Takeda's Report

備忘録的に研究の個人的メモなどをおくようにしています.どんどん忘れやすくなっているので.

「FIT2010 仮想社会と電子書籍:紙の本はなくなるのか?」コメント

2010年09月09日 | 社会問題
9/8にFIT2010という会議で「仮想社会と電子書籍:紙の本はなくなるのか?」なる企画があった。長尾氏(国会図書館)、高野氏(NII)、佐藤氏(Google)、土屋氏(千葉大)がそれぞれTalkを行った。前者3人は実はあまり表題とは関係なく、図書と電子化に関わる話題提供だったが、土屋氏だけは正面から表題の問いに答えていた。

答え:YES。

理由は以下の通り。そもそも電子化云々の前に日本の出版業は衰退産業、右肩下がりになっている。それは負の連鎖ができてしまっているから。いま生き延びているのは再販制度のおかげでかろうじて出版し続けるとOKという仕組みに支えられているだけ。日本の電子書籍は紙の本の出版を前提に考えている。ならば、電子書籍も成立しないだろう。まあメディアの多様化でメディアの一つとして生き延びるだろけど。じゃあ何かできるか?ほとんどないが、情報鎖国でしないかぎりだめでしょうね。

そのとき僕からも一つ質問(コメント)をした。時間がなかったのであまり突っ込めなかった。それをここで書いておく。

出版業界が衰退するのはしょうがない。事実だし、もう実際救えないのだろう。確かにそれは我々の文化を担ってきた産業を消えるというのは困ったことだ。でもそれをもって書物を出版してそれを読むという文化活動が衰退することにはならない。出版業界=出版ではない。まさにインターネットを通じた電子書籍はいままでのような産業構造がなくても本が出版できる環境を用意している。つまり、いままでの著者-編集者-出版社-印刷業-取り次ぎ-書店というような産業構造はなくても、「出版」は成立するのである。
ただし、それには新しい担い手と新しい文化的仕組みが必要である。単に技術的に可能ではだめである。現にいままでもインターネットで書籍相当の情報を出すことができるが、それが「出版」となっていない。

これからの担い手と文化的仕組みはいわゆる同人型になると僕は思っている。ある種の先祖がえりかも知れない。同人誌では必ずしも経済的利益のために活動するのではない人たちが同士を募って出版する。経済的面でいえばかつての同人出版は借金を背負ってまでという悲壮なものだったけど、電子出版ならコストはほとんどかからないのでそうはならない。同人出版の重要な点は経済的な点だけではない。同人出版において出版の基準は自分たちの基準で決める。それなりに基準があるというところが重要である。いわゆる普通の出版に比べればその基準は低かったり特異だったりする。読者はその基準が気に入ればその同人を購読する。いやなら購読しなければよい。でも、そういった基準があるおかげで、作者と読者は安定したつながりをつくることができる。出版ではこれが重要である。

学術出版、ことに国内に限れば、学術出版は限りなく同人出版に近い。まず経済的に作者側の持ち出しが大きい。一般の方は知らないかも知れないが、日本の学会誌では論文を載せる方がお金を払うというところが沢山ある。また、基準だって身内の基準である。論文掲載基準は一般にピアレビューといって同分野の研究者が論文を読んで論文の価値を決めて掲載か否かを決める。両方とも同人誌と同じである。学術誌が同人誌だなんていうと顔をしかめる人もいるかも知れないが、僕はネガティブにいっているわけではない。むしろ逆で、学術出版は同人出版として成り立っていることに可能性を見いだしているである。

先も述べたようにこれまでの同人出版はお金のかかるものであったが、電子出版になれば劇的にコストが下がる。経済的利益を第一に考えるのではなければ同人出版はコスト的には十分な成り立つ訳である。もちろん、読者がいなければ出版にならない。学術といういささか特殊な分野では成り立っていることは先にも述べた。
ご承知のようにもっと広く社会で受け入れられている。同人といってふつう思い浮かべるのは漫画アニメ系の同人であろう。これはもはや社会現象、風物詩となっているコミケをみれば一目瞭然であろう。三日間で50万人を集めるイベントはそうない。

日本の社会は職業的クリエータと趣味的クリエータの境界が低く、同人的文化は受け入れやすいものになっていると思っている。これは職業的クリエータの存在を否定するわけではない。頂点に作品でもうけることができる職業的クリエータがいて、一方でアマチュアがいて、それがシームレスにつながっているということである。このような文化はそれこそ、平安時代の詩歌から、明治期の同人誌まで面々とつながっていて、その末端に漫画やアニメの同人誌があるだろう。

同人というまとまりはもっていないけど、クリエティブな活動の裾野が広いことは数々のネット上のサービスに現れている。ニコニコ動画やpixivの膨大な作品、多数の携帯小説サイトとその中の大量の作品。これをみれば日本人がいかにクリエイティブな活動に参加していることがわかるだろう。

いままで同人出版は出版において価値の低いもの、あるいは怪しいものとして、商業出版という”正しい”出版の範疇外に置かれていた。ここでいいたいのは、むしろ逆で,同人出版を基本として、その特殊事例として商業出版があるという仕組みなら、可能ではないかということである。コストを最小すること、自分たちで基準を作り編集すること、自らで読者を開拓すること、こういった同人出版の仕組みが持続可能であり、その中で大きな読者を得られるものはいわゆる”商業出版”的出版になるという訳である。まあ先祖返りというか出版の原点に戻るだけ、ということも知れないけど。

まあ、そのくらいドラスティックな変化がないと、日本語という限られた話者の言語の文化を維持できないのはないかというのが僕の危機感である。

もっとも同人出版の電子化には別の問題がある。それは長くなったので別稿で。

サブプライム,中国餃子,Provenance

2008年02月06日 | 社会問題
アメリカを端を発したサブプライム問題,今日本で話題の劇物入り中国餃子問題,ぜんぜん違うけどどちらも我々の生活にかかわる重要な問題ですね.一見関係なさそうな二つの問題もネットワークという立場からみると共通の問題がみえてきます.

私は最近自分のプレゼンを rip-mix-burnというところから始めることが多いです.ご存じのようにこれはApple社がiTunesをPRするときに使った宣伝文句(あとで事実上の撤回)です.Apple社は当時そこまで意識していなかったと思いますが,実は本質的なところを突いていたと思います.私はCollect-Create-Donateといっていますが,実質的には同じ趣旨です.いろいろなところから集めて新たな物をつくり,それを提供すると.
私はインターネットを通じた情報の問題を主に考えていますが,これはそれ以外の製造業や金融業といった世界でも同じように考えられるというわけです.

まあ,これは製造業では昔から当たり前にやっていたことで何も新しいことではありません.製造業,別名「加工業」というぐらいで,何かに「工」を「加」える生「業」です.原材料を仕入れて,加工して,出荷すると.

そのプロセスそのものは同じです.インターネット時代では何が違うのかといえば,(1)誰でもその当事者になれること,(2)集めると提供する範囲が巨大化,という点です.1点目は物理的な人工物を対象にした場合は自ずと限界がありますが,今や人工物はサービス化していますから,いろいろなものがだんだん対象になってきています.2点目は,これまで極めて局所的な範囲しか集めたり提供することことができなかったのが,いわば全世界的にできるようになったということです.これは製造業を含めてそうですね.製造の諸段階や販売までの諸段階は,かつては長年の取引のある相手としかやり取りがなかったのが,いまや世界中を対象に取引ができる.

この結果,どうなったか?一方で今までにない取引の組み合わせができ,効率のいいビジネス,新しいビジネスができるようになったわけです.しかし,一方で,情報・人工物の流れが複雑化して見えなくなってしまったわけです.プロダクトができるまでのチェーンが長く,またチェーンにかかわる当事者がお互いが知らないようなことが増えたわけです.みんなが最適なCollect-Create-Donateを行えば行うほどそうなるわけです.

サブプライム問題でももともとの原因はわかっていても,何層もの証券化をくりかえしているうちに,どのプロダクトにどれだけ影響が与えるのかわからなくなっているようです.劇物入り中国餃子問題でも,日本の有名冷凍食品会社が何社もその中国の製造工場の製品を売っていたことが明らかになったりしています.ましてやほかの中国製造のものを考慮せよといったら収拾がつかなくなるでしょう.
他のいろいろな分野でもだいたい似たようなことが起こっていると思います.

一見最適解であったようなこの構造は何か問題が起こると影響がとても広範囲にわたるわけです.問題なのは単に実際に影響を与える範囲が広がったということではなく(それはそれは大変ですが),影響があるかどうかを調べることが困難で,それがゆえに風評的影響が想像以上に膨らんでしまうことでしょう.

これが私が感じた二つの問題の共通点です.

では,なんとかなるのでしょうか.

ひとつは私が普段いっているように情報活動のレベルだけではなくて,コミュニケーションの活動のレベルにもっと注目することでしょう.すなわち,プロダクトのチェーンのベースになっている当事者のネットワーク(社会ネットワーク)をもっと明示化することでしょう.当事者同士がどうネットワーク的につながっているかを知ることによって影響を推定することが可能になると思います.

ただそういったアプローチでは全体的な推定は可能かもしれませんが,個別のプロダクトに対する信頼度を測ることはできません.そのためにはこの当事者のネットワークを個別のプロダクトに結び付けていく仕組みが必要なわけです.

私はこの問題を設計情報のOpenness問題として以前考えたことがあります(論文).
これを私はProvenance情報と呼んでいます.あるプロダクトは誰がどういう意図でどんなプロセスを経て作ったかという情報です.一つのプロダクトにはその原材料,パーツまで含めれば多数の当事者がいるわけですから,Provenance情報はそのネットワークとして表現されるでしょう.個別のプロダクトの信頼度はそういった情報から推し量るわけです.ただ,この情報が役に立つには個別のプロダクトの情報を含めて各種の情報が公開されて共有されないといけません.そもそも個別のプロダクトの信頼を推量するには関連する情報が手に入らないといけないですし,またそういった情報も公開を前提とすることで虚偽性を排除されやすくなります.

これはいわゆるトレーサビリティと基本的におんなじ考え方ですが,ネットワークを考えること,公開を前提すること,という点で一歩踏み込んでいると思います.

多かれ少なかれ,信頼できるプロダクトというのはこういうProvenanceを付随することになるでしょう.情報研究屋(&元?設計研究屋)としてはその仕組みを考えなきゃいけないだろうなと思っています.

いいスパム,悪いスパム

2007年10月26日 | 社会問題
この間研究ミーティングでスパム,とくにsplogが話題になりました.Splogというのはブログ版のspamのことです.ブログを研究対象にしている以上,避けて通れないものです.すでに2005年の時点でアメリカのブログの75%がSplogだという分析があったぐらいです(U. of Marylandのebiquityの調査).
明らかなSplogは機械的にもはじけるのですが,最近中間的なSplogがでてきてこまったものです.特に問題なのが,人のコンテンツを使ったタイプのSplogです.
たとえば「...のウワサ」という記事を大量に掲載するサイトです.これ基本的に検索あるいはフィードから該当文字列を含むものをとってきて,それをあたかも自分の記事(あるいはサマリー)のように見せるものです.こんなもの作ってなんかの役に立つのかというと,リンクがアフィリエイトのページに飛ぶようになって,そこで小銭を稼ぐのでしょう.あるいはこれで被リンクを増やすSEO対策ですね.
さらにそういうブログを自動生成するツールもあるんですね.
#人のコンテンツを吸って儲けるまさに言葉の「吸血鬼」:-)

こういうページにたどり着くとたいていの場合,腹が立ちますよね.ぜんぜん有意義な情報がないので.でも必ずないといえないからややこしい.

文句をいいたいわけですが,著作権法違反といった法律を持ち出すのも,マナーに反しているとか倫理を持ち出すのは,実はまずいと思っています.

なぜかというと我々はすでにそういった世の法律や倫理とは違う環境であるWeb世界で十分に楽しんでいるでいるわけで,だからそれをいったら本末転倒になってしまうと考えるからです.

いいものはみんなで共有し,使い合う,それがWebのスタイルです.情報は使って減らないのだからみんなで使えばいい.実にシンプルなことです.Webは始まりから情報共有の世界を目指していたし,Appleが"Rip-Mix-Burn"といいだしてから自分たちの行動スタイルももそうなっている.近年のMush-upスタイルもその自然な延長線上にあるわけです.

実際,我々のグループでも情報をアグリゲーションして再提示するシステムも作ってきました.形式的にみたら,我々のシステムとSplog生成システムには差異がないわけです.

じゃあ,どこに違いがあるのか.

意味ある情報を世界に追加できるかどうかで判断すべきでしょう.
世界に何かしらプラスをもたらす情報はいいというわけです.
情報の集約という問題を考えたときも,集約してできた情報が新しい意味,価値があれば,それは「善なる集約」であり,集約情報がなにも意味をもっていない(たとえばランダムに情報を集めて集約)のは「悪なる集約」というわけです.

といったところで,この判断は難しいですね.情報の意味,価値は立場や状況によって違うわけですから,一概に○×をつけるようにいきません.

設計論的にいえば,その情報の作成意図が利用者のとって価値があるものならとりあえずその情報はいいといえるのでしょう.ただし,情報は作成意図どおりに解釈されるとは限らないので問題はそう簡単ではありません.
先のキーワード生成型Splogも場合によっては役に立つことがあるわけです.

ともあれ,情報のコンテンツそのものの良し悪しが分かるSpam第一世代からアグリゲーションやキーワード生成型Spamのようなmushup Spamという第二世代?になって,我々は情報の価値をもっと真剣に考えなければいけないということになったと思います.


実名制で中傷防げ???

2005年12月28日 | 社会問題
今月からちょっと立場が代わったので,少しは社会的な問題にもコミットするようにしようと思っています.

まずは練習がてら,今日の読売新聞から.社会面の「ネットと匿名社会」という連載記事がなかなか”刺激的”です.
「実名制で中傷を防げ」とでかでか見出しがでています.
内容は,韓国では,ネット利用登録のときに実名登録が必要となる制度が始まる.これで中傷などが防ぐことが期待されている,という話です.
例として取り上げらている事件が「ソウル市内の地下鉄社内で,若い女性が愛犬のフンをそのままにして下車し...」その「中傷する発言が掲示板やブログにあふれた.」というものだったり,全国民が持つ13けたの住民登録番号が「他人になりすますのに悪用されるケースがめだっていた」,など,つっこみどころの多い話はおいておいたとしても,この記事を書いた記者は,自分のこういう例をもちいて説明して自己矛盾におちいっていることに気づかないというところに驚きがあります.
「中傷によりプラバシーが危機にある」→「実名登録」→「中傷が防げる」という論理ですが,この続きには
「中傷によりプラバシーが危機にある」→「実名登録」→「実名情報が流出」→「プラバシーが危機」
となるわけです.実際,そういう例を挙げているわけで.もっといい例をあげればいいのにね.

まあこの記者の論理は最近の世間の論調の典型例ですけど.なんで,こんな堂々巡りになってしまうのかというと,「実名」vs.「匿名」という二者択一という問題にしているところに根本的な問題があるわけです.この背後には,前提として,「ネット以前の社会は実名社会で安寧であった」があって,それが「匿名をゆるすネット社会の出現」によって「安寧が脅かされている」という論理が裏にあるわけです.

でも「ネット以前の社会は実名社会で安寧であった」ってホント?そこに二つの誤りがあります.一つはそのもも,ネット以前の社会(アナログ社会)でも,多様なレベルが実名‐匿名の間にあり,我々は適宜,それを切り分けて生活しているということです.家にいる自分,会社にいる自分,通勤途上の自分,コンサート会場での自分,全部同じように自分の名前を掲げて生活しているわけではないですよね(自分の名前,IDつきのゼッケンを前後につけて,通勤電車に乗ったり,コンサートにいくことをイメージしてみてください.なにかおかしいでしょ).そういったアイデンティティの多様性は現代の生活では必須なものになっているわけです.そのような多様性を無視して,実名があたかも自然というはおかしな話なわけです.
もう一つ,「実名なら安寧」とういところも怪しい.日本でも,村から町へ,町から大都市になれば匿名性が高くなるわけです.戦後,多くの人が大都市にきて,大都市の匿名性にあるときは戸惑い,あるときは歓迎していたわけです(それがために都市へいくひとも).だから,一概に「実名なら安寧」「匿名なら不安」ということはないわけです.

この意味では,いま起っていることは,アナログ社会で起きていた社会における「実名‐匿名」の多様性がデジタル社会でも起っているに過ぎない.ただし,アナログ社会にくらべ,より多様な方法が提供されるようになった点は大きい.いままで実社会の束縛から離れられる人は少数であったが,いまは誰でもできるようになった.だからいろいろな場面で新しい衝突が起るのはしょうがないでしょう.

ではどんな風にデジタル社会で暮らしていけばいいのか.それはみなさんが現在模索中名わけです.個人レベルではブログがいい例で,ブログは実名で書く人もいれば,まった意味のない匿名だったり,あるいは仲間内でだけでわかるニックネームで書く人もいたりして,多様です.中身においても,微妙なコントロールをしていて,仲間内に知らせたいことは仲間内でしか分からないように符号化されてたりするわけです.あるいは掲示板などはそこでの仲間内での自浄作用みたいのがあったりします.

いずれしろ,「実名vs.匿名」の二者択一論理は危険で,上のようなアイデンティティの多様化は見えなくなってしまいます.