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Re=response=応答、感応=物事に触れて心が動くこと。小田和正さんの大好きな曲からいただきました。

「恋ぐるい」 諸田玲子 

2009-02-21 | 読む

先日、とみさまに源内関連の小説ということで紹介していただいたなかから、
これを選んでみました。
       「恋ぐるい」諸田玲子著 (新潮文庫)

 才能に溺れて落ちていく男に、女は一途な思いを寄せ、慕い続ける・・
 稀代の才人・平賀源内と野乃との人知れぬ恋。本草学者、戯作者で
 発明家としても一世を風靡しながら、取るに足らない男を殺めて
 入牢した源内は、獄中で回想と妄想に身悶えしながら、野乃との
 狂おしい交情を憑かれたように綴る。しくじり続きの男をひたすらに
 愛した女の情愛を描き尽くす時代長編。『源内狂恋』改題。

あの平賀源内を「しくじり続きの男」としたところにビビッときて
この小説を選んでみたわけですが、、これは良かった!
最近になくひどく気に入ってしまって、図書館で借りていたのだけれど、
中古本を取り寄せるまでしてしまいました(笑)
源内が、今ふたたび、愛おしくてなりません。

野乃は、源内が高松から連れてきた親子ほど年の離れた下女。
いつしか心惹かれ合いないがらも、源内はその思いに素直になれずに、
不幸な関係を続けてきました。
ふたりの20年にわたる歳月を、源内が野乃の目で振り返り、野乃の言葉で
綴っていきます。初めて金のためでも名声のためでもなく、見栄もなく
作為もなく、源内は書くことに没頭します。

源内の心のなかの野乃が語ります。
野乃は源内に憧れ慕いつつ、大いなる才と志を持ちながらひとつ事に
専念できずあれこれ手を出しては失敗し、巨額の債務と焦燥や嫉妬の念を
募らせてゆくばかりの源内を、冷ややかに批判的に見ています。
野乃がどう思っていたのか、ほんとうのところは源内にもわかりません。
しかし心のなかの野乃を介して、源内は己自身を奥底深くまで見つめ、
その醜い姿を容赦なく晒していきます。
当時は気づかなかった、あるいは向き合おうとしなかった自身の心。
自分はどこでなぜ道を誤ってしまったのか。
記憶を辿るごとに心を一枚一枚剥いでいくようなその作業が、
なんとも痛々しい。
馬鹿で哀れで滑稽な男でしかないかもしれません。
でも、その馬鹿で哀れで滑稽な言動も心の動きにも、
わたしは同情を感じずにはいられませんでした。
わたしも知っている。
まだ源内ほど深く自分をわかっているとは思わないけれど、
わたしにも仮面の下に隠した源内のようなわたしがいることを。
そういう人間が仮面の下の自分と向き合わねばならぬときの
恐怖、屈辱、怒り、慙愧、虚しさを。

源内は入牢したとき、脇腹に傷を負っていました。
筆が源内と野乃のつらい時期に進むつれ、その傷が疼き膿みはじめ、
やがて源内のからだを蝕んでいきます。
源内は尽きかける力を振り絞って、最後の場面を書き上げました。
あの事件です。それが野乃との別れとなりました。

源内がその命の最後に綴った物語。
語る野乃は源内の幻想。それでも、そこに語られた物語には
ふたりの「事実以上の真実が詰まっている」と源内はいいます。
「事実以上の真実」という言葉の切なさに思わず涙が溢れました。

実はこの小説、発表された当初『源内狂恋』と題されていましたが、
のちに『恋ぐるい』と改題、加筆改稿されています。
ちょっと興味があったので『源内狂恋』のほうにもざっと目を通して
みたところ、、最後の最後の違いにびっくり。
ですがどちらにせよ、この世で互いの真実をわかり合えなかったふたり。
ただ、その真実がかけ離れたものではなかったことを察せられる結末には
少しだけ救われた思いがしました。

昨年暮れの舞台『表裏源内蛙合戦』の余韻を引き摺り、
源内の外伝を読むようなつもりで手にとったこの小説。
そこに冒頭現れた源内はすでに牢のなかで、
天才でも奇人でもなく、実は気弱で忍耐がなく飽き性で、
そのくせ見栄っ張りの強情っぱりで嫉妬深くて寂しがりやで。
その人間臭さはやはり人並みはずれているといってもいいかもしれません。
そんな源内が、わたしにはひどく切なく愛おしく思えました。

思いのほか心を揺さぶられた小説でした。

「震度0」  横山秀夫・著

2007-05-25 | 読む

一気に読みましたよ~♪
読むのが遅いわたしにしちゃ快記録!
410ページ、3晩で読了!(自慢するほどじゃないか、笑)
ひさびさに喰いつくように読みました。
3日間、PCすら開けなかったもの・・

「相当面白かったですねーー!」
上川さんのこのひと言(前回のメッセージですね)で動きましたねえ。
こういうのは、先に読んじゃったら面白さ半減じゃ?
と思っていたのだけど、あ~~んなふうに言われちゃうとねえ(笑)
そのわりにはすぐ買いに走ることもしませんでしたが。
また新しい動きが出てきたようですので、今のうちに~と思い立ち、
先日やっと購入。
どえらい立派なハードカバーで、410ページ・・重い、かさばる(笑)
そして、軽い気持ちで読み始めたら・・
意外にサクサク読めて、ぐんぐん夢中になって、速い速い。
「大きなため息とともに、最後のページを閉じた」(上川さんコメント)
はいっ、そのとおりでした!
3晩目は、もうとにかく読みきってしまいたくて、一気一気・・
「読んだぜっっ!」
大きなため息出ました。
上川さんのは、違う意味で「大きなため息」のような気もするけど(笑)
(つまり結末について、ってこと)

ふだん、こういうジャンルの小説はあまり読まないし、
横山秀夫さんといえば「陰の季節」「動機」「半落ち」・・ですが、
これも実は読んではいません。
だから、この「震度0」がそれらに比べても相当面白いかと言うと、
その辺の評価はわかりませんが・・
展開はものすごく面白かったです。

阪神淡路大震災の起こったその朝、警務課長謎の失踪という「激震」が
N県警幹部を襲う。キャリア組VSノンキャリア地方(じかた)組、
警務部VS刑事部、県警ナンバー1VSナンバー2・・
大震災救援や失踪した警務課長の安否など無視したかたちで、
6人の幹部が、それぞれの野心と保身を剥き出しにして、ぶつかり合う。
主人公という人物を特定せず、
時間を追って、6人それぞれの心理と情報戦を描いているのが、
わたしには新鮮で、そのこと自体がまず面白いと思いました。
ひとつの事件を、少なくとも6つの(ほかにもある)視点から見る
ことになるので、ドラマの奥行きが深い感じがします。

ただ・・(こういうと、これから読む方の興味を殺いでしまうかなあ)
ドラマに奥行きの深さは感じましたが、
残念ながら、底が浅かったような気がしました。
展開の面白さに比べ、オチはそれかよ・・みたいな。
エラそうなこと言っていますね(笑)
それから、阪神淡路大震災という、いまだ傷跡生々しい「現実」を、
この架空のドラマ、
それも警察として忌々しき事態(実態に限りなく近い??)に
絡めるやりかたは、いかがなものかと・・複雑な気分です。
特に実際被害に遭われたような方には、嫌悪感を抱かれるかも。

ま、冷静に振り返ると、そんな思いもありますが、
とにかく一気に読み切らせる面白さは、間違いなくあると思います。
それに加え、
WOWOWでの同名ドラマ化ですから!上川さん主演ですから♪
ほかのキャストも発表になっていますので、
脳内に映像を繰り広がる楽しみが、小説の面白さを倍増したかもしれません。
小説では、主人公を特定していませんが、
ドラマでは、上川さんが演じる冬木優一・N県警ナンバー2の警務部長
(警察庁キャリア)が、主人公となるのでしょう。
コレが、わたしとしては「やった~!」です♪

これまでの上川さんのキャラでいけば、
堀川という準キャリアの警備部長が、比較的順当。
6人のなかでは、いちばんバランス感覚がよく正義感や責任感が強く、
(つまりいちばん真っ当)それゆえの葛藤も多い。そのうえ、
プライベートでちょいと暗い過去があって、常にお悩みモード(笑)
ありがちキャラで、いつもの上川さん。

一方、冬木という人物は・・
「将来長官ポストに座るということは、任官から退官までの長い年月、
 組織内で一度も敗北を喫しないことを意味する。
 負けられない人間。負けてはならない人間。
 冬木は多分に帝王学を意識して自らの言動を決しているに違いない。」
・・まさに、これです!
ほかの幹部とのやりあい、失言したり裏をかかれたりするたび
「勉強になった。」と自分に言い聞かせるんです。常に前を見ている。
キレ者で最高を目指し、プライドが高く、傲慢で・・
同じエリート警務でも、立場上の違いもあって、
「陰の季節」の二渡警視のような人間性は見られません。
でも、すでに頭のなかでは「冬木=上川さん」で動いているせいか、
これがめっちゃかっこいい!!と思ってしまいました。
「白い巨塔」の財前教授に近いキャラ、ですかね。
他人を勘ぐったり、侮ったり、そこまで言うかっ、の強気。
これだけの強気キャラは、これまでまずなかったのでは?(と思いますが)
「わるいやつら」の戸谷先生で、新しい顔を見せてくれただけに、
この冬木には、相当期待しています。
新たな挑戦、となり得る役だと思います。
あ・・小説では銀縁眼鏡、とあります。
HPの写真では眼鏡はしていないですね。今度は眼鏡なし希望(笑)

正式に発表されているキャストはというと・・
  本部長・椎野 =渡辺いっけいさん
  刑事部長・藤巻=國村隼さん
  警務課長・不破=西村雅彦さん
  不破の妻・静江=余貴美子さん、 だけですね。

ほかに、升毅さん、斉藤暁さん、矢島健一さん、松重豊さん。
斉藤さんは、交通部長の間宮ですね・・なんとなく雰囲気違う気も
するんだけど(笑)あの卑しさが出るかどうか。
升さんは、素行の怪しい(笑)生活安全部長の倉本ではないかと。
警備部長の堀川が、矢島さんなのか松重さんなのか??
(矢島さんって、あまり記憶にないのでよくわからないんですが)
堀川が矢島さんで、松重さんは藤巻の部下?
松重さんが堀川なら、矢島さんはヤミの元締め、桑江とか??
ところで、椎野=いっけいさんは、どうなのかなあ。
いっけいさんのお得意キャラだから、うまく見せてくれそうだけど、
もうちょっと・・見た目に箔がついているといいのにな。
あまりに本庁キャリアの本部長に見えなさすぎ(笑)
藤巻と冬木は、相当やりあうので、
渋キャラの國村さんと上川さんのぶつかり合いが、すごく楽しみです。

あとは、女性陣。
不破の妻・静江をチセ・・いや余さん。
冬木との絡みは、ほぼ終盤だけになると思いますが、再共演で楽しみ。
そして、呆れた「内助の功」に右往左往の、部長連中の妻たち。
どこまで描かれるでしょうか。
面白いといえば面白いですが・・・「まったく~」なバカ嫁連(失礼!)
冬木の若妻・紘子は、読む前は戸田菜穂さんかと思ったけど、
年齢からして、キャラ的にも平山あやさんなのかな~?
あの世間知らずで、ぺちゃぺちゃの甘ったれ嫁に、
「優ちゃ~ん」って言われてつい目じりが下がっちゃうのか・・冬木さん(笑)
じゃ、戸田さんは、キャリア食いの局か、謎の女か・・

いやはや仮想キャスティングは楽しいもんです♪♪(←ひま!)
ぜ~~んぜん違ったりして(爆)
8月の放送が俄然楽しみになりました!

おっとその前がありますね。
7月期フジ系列の連ドラで、ゲイの校医さん、ですね。
一豊→信長→久留島刑事→悪い医師→ゲイの校医→警察庁キャリア→・・・
最近の、役の振り幅の大きさったら、すごいですね~!
めっちゃチャレンジャー(笑)
たしか『SHIROH』に取りかかる前のインタビューで、
「本当に面白いと思いますよ、この男のやってることは」と
そのころのお仕事の幅の広さを、自身で面白がっていらっしゃいましたけど、
も~~今やそんなモンじゃないですね(笑)
面白すぎ。
こんなに楽しませていただけて、嬉しいですね~♪♪
舞台がなくてもまだガマンできそう・・。

上川さんがもう「何でも来い!」なら、
わたしたちは「来るなら来~い!」
何でも受け止めてみせますよ~~(笑)

「17歳は2回くる」 山田ズーニー・著

2007-05-21 | 読む

「考える面白さを体感する『おとなの小論文教室。』」(ズーニー先生)
まさにその面白さに、昨年来ハマっています。
その第1巻が、その名のとおり「おとなの小論文教室。」(過去記事)
第2巻は「理解という名の愛がほしい」(過去記事)
「17歳は2回くる」は、そのシリーズの第3巻。
「ほぼ日刊イトイ新聞」のなかの同名コラムも、
毎週楽しみに読んでいます。

ズーニー先生の書くものを読むときはいつも、
心の、ふだんとは違う部分が、刺激され動きます。
「動く」というよりは、
「動かしている」といったほうがいいかもしれません。

「おとなの小論文教室」のシリーズで、
ズーニー先生は自分の人生を曝すようにして、
考えをより深く掘り下げることで、いかに自分や他人と向き合えるか、
教えるというよりは、提示してくれています。

先生のハイキャリアな職業人生からは、
わたしのこの平凡な生活なんて、まったくかけ離れているわけですが、
先生の、仕事を中心とした生活のなかで、
折々にぶつかり考え抜いていく過程を読んでいると、
一種のデジャブな感覚を覚えることが、意外にもよくあって驚きます。
(幸い、こうして「書く」という作業を続けていることは、
 ほんの少しだけ、実感に近いものを得る要素にはなっています。)
そのとき、先生の著書の言葉をお借りすれば、
わたしは「自分の経験の湖」を探しに潜っていきます。
どんどん潜っていくうちにどこかで、
「これだ・・」というものに、出会います。
自分の心の奥の奥に隠れていた(あるいは隠していた)思い。
今度は、それをぐんぐん引っぱり上げていくうちに、
何かを掴む、あるいは一歩前に進む、
そんな力に、思いが変換される気がします。
以前の著書で「考える筋肉」という話を読みましたが、
先生の著書やコラムを読み続けるうち、
わたしにも、少しずつそれがついてきたのかもしれません。

これまで、何かに行き詰まったとき、自分がわからなくなったとき、
心の処方箋を求めて、生き方とか考え方を説いてくれる本を、
何冊か読んだことがあります。
それぞれ、それなりに理解もし、癒されたり反省したりもしましたが、
そこから前に進めたかといえば、そうでもありません。
その場しのぎの、対処療法に過ぎなかったのかもしれません。

そこから前に進むにはどうしたらいいか。
それが、ズーニー先生の本にはありました。
でもほんとうの答えは、その本のなかにあるわけではなく、
それを踏み台にして、自分でとことんまで自分や問題に向き合い、
自分の力で見つ出してくるものだと、わかりました。
そして、初めてそうすることができました。

今回読んだ第3巻「17歳は2回くる」は、
「自分の潜在力を生かす思考法」がテーマです。
前の2冊よりさらに、前に進む力を導き出してくれる内容だと思います。
この巻にもまた、心に響く言葉がいっぱいでした。
そのなかの一番は、
  「自分から遠くなるような不安なときは、
   本当は、自分に近づいているのかもしれない。」
        (第2章 おとなの思春期
          Lesson17 わたしのニッチはどこにある?)
・・・これです。

ズーニー先生の著書やコラムを読んで、
たくさんのひとが自分の思いを引き出され、
それを勇気をもって先生のもとに届けています。
先生は、それを待っていてくれます。
わたしも、これまでにもういっぱいの思いと力をもらっているのに、
それでもまだ、自分の思いを言葉にして先生に伝える自信と勇気が、
持てませんでした。
まだまだ考えの浅いところを見抜かれそうな気がして。
でも、やっと書けそうな気がしています。
近いうちにきっと、届けたいと思います。

味噌をつくりました

2007-02-20 | 読む

昨日初めて味噌を作ってきました。
材料は本来の、国産大豆と豆麹、米麹、塩のみ。
これから1年間四季の移り変わりに育てられて、
昔ながらの安心、安全で、栄養価たっぷりの美味しい味噌になります。
(なってくれるはず)

昨年の今ごろ作った味噌を使ったお味噌汁をいただいたとき、
とっても美味しかったのです。
最近の市販の味噌は、いろ~んなもの入っているんだなあと
あらためて気づかされました。

食育のことでたびたびお世話になっているみなさんに、
今回もお世話になりました。
味噌なんて、材料も作り方もまるで知らなかったので、
親切に教えていただき、助けていただき、
いろいろ驚きながら、楽しみながら、
初めての味噌を仕込むことが出来ました。
時間はかかるけれど、思ったより簡単で楽しい作業でした。

家へ持ち帰り、子どもたちに見せると、とても不思議そうな顔(笑)
味噌とは思えない色とにおい、
それから今から1年もおいておかないといけないこと。
でも、これがほんとうの味噌なんだよね。
と、母であるわたしでさえ知らなかったのだから、彼らの反応は当然。
「美味しい味噌ができるといいね」
と願いをこめて蓋を閉め、たぶんわが家でいちばん涼しい階段下収納庫へ。
1年後が楽しみです!

お昼の食事を一緒にいただきながら、
こうして昔からの日本人の知恵が生んだ、安心、安全で栄養価が高く、
最も日本人のからだに適した食べものを、もっと大切にしなきゃね、
という話を聞かせていただきました。
食に限らず、戦後長い時間をかけて大きく欧米化してしまった
現代の日本人の生活は、伝統的な日本本来の姿(人にも環境にも社会にも
やさしい暮らし方)に押し戻すべき時期にきているそうです。
また環境や健康を脅かすさまざまな危険についても、
もう10年も前から指摘されていることすら、
改善されるどころか、ともすればさらに悪い方向へ押し流されています。
自分たちで社会を大きく動かすことはできないけれど、
自分たちでもできることは絶対あるし、
自分たちの心がけひとつでできることなら、
少しずつでもやっていきたいね、というお話でした。

食のことだけでなく、環境のこと、社会のこと、こころのこと・・
ほんとうに大切なことを、きちんと考えているひとたちだなあと、
ここに参加させていただくと、いつも背筋がぴんと伸びる思いです。
おかしいと思うことは、おかしいと言うし、
よいと思うことは、どんどんやってみる。
誰の言うことでも、みんながきちんと聞いてくれるし、
子どもたちはみんなの子だと、とても大切に思っていてくれる。
何よりも、いつもみなさん笑顔がいっぱいだということ。


またひとつ、すてきな場所が見つかりました。

『ゆれる』にもう一度揺れて 

2006-10-14 | 読む

昨日勢いで書いた内容に、今さらまた、揺れに揺れた。

稔が、猛に対して抱いてきた感情について。
つい、極端に考えすぎたと思う。
(ついつい、捏ねくり回して考えるクセがあるのがいけない。)
やっぱり、そんな特別でない、もっと普通の、
もしかしたら、誰もが持ち合わせているかもしれない感情かもと、思い直した。

ある人のことを、とても大好きだけれども、
その気持ちとは裏腹に、
その人の人格や境遇、評価や成功などについて、
常に、激しい嫉妬心や対抗心をもって見ていることはあり得る、と思う。
少なくとも、わたしは自分のなかに、
絶えずそういう裏腹な感情に揺れている自分を、認める。
そして、その人に対する愛情とか信頼と、嫉妬や対抗心とのバランスを、
微妙に保ちながら、人間関係を保っていると思う。

稔について。
猛に対して、不公平感や嫉妬心を相当募らせつつも、
長く離れて暮らしていることや、今の落ち着いた生活のなかで、
兄弟の愛情や信頼とのバランスは、うまくとれていたのだと思う。
それが・・
猛が智恵子に再会した瞬間、微妙に揺らいだに違いない。
今のささやかな幸せを脅かされるかもしれないことに、怯えたのだ。
そして。
あのとき、あの橋の上で、猛がかけたひとことに、
「猛は自分の無実を端から信じていないのだ」と直感したその瞬間、
稔のなかの、猛に対する愛憎のバランスは、決定的に大きく崩れた。
憎悪に大きく傾いた稔の心は、
その後、周到に猛への復讐を図ることを決意したのだと思う。

愛情や信頼と、嫉妬や対抗心とのバランス。
自分は、決して嫉妬心の小さい方だとは思っていないので、
そのバランスの存在と、その危うさが、よくわかる気がする。
でも、西川監督が、
「(これは兄弟の映画だが)男女や友人などの関係でも同じ。
普遍的にとらえてほしい」と語っているあたり、
もしかしたら、意外に誰もが持ちうる心理なのかもしれない。
友人、兄弟、親子のあいだに。

揺れは、ようやく収まった気がする。
それでも、何かひとことをきっかけに、また揺れるのかも。

『ゆれる』と『駈込み訴へ』

2006-10-13 | 読む

映画『ゆれる』の西川美和監督自身による同名小説『ゆれる』と、
西川監督が、キャストに参考書として薦めたという
太宰治の短編『駈込み訴へ』を、読んだ。

小説『ゆれる』は、猛・稔の兄弟、彼らの父と弁護士の叔父、
智恵子、ガソリンスタンド店員の洋平、この6人それぞれの「かたり」で
構成されている。それぞれが、それぞれの立場と独特の思考と感覚で、
この「事件(事故)」をめぐり揺れ動いたさまを、語っている。

太宰の『駈込み訴へ』は、ユダがキリストを告発するまでに至る、
まさに「心のゆれ」を独白体で描いた、非常に興味深い短編小説。
読むごとに、抱えていたもやもやがだんだん晴れていくようで、
気がつけば、何度も交互に読み返していた。

映画鑑賞後、ずっと心にひっかかっていたもの。それは、
「始めから何も信じない、それがお前なんだよ!」(うろ覚え・・)
という、稔が猛にぶつけた怒声。
そして法廷で稔を告発した猛を見つめる、嘲笑にも思える稔の表情。
2冊の本を通して、やっと、
稔と猛の兄弟がわかり始めた気がする。

小説のなかで、兄弟の叔父で担当弁護士の早川修が、
「猛は自分と同種の人間かもしれない」としている。
「信じるものがあるわけではなく、欲することがあるだけだ」と。
最初に読んだとき、この意味が今ひとつ飲み込めなくて、ひっかかった。
この台詞は映画のなかでは語られていなかったと思うが、
稔が猛にぶつけた、あの強烈な台詞に、結びつくのではないかと思う。

猛は、その瞬間を見たにせよ見なかったにせよ、
稔が智恵子を突き落としたと、一瞬のうちに、感じた。
それはおそらく、無意識のうちに何の根拠もなく。
それが、猛、という人間なのだ。
それが彼の、何も信じない、という無意識中の感覚。
心のどこか根深い部分にはびこって、彼の思考や感情を支配している。
この事件の顛末だけでなく、かなり子どもの頃から彼の日常として。
そして猛は、そういう自分を、知らない。

稔は、真逆な人間だったのではないかと、思うようになった。
欲することはなく、信じるものだけがある。
稔にとって猛は、太陽だった。
限りなく美しく輝く、かけがえのない存在。
猛が、自分とはまったく違う資質をもった人間であることに気づき始めたころから、
小さくて愛しい弟は、稔の憧れであり、誇りとなっていったに違いない。
元来欲することの少ない性分であったとして、
大いなる憧れに対して、稔は、嫉妬や羨望という気持ちさえ、
もしかしたら希薄だったのかもしれない、と思えてくる。
傍からみて「我慢している」と思われるようなことでさえ、
稔には、我慢している、というほどの感覚がなかったのかもしれない。
ただ、その美しく輝く存在を心から愛し、信じ、
その存在も、同じく自分を心から愛し、信じてくれるものと、
信じて疑わなかったと思う。

それが、裏切られた。
あのとき、あの橋の上で、
猛が、自分を信じていないことを、稔は一瞬にして悟った。
稔のなかで、信じて止まなかったものが、大きな音をたてて崩れ落ち、
それまで彼を支えてきた信頼と愛情が、
猛という存在と、その犠牲となってきた不幸な自分の半生に対する、
嫌悪と憎悪に、一変したのだと思う。

ユダは、キリストの美しさ、気高さを誰よりも愛し、
そのために大いに尽くしてきた。
しかし、いっこうにそれを認められず、労いのひとこともかけてもらえぬことに、
反感を抱くようにもなり、葛藤する。
過越しの祭りの日、あらためてキリストの心に触れたユダは、
これまでの反感を一切排除し、その心にキリストへの愛を取り戻した。
ところが、キリストはその一瞬間前までのユダの心を見透かし、
ほかの弟子たちの前で、それを蔑んだ。
ユダの、キリストに対する信頼と愛情は、この瞬間に、
二度と覆されることのない、激しい憎悪に一転した。
そして、ユダは銀30枚でキリストを売った。

稔の復讐。
法廷で稔は、あの瞬間の行動と心理について、ほぼ真実を述べている、とは思う。
一瞬の怒りで、智恵子を突き倒したこと、
その後すぐに我に返り、助けようとしたこと、
しかし助けられなかったこと、
そのことに激しい自責の念に揺さぶられていること。
稔は、確信している。
稔の真実を、猛は信じないであろうことを。
稔の真実が、裁判に混乱をきたし、猛の気持ちが揺さぶられるのを嘲り、
猛の望まぬ将来「人殺しの弟となること」をつきつけ、
やがて、猛自身の手で兄を売らせることで、
稔は、周到に猛に対する復讐を図った、と思う。
法廷で見せた、稔の笑みは、
兄を売った弟と、弟に兄を売らせた自分自身への、嘲笑。

兄弟を隔てた7年の歳月のあと、猛は悟る。
あの日の事実と、猛自身の真実。
何も信じてこなかった自分と、そのために失ってきたもの。
信頼と愛情。
それに気づいた猛は、少なくとも、救われた気がする。
しかし稔は、この後救われることがあるのだろうか。
弟をユダに仕立て、その実、自らがユダであった自分。
刑期を終えても、その業は一生背負い続けるのではないだろうか。
稔が「最後まで奪われた」のは、そういうことだろうか。
稔は、バスに乗り、猛のもとへは戻らなかったと思う。

それにしても・・。
なぜ、稔は、猛と智恵子をあの渓谷に誘ったのだろう。
前日の夜、帰ってきた猛に鎌をかけるようなことを言ったのは、なぜ?
それを考えると、稔に嫉妬心がまるでなかったわけでもないことに行き着く。
晴れた霧が、また戻ってくる気がする。
稔。 やっぱりまだわからない・・。

小説を読んで、あの映画をなんとか理解しようと足掻くのは、
邪道かもしれない。
しかし、この小説では、映画のなかに見た人物たちの心の奥底の暗い部分を、
さらに深く鋭く生々しく感じさせてくれた。
西川監督の、怖いくらいの力を感じる。

名古屋では、12月にもう一度、この映画を観ることが出来るようになった。
今度は、今池キノシタホールにて。
もう一度、まっさらな気持ちで、観てこようと思う。

「関ヶ原」  司馬遼太郎

2006-09-16 | 読む

406年前の昨日9月15日は、天下を分けた「関ヶ原の戦」の日。
9月初旬に読み終わった本の感想に、なかなか手がつけられず、
「そうだ、せっかくだからこの日に」と思った昨日、
思わぬ夜襲をくらい、戦を忘れ宴に呆けてしまったので(笑)
不本意ながら(うそうそ)、本日1日遅れで戦に出陣。

「戦国の世を知るならコレ!」みたいなことを、
吉兵衛武田鉄矢さんもおっしゃっていたように、まさにこれは、
<秀吉の死の前後から家康に覇権が移るまでの歴史ドキュメント>であり、
<戦国武将列伝>である。
天下を分ける日本最大の戦が、その実は、
家康・三成をはじめ諸将の、恩義、私欲、憎悪というごく人間臭い感情の
探り合い、駆け引き、ぶつかり合い。
日本中を舞台としたスケールの大きさの反面、
人間のちまちました心の裏の裏側を炙り出していく緻密さ。
その絡みあいが、痛快でもあり、嫌な感じの虚しさでもある。
ともあれ、とても面白かった。

主軸となる人物は、東軍徳川家康・西軍石田三成と、それぞれの傍らで絶大なる
信頼を置かれる謀将、本多正信と島左近。
両軍それぞれ頭の人物的性格が、そのまま軍の性格である。
老獪な家康・正信率いる東軍は、現実主義集団。
巧みな人心掌握術によって、諸将のエゴイズムに発する戦意のベクトルを、
ただひとつ三成に向けて収束せしめられている。
三成の西軍は(最終的に寝返った連中をのぞき)、観念主義集団。
義という観念に固執し続ける三成をはじめ、
島左近、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長、最後まで独自の美学を貫いている。

両軍、周到な計画と工作をもって、決戦の朝を迎える。
東軍は、相当数の内応諸侯を押さえており、戦わずして勝ちの公算が高い。
西軍は、その人数と陣形をもって、敵を圧倒的有利に抑えている。
しかし、戦はあくまで実戦。
刻々と変わる戦況に、諸将の気持ちも揺らぐ。
ほんとうに自分の選択は正しかったのか。
さすがの老獪の大将家康も、
先鋒苦戦に苛立ち、最後まで諸将の腹を疑い、焦燥に駆られる。
ここにきて初めて、非常に人間臭い家康を見た気がした。

「動かず」を決め込んだ島津豊久が、三成に言い放った言葉が
命運を賭けて臨戦中の諸将の本音であると思う。
「今日の戦、おのおの自儘に戦い、おのれの家の武名に恥じぬようにするほか
 ござらぬ。・・・他家のことなどかまっているゆとりはござらぬ。」
戦は、所詮エゴイズムのぶつかりあいである。
生き残るための、ときにあさましいほどの本音と処世術は、
関ヶ原の諸将も現代の日本人も、さほど変わらない気がする。
その点、関ヶ原は現代日本の風刺にも思える。

西軍が敗れ、三成が斬首され、「義が死んだ」かというとそうではないと思う。
関ヶ原後徳川江戸幕府が興り、その幕府が儒教を導入し、
武士のあいだに仁義を重んじる風潮を定着させたのは、
不義の集団の加勢によって天下を得た徳川が、
将来第2の関ヶ原を恐れたからかもしれない。
三成は死んで「仁義をもって国を治める」ことの重さを知らしめた。
三成は悪名を残したかのようだが、
その果敢な企ては、決してただの暴挙でなく、大きな意義をもったと思う。

青臭い「へいくわいもの」だろうが、
この徹底した「義の男」 わたしはけっこう好きである。

「明日の記憶」  荻原浩

2006-06-01 | 読む

映画化されると話題になる前に、本好きの友だちから薦められていたにもかかわらず、
なかなか手にとらず、とうとう映画が公開されてしまって、
「時は今」(遅っ!)と、ようやく読んだ。

若年性アルツハイマーを発症した、50歳のサラリーマン男性が、
確実に少しずつ記憶をなくしていく毎日のなかで、
この病気を受け入れることに葛藤し、生きることの意味を模索する。

怖かった。
記憶をなくしていくということが、こんなに恐ろしいことだとは。
自分という人間が、膨大な<記憶>によって成り立っていることに、
初めて気づかされる。
その記憶を徐々に失っていく=自分が消えていく。
消えていく自分を、止めることもできず、目の当たりにしている自分がいる。
足元から消えていく不安・恐怖に怯えながら、
それでも立っていなければならない自分がいる。
病気は次第に、記憶だけでなく、感覚も奪っていく。
肉体だけが、抜け殻のように残り、やがて肉体が死のときを迎える。

主人公の男性は、身のまわりのものごとをどんどん忘れていくなかで、
体がまだ覚えている感覚に、ささやかな生きる喜びを見つけるようになる。
死に倒れそうになった体勢を、無意識に立て直した感覚。
陶芸に熱中していたころの、土を捏ねる手の感覚。
昔生まれたての娘を抱いたとき、手に感じた命の重さ。
「体が生きろと言っている」
彼の強さに、感動する。

しかし現実には(小説には描かれていないが)、
彼に、ささやかな生きる喜びをあたえてくれるはずの感覚さえ、
彼は徐々に失っていくのである。
そのとき、彼はどう思うのだろう。
そのとき、彼はもう何も思うことすらなくなるのだろうか。
それでも、人は<生きている>のだろうか。
読み終わってなお、感動よりも、恐怖、絶望の方が大きくて、
心に重いものが残った。

映画公開直前、異例とも思われる、映画の新聞一面広告が出た。
主演かつエクゼクティヴ・プロデューサーを務めた、俳優の渡辺謙さんの、
スペシャルインタビュー。本を読み終えたら読もうと、取っておいた。
あまりに心が重苦しいので、すがるような気持ちで読んだ。
  「治る」「治らない」ではなく、
  「生きてること」の喜びを感じる時間こそが大切。
  「人が生きていく意味」を伝えたい、と思った。
謙さん自身の人生と、映画の主人公の人生を、重ね合わせて至った真情。
とてもいい内容だったけれど、わたしの重い心は晴れなかった。
「人が生きていく意味」に、答えが見つからなかったから。

昨日、その答えを意外なところで見つけた。
たまたま目に止まったテレビCMに、映ったことば。
  『なんにもできないくせに・・・しあわせにしてくれる』
  『大好きな人といっしょにいられる しあわせ』 (細部、多少違うかも)
生まれたばかりの赤ちゃんや、
かわいい盛りの子どもや、
老いたおじいちゃん、おばあちゃん・・
家族の、なにげない、でも温かい風景の写真が次々映し出されるなかに、
このことばが、添えられる。
大好きな小田和正さんの「たしかなこと」がBGMに流れる、明治安田生命のCM。
このCM、いつもついウルッとなるのだが・・
しばらくして、「これだ」と思った。

「生きることの意味」は、自分のなかだけにあるのではない、と。
たとえ、自分が自分であることを忘れたとしても、
「わたしという人間」は、自分を愛してくれた人のなかに、生き続ける。
愛してくれる人がいる限り、自分が生きていること、それこそが、
<わたしという人間が生きる意味>かな、と思う。
立場を逆に考えれば、よくわかる。
心から愛する人ならば、何もかもを忘れ、自分で何もできなくなったとしても、
生きていてくれさえすればそれでいいと、きっと思う。
生きて、いっしょにいて、
愛する人がほんの少しでも、しあわせな気持ちを感じてくれるなら、
自分にはまだ「生きることの意味」がある、と思っていい。

生きる喜びは、自分がそれを感じることだけに、意味があるわけではない。
生きる喜びは、それを与えることにも、大切な意味があるのだと思う。


映画、やっぱり観てこよう、と思う。

「本能寺」 池宮彰一郎 著

2006-05-14 | 読む

池宮彰一郎さんの歴史小説というのは、歴史の一般的な解釈をいったんリセットして、
独自の非常に斬新な視点をもって展開されていくところが、とても面白いと思う。
これまで読んだのは、
「四十七人の刺客」「四十七人目の浪士」「その日の吉良上野介」だが、
いわゆる一般的な「忠臣蔵」モノとは、まったく違う。それを踏まえていてこそ、
楽しめるというところもあるが。
この作家さんには賛否両論あるようで、しばらく離れていたけれど、
「本能寺」については、そろそろ「時は今」の頃合なので(笑)
いよいよわが<積んどく本>から、日の目を見たわけである。

ひさしぶりに読んでみたら、これが面白かった。
以前これに挫折して<積んどく本>に追いやってしまったのは、
司馬さんの「国盗り物語 織田信長編」の印象が、その頃はまだ強く残りすぎていて、
斬新な池宮流解釈を、受け入れがたかったからだと思う。
今いちど「国盗り物語」の大筋を歴史の一般基礎知識としてのみ記憶の隅にとどめ、
主たる人物(信長、光秀、藤孝など)の像はできるだけリセット状態にして、
読み進めていくことにした。

信長と光秀の出会いから話は始まり、なぜ本能寺の変が起こったのかまでを描く。
「国盗り物語」の偉大さゆえか、本能寺の変の一般的な見方は、
光秀の信長に対する積年の不理解と怨恨が、圧倒的ではないかと思う。
「国盗り物語」が、信長編としながら、光秀の心情を中心に描かれているのに対し、
「本能寺」は、信長の壮絶な精神と希代未聞の壮大な構想を、大きな軸にしている。

信長には「天下を統一する」などという薄っぺらい理想、ましてや自分が
「天主になる」などという傲慢な思想はない。
百年以上続く戦乱の世を自らの手で終わらせ、新しい時代を拓く。
新しい時代とは何か。そのためには何が必要で、何が障害となっているのか。
そしてそのために、己の短い後半生、何ができるのか。
ひとり、常に考え常に焦り、ひたすら行動した。それが信長である。

光秀は、孤高の信長を唯一理解し、あくまで臣従を貫く。
信長の信篤く、ゆえに後継者として胸中に定められた人物として描かれている。

その光秀が、なぜ突然の謀反を起こしたか。
その起因となるのが、細川藤孝を中心とする驚天動地の策謀にあったとするのは、
池宮流のものすごいイマジネーションだと恐れ入った。
ただ、最終的に光秀が信長を殺める苦渋の決断の理由=最大の見せ場に、
かなり無理がある、説得力に欠けるという点が、非常に残念に思った。

それでも、面白かった。
歴史小説といえど、フィクションである。
史実は史実として厳密に押さえたうえで、その隙間で明らかになっていない部分、
謎とされる部分については、このくらい大胆な発想をもって臨むのも、
実に痛快である。

「理解という名の愛がほしい」 山田ズーニー著

2006-04-12 | 読む

理解する、ということ。わかる、ということ。
わかる、ということが、今本当にわかった気がする。
わかる、ということが、自分にとっても、相手にとっても、
どんなに大切で、すてきなことか、も。

本書のなかに、司馬遼太郎さんの言葉「練度の高い正直」に関する項がある。
書いては消し、書いては直しを繰り返して、文章を練り、より納得のいくものに
仕上げていくように、
自分の本当に本当に正直な気持ちというのは、
「自分という氷山の根底思想に向かって掘り進む」その先に、ある。
これが正直な気持ちだと普通に思っているところを、もっともっと掘り下げてみる。
ほんとにそうか、なぜそう思う、と闇の中を迷いながらも、ぐんぐん行ったとき、
ぱーっと気持ちが晴れるような何かにぶつかる。
あ、そうだったのか・・という感触。
それが本当に正直な気持ち。
それを掴むことは、自分を「わかる」ことだ。

去年の今ごろから、こうしてパソコンを前に、それこそ書いては消し、書いては
直しを繰り返しながら、未熟ながらも、確かにそういう感触を得ることが、
実感としてある。ものすごく時間がかかったり、もう進めないーっとひっくり返った
ことも何度かある(そしてそのままになったものも多々ある)けれど、
できた!と書き上げたとき、ものすごく爽快な気分になれたときは、
たぶん、かなり自分の正直な気持ちを、引き出せたときだと思う。
(今も、書き進みながら、ちょっと嬉しい。)

他人をわかる、こともしかり。
これは、相手の心に突っ込んでいくことでもあるので、
むやみにしてはならないけれど、
本当にその人のことを思い、わかりたいと思うときには、
やはりその人の、たぶんその人自身も気づいていないだろう、
深い深いところに隠れている、本当の気持ちを、
そっとそっと引き出していってあげることだろう。
決して土足でズカズカと踏み込むことのないように、
心の扉を静かにノックして、そこに佇むご主人に、
心からの笑顔であいさつするように。
ご主人が和んで話をしてくれたら、次の扉を教えてくれるだろう。
そうして次の扉、また次の扉を、真摯な気持ちで訪ねていったら、
きっと、どこかで「あー、ここだったんだね」って思える場所に出る。
そこで迎えてくれるのが、きっとその人の本当の顔。
その出会いが、わかる、ということ。

自分を「わかる」ことが、ものすごく気持ちのよいことであるように、
「わかってもらる」ことは、本来、同じように嬉しいことなのだと思う。
それだけでほっとする。幸せだなと思う。頑張れると思う。そして・・・
そんな気持ちを、相手にも感じてもらえたら、と思う。
決して押しつけじゃなくて、「わかってあげたい」と思う。

「理解という名の愛」という言葉が、読み終わったときに、すごく腑に落ちた。
腑に落ちる、という感覚そのものも、本書と先に読んだ1冊共に、ズーニーさんの
文章で、初めて!というくらいの強い実感を覚えた。

本書でも、たくさんの心揺さぶられる表現に出会えて、これから自分のなかで、
大切にしていきたいと思うが、敢えてここにひとつ載せておくとすれば、

 「こどもはおとなから愛を与えられ、
     おとなは、自分で愛の循環をつくり出す」

これです。