしなくてはいけないのではないかと自問しています。

 
 『台湾の声』 読者投稿文より転載します。
 昨年6月に、私は台湾人のおじいさんにある頼まれごとをされた。その方は、若い頃、ビルマ戦線で日本軍人・軍属として、戦った方だ。頼まれ事とは、「朝雲新聞社から出版されている『イラワジ会戦』という本を探して、買ってきてもらいたい」とのことだった。

 おじいさんは私が多忙なのを知っているので、「急がないから、ついでのときで構わないよ」と気を遣ってくださった。私も日常生活の多忙の中、時々、気にかけて、同書を探したが、結果、出版元に問い合わせても、「絶版」との返答であった。国立国会図書館、防衛庁図書館などに所有していることが分かったが、COPYするにしても、版権の問題もあるし、このような図書館のCOPY代金は通常よりも高いので、どうしたものかと二の足を踏んでしまった。

 あるとき、東京大学の図書館にあることが分かり、東京大学大学院生に事情を話して、その本を借りてもらって、外部で複製製本してもらうように、依頼した。しばらくすると、彼は、「名古屋の古本屋で1冊だけ販売している」という情報を私に伝えてくれた。私は大急ぎで、注文して、取り寄せた。
 
 昨年末、ちょうど台湾に行く機会があったので、私は知り合いの台湾人のおばあさんと一緒に依頼主の台湾人おじいさんを訪ねた。目的は、勿論、依頼された『イラワジ会戦』の本を渡すためだった。最初は、たわいもない話で談笑したが、うっかり私は本来の面会目的を忘れそうになり、あわてて、本を取り出した。

 「長らくお待たせして、すみませんでした。6月に頼まれていた本が、東京大学大学院の友人の協力もあって、苦労して、やっと入手出来ました。絶版した本なので、入手するのが大変でしたが、約束を来年に持ち越さないで、そして、約束を守れて良かったです」と私は言いながら、その本を台湾人おじいさんに手渡した。

 台湾人おじいさんは、かなり驚いた様子で言葉がすぐに出なかった。むさぼるように、本をめくり、同封された戦法の地図を広げながら、興奮した様子で、おっしゃった。「そうだよ、私たち”日本兵”が大東亜共栄圏を守るために、必死で戦ったんだ。ああ、ここで、戦友が死に、ここで戦友が負傷して…」
 
 台湾人おじいさんは、自然にあふれる涙をぬぐおうともせず、私の手を握り締めて、「ありがとう。本当にありがとう」と何度も頭を下げてくださった。ご自身さえ、この本の購入を依頼したことを忘れかけていたところに、私が台湾まで持参したというのだ。

 その様子を見ていた台湾人おばあさんは、おっしゃった。「日本人だからよ」
 私はとっさに何の意味か理解できなかった。おばあさんは厳しい口調で、続けておっしゃった。「他の国の人間に、こんなことを頼んで、誰が約束を守りますか! 日本人だから、どんなに忙しくても、必死に約束を守ってくれるの」

 私は身が引き締まる思いがした。「そんな大そうなことをしていないのに」と思ったからだ。同時に、台湾人が日本人をそのように評価してくださる言葉に日本人の立場の私の方が有難かった。

 台湾人おじいさんの涙は止まらず、おっしゃった。「私たちの心の叫びが分かりますか?今、高砂義勇隊ばかりを日本人は顕彰しているけど、それは違うんだ。アジアの平和を守るために、”日本軍人・軍属”として、命がけで戦ったのは、高砂族だけじゃないんだよ!我々、平地の台湾人だって、最前線で、戦ったんだ。たくさんの大切な戦友を亡くして、大きな犠牲を払って、一生懸命…」

 私は、何と言葉をかけて良いか分からなかった。良かれと思って、日本人たちが、高砂義勇隊の慰霊碑を建立したり、高砂慰霊碑撤去を救って、募金活動したことが、ある意味、平地の台湾人元日本軍人・軍属の心を傷つけている現実が目の前にあるのだ。

 台湾人おじいさんの心の慟哭は、続いた。「我々は、中国や朝鮮半島のように、日本政府に対して、戦争賠償金や謝罪を求めようなどという気は全くないのだ。天皇陛下でも、日本国総理大臣でも、たった一言でいい。”おまえたち、日本軍人・軍属として、よく頑張ってくれたな。ご苦労さん。”その言葉さえあれば、充分なのだ。どうして、戦後60年、日本はたったその一言を言ってくれないのですか!」

 日本人として、本当に謝らねばならないのは何だろうか?
 日本人として、本当に感謝しなければならないのは何だろうか?
 日本人が本当にすべきことは、何なのだろうか?

 私は1人、同じ日程で、高雄の旗津半島にある無名戦士の慰霊碑を参拝した。
 許昭栄さんは、命がけで、全人生と全財産をかけて、すべての戦争犠牲者に対して、 この慰霊碑を建立した。私が許昭栄さんを訪ねたときには、マンションの家賃が払えずに、部屋を引き払うところだった。
 
 私は許昭栄さんとの約束も翌年に持ち越したくなかった。アルバイトで得たわずかばかりのお金を 「無名戦士の慰霊碑維持と献花のために使ってほしい」と封筒を渡した。

 許昭栄さんは「学生がそんなことをするものではない」と笑っていたが、私は笑えなかった。

 夕日が沈むバシー海峡を背景に、無名戦士の慰霊碑と複雑な台湾事情に対して、日本人の私は、心から頭を下げた。
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日本国国旗について

2006-01-29 | 思い

 今の社会ではなぜか国旗を掲揚すること、国歌を唱うことが変みたいな感じが見受けられますし、特に都市部の学校などで育った連中は国歌すら教えられてないので、歌詞も知らないし唱うことも出来ません。

 あまりにも大人(教育者含む)が、真実の日本の歴史を教えていないが為に、日本人でない日本人が大量に生産されているような気がします。

 自分の国の歴史を知らないということは、自分の国を愛せるはずもなく、ましてや他人の国に敬意を払うこともなく、この国に生まれたことを本当に感謝することもなく恥じ入ることもなく生きてゆくことでしょう。そして自ら進んで意識することもなく亡国の道を歩んでゆくような気がします。

 とまれ、私の子供の頃、祝日などはそこらの家の玄関に国旗が掲揚されていました。ですが今はごくまれにしか見受けられません。

 私も祝日には家に国旗を掲揚しています。どうか心ある皆さん、ここらで国旗の一つも掲げてみませんか? マンションなどで飾る場所がないと言うのなら、小さい小旗でも、カラープリンターで印刷したものでも良いです。国旗を掲揚するという行為と思いが大事だと思います。そういう気持ちになることで、今社会にあるいろいろな問題の糸口が見えてくるような気がします。

 物質文明まで戻る必要はありません。そろそろ昔の、明治までの日本人の精神に戻る頃ではないでしょうか。過去の日本人は、世界に誇れるほどの精神文化が確実にあったのに、今は消え失せようとしています。

 これでは必死になって日本を支えてくれ、そして死んでいった膨大な数の先人達に対して大変申し訳ない事だし、こんな背信行為はないと思います。

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 日本の国旗となった「日の丸」は、古い歴史をもっています。赤い丸は、万物に恵みをもたらす太陽を形どったものであり、皇祖神を“天照大神”と仰ぐ日本人が考えだした最もシンプルなデザインです。

 その早い例は、王朝時代の元日朝賀や即位の儀場に掲げられた「日章」の幡にみえます。やがて、源平以来の武士たちは、扇面に好んで日の丸を描きました。また建武中興を敢行された後醍醐天皇は、日の丸を旗印として掲げられたと伝えられます。さらに秀吉・家康の時代に活躍した御朱印船には、朱の丸が旗章に使われています。
 やがて幕末に至り、外船がしきりに来航し、また諸大名も大船を造るようになったので、幕府は安政元年(1854)7月、日本船が異国船と紛れないよう、「白地に日の丸の幟」を「日本の惣船印」と定め布告しました。
 ついで維新政府は、明治3年(1870)の1月27日、太政官布告により郵船商船規則を公布し、その中で正式に「御国旗之事(国旗制定記念日)」を定めました。それによれば、国旗の寸法は、縦70、横100の比率の白地に、赤い日章の直径は縦の5分の3となっています。

 参考:世界60秒めぐり(日本)
     学校における国旗及び国歌に関する指導について (通知)
     神道の基礎知識
     国旗掲揚・降納の国際マナー

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