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Re=response=応答、感応=物事に触れて心が動くこと。小田和正さんの大好きな曲からいただきました。

「おとなの小論文教室。」 山田ズーニー著

2006-04-07 | 読む

「自分」とは、「わたし」のなかにあるのではなく、
他者(「わたし」以外の人、モノすべて)との関わりのなかに、存在する。

「表現する」とは、自分を「発信」することである。
他者世界に関わり生じてくる「自分」という存在を、
今度はこちらから、その世界に投げ返してやることである。

なぜ、再び投げ返すのか。
投げ返すことで、最初の関わりをもっと広げたり深めたりできるかもしれないし、
もっと別な世界との関わりに飛び込むかもしれないからである。
どのようなことになろうと、そのときそこで、また「何か」を感じ、考える。
それもまた「自分」である。
「表現する」ことは、今この状態の自分を発することであり、次の自分を
つかみに行くことでもある。

「表現する」ことが、他者世界への自分の発信、であるなら、
伝わなければならない。
「伝わる」ということは、受け止められるということ。
どうしたら、受け止めてもらえるだろう。
欲していないところに、投げたものは受け止められない。
欲しているところへ投げるか、あるいは、欲するように投げるか。
それは、どちらでもいいのかもしれない。
では、何を投げるか。
それは、受け取ってもらってどうしたいのか、による。
そもそも「伝えたい」気持ちは、その先に、伝えて「何かしたい、してほしい」
という気持ちがあるのだから。それをきちんと見据えていれば、
何を投げるかは、はっきりする。

では、どう投げるか。どうすれば、受け止めやすく投げられるか。
これが、言葉だとか文章の書き方だ、と勘違いしていたようだ。
いや、それもそのテクニックのひとつであるには違いないが、
もっと大切なこと。
それは、投げるものを、きっちり固めること。
何を投げるかがわかっていても、投げやすいかたちにまとまっていないと、
受け取る方だって受けづらい。取りこぼす。
せっかく、欲しいところに欲しいものを投げようとしているのに。

きっちり固める作業が、「考える」ということ。
「考える」には、少しテクニックと経験がいるかもしれない。
著者は、そのひとつに、「問いを立てる」ことを、挙げた。
それは何?なぜ?どんなふうに?
問いつづけ、答えつづけていくと、いろいろなことに気づく。見えてくる。
何を投げるべきかの、核心に近づく。
「外を見る。要約する。動機を創る。」という原則も挙げられた。
いったん固めたものを、角度を変えて見る。それが何であるか、すぐにピンとくる
ような顔を作る。受け止めたいと思わせるきっかけを作る。
投げるべく固めたものの仕上げ、である。

投げたいところ=相手が受け止めたいところに、本当に投げたいボールを、
確実に投げ、きっちり受け止められたときが、「伝わる」瞬間だと思う。


「表現する」ことは、今このときの自分を発信することでありながら、
そのために必要な作業は、その過程で、あらためて「自分になる」ことにも思える。
そうして「自分」を確かにつかまえたとき、言葉は、とても素直に自然に
溢れてくる、そういう実感が、今ある。
自分を、何かを、表現しなくちゃと躍起になっていたときには、
ひねってもひねっても出てこなかった言葉が。
美しい言葉でも、巧妙な表現でも、整った流れでもないけれど。
それが、自分の言葉、自分らしい表現、なのかもしれない。


この本では、ものすごく感じることがあって、考えることがいっぱいあった。
ものすごく理解できちゃう内容もあれば、
読んでも読んでもピンとこない内容もあった。
心をぎゅっとつかまれるような言葉も、
目の前がぱーっと明るくなるような言葉も、
ドン!と背中と押されるような言葉も。
どうにも引っかかって抜けない言葉もあるけれど。
心と頭を、フル回転させられて読んだあとは、爽快だった。
そして、ここで何を書こうかと考えて考えて、
(これまで最長記録なくらい、書いては消しの作業をした・・)
ようやく、ここに辿りついた。

「表現することは、自分に辿りつくこと!
 そしてまた、どんどん出会いをして、たっぷり感じ、考え、考え、考えろ!」

ひとでもモノでも、「出会い」は偶然のように見えて、実は、
自分にとって、今それがとても必要なとき、目の前に現れると思っている。
この本に出会ったのも、必然だったと感じる。
今の自分に、いちばん大切なことを考えさせてくれたから。

「沖で待つ」  糸山秋子著

2006-04-02 | 読む

先日発表された第34回芥川賞受賞作品。
(最初にごめんなさい。著者「いとやま」さんの「いと」の字は「糸」では
ありません。「糸糸」という一字が、出せなかったので、この記事のタイトルでは
「糸山」と表記してしまってます。)

「私は、同僚の太っちゃんの部屋に忍び込んだ。約束を果たすために。
『先に死んだ方が、相手のパソコンのHDDを破壊する』それが、太っちゃんとの
 約束だった。」
確かこんな感じの、新聞広告にあった紹介文に、ひどくそそられた。

太っちゃんは、妻にも言えない秘密を抱えたHDDを残して、突然事故死した。
同期入社で、最初の赴任地から一緒に戦い、一緒に笑い、一緒に泣いて過ごし、
男女の関係ではない、不思議な信頼関係を保っていた「私」は、そのときがきて、
太っちゃんとの約束を実行した。

なかなか刺激的な紹介文にのせられて、読み出すまで、ずいぶん勝手な想像を
膨らませていた。妻にもほかの家族にも言えなくて、同期の女ならその存在を
明かせるような秘密って何? 自分が死ぬ理由がそこにある? そもそもなんで同期?

安っぽいミステリーかなんかに毒されているのか、自分。
全然違った。(笑)
そんな下世話な謎とき小説では全然なくて。
ある女性の手記風。あるいは、飲み屋の隅っこで、女が昔の同僚を思い出話を、
ぽつりぽつりと、語ってくれている、そんな感じ。静かに淡々と。

誰にも知られたくない秘密のように、ひとが自分のなかでいちばん触れてほしくない
ところを、触れないままに大切にしてくれるひとの存在。
それが、いちばん身近にいて、たぶんいちばん自分を理解してくれるはずの、
家族だとか恋人だとかではなかったところが、とてもわかる気がする。
この小説では、それが同期のひとり、いわば古き戦友だった、ということになる。

「同期」という戦友であるところが、この小説のひとつのテーマなのだと思うが、
そのへんは、「私」のような立場(総合職として、男女がまったく平等に扱われ
成長する会社社会における経験とか感情)が、残念ながら自分にはあまり実感がない。
ただ、まったく男女平等な現場で、男女の感情なく続いた関係だったから、
有り得たように見える太っちゃんと「私」の話なんだが、
でもたとえば、「私」とまったく同じ感覚を備えていたら、「同期の男」でも、
この話は成立したかというと、どうなんだろう?
それが、女だったから、ほろ苦いような不思議な空気が漂うのだろうな。

「同期」の関係、というポイントにあまりピンと来なかった自分は、むしろ、
「家族や恋人にも知られたくない秘密」という言葉に、ひっかかった。
厳密にいうと、「・・にも」ではなく、「・・には」と言い換えると、
自分的にものすごくストライク、である。
昔から、家族だとか夫だとか、ごく近しい人にほど、真っ正直な感情を見せたり、
伝えたりすることに、ものすごい抵抗を覚える。
気心知れた友人には、平気でさらせたり訴えたりできることも。
たとえば、このブログだって、他人的にはどうってことない内容ばかりだけど、
夫、ほかの家族や肉親には、死んでも見せたくない、と思っている。
身内ほど、自分を知られたくない、という気がいつもある。
たぶん、身内のそれも、あまり知りたいとは思わない。
それを露呈されたとき、すべて受け止める自信が、まったくない。
おかしい、かな。 おかしいんだろうな・・。
なぜだろう、と時々考えるけれど、いつも答えが出ない。

とりあえず、太っちゃんや「私」のように、パソコンのHDDに「秘密」は
隠してないし、太っちゃんの忘れたノートのようなものもない。ほんとに
知られたくない「秘密」は、自分のなかのHDDだけにしまってあるので、
ある日太っちゃんのように突然死しても、自分が最後までそのまま抱えていく
からまず心配ない。
でも・・ここだけは、即だれかに抹消してもらえるようにしておかなきゃ、なあ。
と、わりとマジで考えている。

とても短い小説だったのに、感じたこと考えたことは、いっぱい。
書ききれていない気がするが、どうもまとまらなくて、
ここまでに3日悩んだ・・(笑) へんなの!