月刊:文藝春秋の何月号だったのか、身内の書けなかった自分史を綴るのは遺族(家族)の勤め(責任)だとあった。
それが平凡な庶民のものだろうとである。その点では今書いているものは、ちょっとは約束を果たすものだと思う気持ちもある。
生前の父には「自分史を」書くことを勧めた。
父の生前に使いこなしているワープロでもよいし10年程前に買ったパソコンでもよいからと・・・。
だが、10年前の父は、囲碁の方で段位を上げるのに夢中であり、なおかつ二つの囲碁の会に入り毎日熱心に指していた。
あるいは父も自分でもそのうちに書こうかとも思っていたのかも知れない。
結局はそれは果たせず、かつ私の昔、聞いた話も断片的である。
すでに最初に聞いてからは40年が過ぎ、より断片的に聞いた2回目にからも30年近くも経った。
だから、これから綴る父から聞いた長崎の原爆投下の地獄図というものは、父の見たままの様子ではなく、私が聞きながら頭の中に描いていった様子であるから長年の間に窯変しているかも知れない。
だが私は聞いた話を長い間、忘れずに記憶しておける自信は多少はあるし、話を聞きながら映像化していったから完全に色褪せたものではない。
あるいは、最初に聞いた話あまりの衝撃に鳥肌が立っていたし、恐ろしさにショックを受けたせいで生々しく記憶しているのかも知れない。
けれど、悲しいことに断片は断片でしかない。






















































三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場で被爆した父は、怪我こそしていなかったが3㎝程延びた坊主頭の髪には、破壊された工場から飛び散ったほこりがギッシリと詰まっていた。それは、宮崎に逃げ帰って洗い落そうとしても余りにこびりついたものだったので取るのが大変であったそうな。
つぶれた建物から出てみるとすっかり景色が変わっており、ここにいてもどうにも仕方ないと考えた。
逃げながら地面にある黒い物体が、人間が焼けて黒い死体が横たわっているのだと気がついた。
工場の手前は川があり、川を渡れば稲佐山だが、父が山のほうへ逃げたというのは反対側にある工場の裏手の山かもしれない。
山を登っていく途中に病院が見えた。
そこでは地面に顔に白いハンカチをかけられて横たわっているたくさんの看護婦さん達がいた。
別に怪我をしている風ではなく、寝ているような雰囲気であるが、彼女達は死んでいて寝かせられていたのであった。
爆心地ではむごく焼けて人は死に、あるいは怪我をして凄惨な姿で苦しんでおり、距離があるところでは放射能により綺麗なまま急性死していったのである。
さらに山へ入っていくと、山道に一人の小学生があおむけに寝ていた。
眼が空を見つめていた。
父は声をかけた。「こんなところで何をしているの。」
少年は無言であり、父は木々の間から見える青い空を一緒に振り仰いだ。
やがて、父は少年が死んでいるのだとさとった。
何処の誰だとも知れずに一人で山中で亡くなっているのを親は知っているのかと思うと可哀そうだった。
さらに進むと、山中に開けた場所があり、一軒の家が燃えていた。
農家だった。藁ぶき屋根であるらしかった。
家の持ち主は言った。「なんで火の気もないのに家が燃え上がったのか分からないのだよ。不思議だ。不思議だ。」
原爆の熱が、藁ぶき屋根を発火させたらしい。
ここまで来るとかなり爆心地から離れていて、農家の主人は火事の理由が皆目わからなかったらしい。
歩いて歩いて逃げたが、寮も焼けてしまって食糧もない。
食事にもありつけないかと地面に座り込んでいると、同じように逃げてきた大人が横に座り食べ物を取りだした。
思いもかけず大人が一つを手渡してくれた。
ふかしたばかりのジャガイモが一個だった。
「おじちゃん。ありがとう。」
礼を言って食べたジャガイモ味は忘れられない美味しさだった。
父は宮崎へ帰る方法を考えながら、ジャガイモをほうばって食べた。













































参考資料:
『原子雲』
朝日新聞:「広島・長崎の記憶」
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それが平凡な庶民のものだろうとである。その点では今書いているものは、ちょっとは約束を果たすものだと思う気持ちもある。
生前の父には「自分史を」書くことを勧めた。
父の生前に使いこなしているワープロでもよいし10年程前に買ったパソコンでもよいからと・・・。
だが、10年前の父は、囲碁の方で段位を上げるのに夢中であり、なおかつ二つの囲碁の会に入り毎日熱心に指していた。
あるいは父も自分でもそのうちに書こうかとも思っていたのかも知れない。
結局はそれは果たせず、かつ私の昔、聞いた話も断片的である。
すでに最初に聞いてからは40年が過ぎ、より断片的に聞いた2回目にからも30年近くも経った。
だから、これから綴る父から聞いた長崎の原爆投下の地獄図というものは、父の見たままの様子ではなく、私が聞きながら頭の中に描いていった様子であるから長年の間に窯変しているかも知れない。
だが私は聞いた話を長い間、忘れずに記憶しておける自信は多少はあるし、話を聞きながら映像化していったから完全に色褪せたものではない。
あるいは、最初に聞いた話あまりの衝撃に鳥肌が立っていたし、恐ろしさにショックを受けたせいで生々しく記憶しているのかも知れない。
けれど、悲しいことに断片は断片でしかない。






















































三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場で被爆した父は、怪我こそしていなかったが3㎝程延びた坊主頭の髪には、破壊された工場から飛び散ったほこりがギッシリと詰まっていた。それは、宮崎に逃げ帰って洗い落そうとしても余りにこびりついたものだったので取るのが大変であったそうな。
つぶれた建物から出てみるとすっかり景色が変わっており、ここにいてもどうにも仕方ないと考えた。
逃げながら地面にある黒い物体が、人間が焼けて黒い死体が横たわっているのだと気がついた。
工場の手前は川があり、川を渡れば稲佐山だが、父が山のほうへ逃げたというのは反対側にある工場の裏手の山かもしれない。
山を登っていく途中に病院が見えた。
そこでは地面に顔に白いハンカチをかけられて横たわっているたくさんの看護婦さん達がいた。
別に怪我をしている風ではなく、寝ているような雰囲気であるが、彼女達は死んでいて寝かせられていたのであった。
爆心地ではむごく焼けて人は死に、あるいは怪我をして凄惨な姿で苦しんでおり、距離があるところでは放射能により綺麗なまま急性死していったのである。
さらに山へ入っていくと、山道に一人の小学生があおむけに寝ていた。
眼が空を見つめていた。
父は声をかけた。「こんなところで何をしているの。」
少年は無言であり、父は木々の間から見える青い空を一緒に振り仰いだ。
やがて、父は少年が死んでいるのだとさとった。
何処の誰だとも知れずに一人で山中で亡くなっているのを親は知っているのかと思うと可哀そうだった。
さらに進むと、山中に開けた場所があり、一軒の家が燃えていた。
農家だった。藁ぶき屋根であるらしかった。
家の持ち主は言った。「なんで火の気もないのに家が燃え上がったのか分からないのだよ。不思議だ。不思議だ。」
原爆の熱が、藁ぶき屋根を発火させたらしい。
ここまで来るとかなり爆心地から離れていて、農家の主人は火事の理由が皆目わからなかったらしい。
歩いて歩いて逃げたが、寮も焼けてしまって食糧もない。
食事にもありつけないかと地面に座り込んでいると、同じように逃げてきた大人が横に座り食べ物を取りだした。
思いもかけず大人が一つを手渡してくれた。
ふかしたばかりのジャガイモが一個だった。
「おじちゃん。ありがとう。」
礼を言って食べたジャガイモ味は忘れられない美味しさだった。
父は宮崎へ帰る方法を考えながら、ジャガイモをほうばって食べた。













































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