風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句

濫読・雑読の風信子(ひやしんす)が気の向くままに、お気に入りの本を紹介いたします。

☆ 祖母は、大正デモクラシーの申し子であったのかも・・・。

2011年02月13日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
風信子の祖母は明治42年の生まれでした。

都城高等女学校へ入ったのは大正の何年位の事だったのでしょうか。

何の学科が好きだったの? と問うと。

物理と言いました。男先生が、「空間とは~」という事を話してくれるのが面白くて好きだったとか。

英語は苦手で、校舎の廊下にいて、遠くから英語の先生(女性)が歩いてくるのを認めるとあわてて隠れたそうです。

先生が近くにくるとサッと腕時計を差し出して、「今、何時」と英語で聞いてくるからだそうです。

きっと胸がドキドキしたのでしょうね。

その頃、女先生のなかで祖母に用事を頼む方がいらして、雑誌:「婦人公論」を買ってきて欲しいというので、いつも頼まれていたそうです。

「婦人公論」が発行されたのは大正4年の12月23日とのことです。「新年号」の見出しには

「女の読書欲 知識欲は日に日に進歩向上して在来の婦人雑誌の平凡な記事や口絵や写真にはもう厭き果てた。」とあります。

「女性の自覚と解放」をテーマにした「婦人公論」は、インテリ層には好評でしたが、他の婦人誌が持つ華やかさに欠けたためか部数は低迷したそうです。

その本を、祖母はまだ十代で読んでいました。
女学校の先生が、自分が読み終えると本を貸してくれていたのです。きっとワクワクしながら読んだことでしょう。

有名な与謝野晶子平塚らいてう「母性保護論争」は、婦人公論の草創期の1919年に載ったらしいです。

直接、聞いたことはことはないのですが、もしかしたら、そのころに17歳の祖母は在学中であり、借りていた「婦人公論」で読んでいたかもしれません。「職業婦人」になりたかったとは言っていましたから。

父親が校長先生であるにもかかわらず、女学校を出ると、祖母は宮崎市の赤江にあった鐘紡紡績に勤めたのでした。職業婦人として働きたいと考えたのかもしれません。

温厚という雰囲気を身に付けた祖母の口吻はもの柔らかでしたが、中学生の私と話していても昔堅気なもの言いはせず、良妻賢母が一番良いとか言ったことはありませんでした。

でも考えてみると、女学校のあった都城という地域は昔は薩摩藩の領地であり、明治以降に宮崎県に繰り入れたという処です。

ですから、方言なども薩隅弁に近い諸県弁(もろかたべん)と呼ばれる言葉であり、現在でも宮崎市内の宮崎弁とは違いがあります。

よくそんな鹿児島に近い風土で、女学校の先生方も新しい思想を身につけようと頑張っていたのだと思います。




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