「自分」とは、「わたし」のなかにあるのではなく、
他者(「わたし」以外の人、モノすべて)との関わりのなかに、存在する。
「表現する」とは、自分を「発信」することである。
他者世界に関わり生じてくる「自分」という存在を、
今度はこちらから、その世界に投げ返してやることである。
なぜ、再び投げ返すのか。
投げ返すことで、最初の関わりをもっと広げたり深めたりできるかもしれないし、
もっと別な世界との関わりに飛び込むかもしれないからである。
どのようなことになろうと、そのときそこで、また「何か」を感じ、考える。
それもまた「自分」である。
「表現する」ことは、今この状態の自分を発することであり、次の自分を
つかみに行くことでもある。
「表現する」ことが、他者世界への自分の発信、であるなら、
伝わなければならない。
「伝わる」ということは、受け止められるということ。
どうしたら、受け止めてもらえるだろう。
欲していないところに、投げたものは受け止められない。
欲しているところへ投げるか、あるいは、欲するように投げるか。
それは、どちらでもいいのかもしれない。
では、何を投げるか。
それは、受け取ってもらってどうしたいのか、による。
そもそも「伝えたい」気持ちは、その先に、伝えて「何かしたい、してほしい」
という気持ちがあるのだから。それをきちんと見据えていれば、
何を投げるかは、はっきりする。
では、どう投げるか。どうすれば、受け止めやすく投げられるか。
これが、言葉だとか文章の書き方だ、と勘違いしていたようだ。
いや、それもそのテクニックのひとつであるには違いないが、
もっと大切なこと。
それは、投げるものを、きっちり固めること。
何を投げるかがわかっていても、投げやすいかたちにまとまっていないと、
受け取る方だって受けづらい。取りこぼす。
せっかく、欲しいところに欲しいものを投げようとしているのに。
きっちり固める作業が、「考える」ということ。
「考える」には、少しテクニックと経験がいるかもしれない。
著者は、そのひとつに、「問いを立てる」ことを、挙げた。
それは何?なぜ?どんなふうに?
問いつづけ、答えつづけていくと、いろいろなことに気づく。見えてくる。
何を投げるべきかの、核心に近づく。
「外を見る。要約する。動機を創る。」という原則も挙げられた。
いったん固めたものを、角度を変えて見る。それが何であるか、すぐにピンとくる
ような顔を作る。受け止めたいと思わせるきっかけを作る。
投げるべく固めたものの仕上げ、である。
投げたいところ=相手が受け止めたいところに、本当に投げたいボールを、
確実に投げ、きっちり受け止められたときが、「伝わる」瞬間だと思う。
「表現する」ことは、今このときの自分を発信することでありながら、
そのために必要な作業は、その過程で、あらためて「自分になる」ことにも思える。
そうして「自分」を確かにつかまえたとき、言葉は、とても素直に自然に
溢れてくる、そういう実感が、今ある。
自分を、何かを、表現しなくちゃと躍起になっていたときには、
ひねってもひねっても出てこなかった言葉が。
美しい言葉でも、巧妙な表現でも、整った流れでもないけれど。
それが、自分の言葉、自分らしい表現、なのかもしれない。
この本では、ものすごく感じることがあって、考えることがいっぱいあった。
ものすごく理解できちゃう内容もあれば、
読んでも読んでもピンとこない内容もあった。
心をぎゅっとつかまれるような言葉も、
目の前がぱーっと明るくなるような言葉も、
ドン!と背中と押されるような言葉も。
どうにも引っかかって抜けない言葉もあるけれど。
心と頭を、フル回転させられて読んだあとは、爽快だった。
そして、ここで何を書こうかと考えて考えて、
(これまで最長記録なくらい、書いては消しの作業をした・・)
ようやく、ここに辿りついた。
「表現することは、自分に辿りつくこと!
そしてまた、どんどん出会いをして、たっぷり感じ、考え、考え、考えろ!」
ひとでもモノでも、「出会い」は偶然のように見えて、実は、
自分にとって、今それがとても必要なとき、目の前に現れると思っている。
この本に出会ったのも、必然だったと感じる。
今の自分に、いちばん大切なことを考えさせてくれたから。