Takeda's Report

備忘録的に研究の個人的メモなどをおくようにしています.どんどん忘れやすくなっているので.

毛利さんのディベート

2009年11月14日 | 雑感
研究者にとって気が気ではないので、昨日の科研費が俎上にのっていた「事業仕分け作業@3」を思わず聞いてしまいました(映像はぼろぼろでみえず)。とにかく「仕分け人」の議論のもっていきかたもひどいですが、対応者の方もぐだぐたで、なんとも悲しいばかりの議論でした。

その中で、科学未来館の毛利さんの議論は出色のものでした。研究者としても大いに参考になりました。日本の議論ではどうしても本論よりも傍論からはいっていくことが多いのですが、毛利さんは冒頭でまずこの理念からはいって、議論が脇へそれていくことを防いでいました。理念も抽象的にならずに具体的で簡潔にして、実践はエビデンスに基づいて一つ一つをかっちり押さえていました。
例えば、毛利氏「東京にあるが、日本全体に向けてやっているものだ(だから国がやっている)」という理念に対して仕分け人「毛利さんがASIMOと地方巡業したらいい」。いかにも論点づらしの指摘。発言者はたぶん毛利氏をやりこめたつもりだったでしょう。これは日本式議論でよく格上がつかう手で、無理無理の指摘をして、苛出せて優位に立とうというものですよね。それに対して「やっています。」とピシといってエビデンスを示す。こうされると相手のやり方がいかにも稚拙に見えてしまいます。僕らだとついこういう議論にのせられてしまうですけどね。それでも懲りずに「私はドイツ博物館によくいくんですが、カップルが多くて...」という論点づらしの指摘。毛利氏「科学未来館でもカップルが多数派です。」「いや、女性のカップルが...」。実に見苦しい。毛利氏「みなさん、科学未来館に来場したことがありますか?」なんて逆質問をされちゃうわけです。

一般に日本的議論では、結末で望まれるのは明確な結論の合意ではなく、お互いのシンクロというか漠とした共感なんですよね。だから、何か指摘されても「おっしゃるとおりです。ですが...」みたいな受け答えをする。これはなんとか共感を得たいというわけです。無理無理質問も、そういった意地悪にどれだけ真摯に答えられるかどうかをみているわけです。そのプロセスを経て共感を得ると。こうしてシンクロさえ得られば、あとは当事者同士で問題解決すると。

しかし、これでは建設な議論になりえないですよ。そういった議論になれきっている自分に反省。