Takeda's Report

備忘録的に研究の個人的メモなどをおくようにしています.どんどん忘れやすくなっているので.

今年の抱負「オープン化」!?

2011年01月01日 | 雑感
あけましておめでとうございます。

子供の頃から現実的人間であった私は、1年の抱負を書けといわれて面倒くさいなあと思っていました。でもいまは、これだけ年を取るとむしろ書いておかねばいけないのかあと思うようになりました。

去年は図書館への思いというのを書きました。実際、昨年は図書館に関わる仕事を多くしてきました。僕にとっていい転機でした。さて、今年はどうかというと、ひとつキーワードを挙げようと思います。それは「オープン」。デジタルコンテンツのオープン化というのは社会的にも研究的にも緊急の課題です。微力ながらこのキーワードで社会や研究に貢献したいと思っています。

デジタルコンテンツのオープン化というのは様々なレベルでいま俎上にのっています。私は三つのレベルで取り組みたいと思っています。

1つは原理的なレベルです。私はデジタルコンテンツのオープン化は原理的に不可避と考えています。それを前提としたときどのような仕組みが必要なのかを議論していきたいと思う。デジタルコンテンツは(1)簡単かつ安価かつ誰でもコピー可能、(2)簡単かつ安価に誰でも保存可能、(3)コンテンツの部分的な抽出とその利用が可能、といった以前のコンテンツにない特徴があります。この特徴からはオープン化は自然の成り行きであって、むしろその特徴をいかに活かすかと考えるべきだと考えています。
大量印刷技術および放送技術時代のコンテンツの大量生産を可能とした。それによって作り出されたコンテンツ流通が著作権をいわば「発明」したわけです。それはアナログ時代にはそれなりに機能していましたが、デジタル時代には明らかにフィットしていません。デジタルコンテンツ時代においては別種の仕組みが必要です。それが何であるかは私もまだ分かりませんが、著作権のように権利によって制限するというのではなく、コンテンツの利用をいかに促進しつつ作者にフィードバックするかというようなものであると思います。

2つめは研究的なレベルです。先に述べたデジタルコンテンツの3番目の特徴、コンテンツの部分的な抽出とその利用、というのはコンテンツの利用から創造にいたるまで新しい世界を作るだろうと考えています。その兆しの一つはLinked Dataです。Linked Dataはコンテンツ同士が細かい粒度でつながる仕組みを提供しています。これはコンテンツの利用の新しい方法です。昨年から始めたLODAC Projectは引き続きこの分野で世界で認められる研究になるようにがんばりたいと思っています。

また、「初音ミク」研究でみえてきたUGCの新しいコンテンツ創造の世界ももっと探求していたいと思っています。ニコニコ動画の世界では多様な人々が多様なコンテンツのパーツを使いあって新しいコンテンツを創造しています。これはたぶん日本が最先端を走るコンテンツ創造の仕組みです。今後、このやり方はもっといろいろな分野で使われるようになると考えています。この世界はまだまだ奥の深いのでもっと調べていきたいと思っています(乞共同研究者!)。

最後はビジネスのレベルです。オープン化、オープン化と言ったって、実際にコンテンツ創造や流通を阻害しては意味がありません。私は今すぐ「オープン=無料」「オープン=無条件、無制限」と単純に考えているわけではありません。コンテンツ創造にはコストがかかり、コンテンツ創造者にフィードバックがかからなければ、サステナブルな流通とはいえません。NIIは学術情報の流通の一端を担っており、これは我々にとって”ビジネス”です(営利企業のビジネスとは違いますが)。理念だけではビジネスは回りません。学術情報流通は特殊でありますが、ある意味デジタルコンテンツ流通の一歩先をいっています。この世界ではオープンアクセス(OA)は大きな潮流になっています。知の普遍的普及というこの世界のミッションからすれば理念的には正しいことであり、我々も微力ながら後押しをしていくつもりです。ただ、ビジネスとしてどうするのかは悩ましいことです。OAにもグリーンロード、ゴールデンロードといろいろな方策が出てきています。そのあたりを学びながらNIIのサービスのオープン化にも取り組んでいきたいと思います。

本が本であるために

2010年04月23日 | 雑感
本とはなにか。

最近、デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会技術ワーキングチーム(ながー)にでています。

懇親会にでて近未来の本である電子書籍の議論を聴講していると、むしろ本とはなんなんだろうと考えてしまいました。電子化してしまえば本なんて言うカテゴリーはなくなってしまうのではないか?そもそも本とは何か?ということに疑問を持ちました。

本が本であるのはまあ物理的な本の存在形態によるところが大きいわけですが、それだけでは未来の本はみえてこないですよね。そこで、思考実験として、物理的な形態になるべく言及せずにいかに本を説明できるか試してみました。いわば本の機能的性質を記述しようというわけです。

(情報内容)
1.含まれる情報は固定されいる
2.分量は10-1000ページ程度である。
3.情報は独立しており、他の情報源に依存しない。
4.主に文字情報である。
5.著者や発行元が明示されている

(情報アクセス)
5.情報はページ単位で、1ページあるいは2ページごとにアクセスされる。
6.情報には始まりから終わりまで順序がある。
7.基本アクセス方法は順次アクセスであるが、ランダムアクセスも可能である。

(情報形態)
8.可搬性がある
9.購入できる
10.貸し借りができる
11.部分的に切り取ることができる
12.記入することができる

こんなところでしょうか。これは定義ではなく、比較的共通な性質というぐらいですね。もちろん、例外は沢山あります。辞書は7の例外ですし、シリーズ本は3が疑問です。雑誌は3の明らかな例外ですね。グラビア本や漫画本は4の例外ですね。おなじ漫画本でも著者が不明のアメコミのペーパーバックなんて、より本らしくない。

とはいえ、この性質からたくさん外れるとだんだん本らしくなくなってしまうわけですね。HTML文書は3、5,6あたりが外れていて本とは認識されづらい。PDFは情報アクセスや情報利活用に関しては本の性質をかなり模倣していますが、情報内容に関しては関与しないので、PDF=本とはならないわけです(PDFで本はつくれる)。

形態やアクセスも重要なのだけど、情報内容が本にとって本質なんでしょうね。情報内容の条件全体でいえることは、本とはそれ自身の独立した価値があり、ほぼ恒久的に存在するものということです。いわば知の断片、知のブロックといえましょう。我々の知も形作るために,我々は本を読むことで、知のブロックを積み上げている(つもりな)わけです。また出版元や著者という形で社会とつながっていることも重要で、本は社会の中で認知され、社会の知のブロックであるわけです。社会の知を構成する要素というわけです。

知のブロックとしての本は図書館やアーカイブと密接に関係しています。なので本にとって図書館やアーカイブは本が本であることを強化する点において不可欠なわけです。映画アーカイブやTV番組アーカイブ、漫画図書館を作ろうというのは、これらが知のブロックたらしめんということだと思います。

電子化されようと本が本であるためにはこの知のブロックとしての機能を保持あるいは発展させないといけないですね。知のブロックとしての存在、蓄積機能、社会機能、といったものをもったものが「本の電子化」の要件だと思います。


ニコニコ動画と日本向きメディア

2009年12月13日 | 雑感
月曜日にASWC2009の付設ワークショップで講演をしました。話題はいつもコミュニティWebのモデルと初音ミク動画分析の話です。初音ミク話は過去2回、アメリカで発表していますが(共著者)、反応がさっぱりでした。今度はそれなりに反応がありました。ゲームの共同作成もこういう同類だろうかとか。またニコニコ動画についてもいくつか質問がありました。でもみんなアジア系のなんですよね。この会議はASIAN Semantic Web Conferenceですから、アジア系が多いのは当然ですが、会場にはそれなりにヨーロッパ系の人もいたんですけど。(もっとあとでフランスの人からメールをもらいました。)やっぱりポップ系コンテンツというだけで欧米系の*まともな*研究者は引いてしまうのかな。

そういう温度差を感じたのはこの件が初めてではありません。ブログの研究をしているときも日本と欧米でのブログに対する態度の違いに困惑しました。日本ではWeb diaryの時代からブログのメインコンテンツは日常的な事柄(「飯食った」のごとく)でした。僕らはそういった日常的なコンテンツを通じたコミュニケーションに興味がありました。
しかし、アメリカではブログはジャーナリズムの新しいジャンルとして注目されていました。実際、政治や経済においておおくの影響を及ぼすようなブロガーが出現していました。もっとも単に量だけ見ればアメリカでも日常的ブログが多数派のようです。
日本ではそういうブログもないことはないけど、量的に少ないし、そもそも社会的に影響を与えるようなブロガーはまずいないですね。これをもって日本のネットはくだらないとか遅れているという人がいますが、僕はそう思いません。それぞれのネットの利用の仕方があるんであって、優劣の比較はできないと思います。アメリカではネットに主義主張オピニオンを求めており、実際そういった世界が形成されている。日本では日常的事柄、芸能といったソフトなコンテンツがネットに求められていて、そういう世界が形成されていると。

じゃあ、日本人は主義主張オピニオンはどこに求めるいるか。レガシーメディアである新聞、雑誌、テレビだろうか。そこではたと考えてしまった。新聞の行動者の何割が新聞の社説を読んでいるだろうか?テレビの視聴者の何割が論説といった番組をみているだろうか。かなり少ないでしょう。ということは日本人はレガシーメディアにも主義主張オピニオンを求めてないということになる。

日本人はそもそもメディアに主義主張オピニオンを求めてないのか。メディアにそういう役割はないのだろうか。???。一方で政治や経済でメディアの影響はひとかたならずあることも事実である。

たぶん、問題の立て方がまちがっていたんですね。日本に主義主張オピニオンが存在しないわけでもないし、メディアを通じて主義主張オピニオンが伝達されている。日本人は*ストレートな*主義主張オピニオンを出したり受け入れる習慣がないということでしょう。
だかれ明示的な直接的に主義主張オピニオンを表明するのような記事や番組は避けられてしまう。これをメッセージ型コミュニケーションあるいはメッセージ型メディアとでもいいましょうか。

それでは、どんな風に主義主張オピニオンは伝達されているだろうか。典型的なのは、ニュースバラエティ。コメンテーターなる人々がなんだかわいわいコメントを出している。ああいい雰囲気が実は一番影響が受けやすいじゃないかな。他は新聞も1面や3面にちりばめられた一見雑多な記事の配置。記事のタイトルがこれでもかと詰め込まれた雑誌のつり広告。

共通点はなんとなく沢山あること。あたかも沢山の人があつまって喋っている/書いている、という雰囲気。集団の中にいるような雰囲気。このあたりでしょう。こういった(仮想的な)集団の語らいから、なんとなく集団の方向性を理解して受け入れる。これが日本人の主義主張オピニオンの摂取の方法なんじゃないかな。
ストレートではなくて間接的に雰囲気として伝達するのがポイントで、そのためには多人数による賑やかし雰囲気が効果的なんだと思います。あえて名前をつけるなら雰囲気型コミュニケーション、雰囲気型メディアとでもいいましょうか。

昔、吉川弘之はサービスの分類でメッセージ型とマッサージ型という分類をだしていましたが、それににてなくもないですね。

雰囲気型コミュニケーションでも主義主張オピニオンが存在しない訳ではありません。参加者全体の方向性という形で主義主張オピニオンが伝達、共有することができます。2ちゃんねるが右よりというのその例ですし、大手新聞、テレビも雰囲気として彼らの主義主張オピニオンを伝達しています。


それはネット時代のメディアでもあっても同じだと思います。そう考えると2ちゃんねるとニコニコ動画がなぜはやったかよくわかります。どちらもまさしく賑やかし的雰囲気を提供する雰囲気型メディアです。同じ場に沢山の人がいて、個々の意見はよくわからないけど、全体の雰囲気が伝わってくる環境を仕組みと参加者で作り上げています。Q&Aサイトも最近、百花繚乱的になっていい感じです。逆の例はOhMyNews日本語版。主義主張オピニオンがストレートに出ていてしかもコメントのスクリーニングをして意図的に賑やかし的雰囲気を排除していました。微妙なのが日本語版Wikipedia。日本語版が得意とするポップカルチャーはいかにも賑やかし的雰囲気ができやすいところです。一方でそれ以外のまじめな?トピックスはなかなかそういう雰囲気になれないので、盛り上がらないといった状況だと思います。

ということは日本人に受ける新しいメディアをつくるのはとにかく雰囲気型メディア、賑やかし的効果があるメディアをつくればいいわけです。で、次の雰囲気型メディアはなに?ということですが、それがすぐわかれば苦労しませんね。:-)

毛利さんのディベート

2009年11月14日 | 雑感
研究者にとって気が気ではないので、昨日の科研費が俎上にのっていた「事業仕分け作業@3」を思わず聞いてしまいました(映像はぼろぼろでみえず)。とにかく「仕分け人」の議論のもっていきかたもひどいですが、対応者の方もぐだぐたで、なんとも悲しいばかりの議論でした。

その中で、科学未来館の毛利さんの議論は出色のものでした。研究者としても大いに参考になりました。日本の議論ではどうしても本論よりも傍論からはいっていくことが多いのですが、毛利さんは冒頭でまずこの理念からはいって、議論が脇へそれていくことを防いでいました。理念も抽象的にならずに具体的で簡潔にして、実践はエビデンスに基づいて一つ一つをかっちり押さえていました。
例えば、毛利氏「東京にあるが、日本全体に向けてやっているものだ(だから国がやっている)」という理念に対して仕分け人「毛利さんがASIMOと地方巡業したらいい」。いかにも論点づらしの指摘。発言者はたぶん毛利氏をやりこめたつもりだったでしょう。これは日本式議論でよく格上がつかう手で、無理無理の指摘をして、苛出せて優位に立とうというものですよね。それに対して「やっています。」とピシといってエビデンスを示す。こうされると相手のやり方がいかにも稚拙に見えてしまいます。僕らだとついこういう議論にのせられてしまうですけどね。それでも懲りずに「私はドイツ博物館によくいくんですが、カップルが多くて...」という論点づらしの指摘。毛利氏「科学未来館でもカップルが多数派です。」「いや、女性のカップルが...」。実に見苦しい。毛利氏「みなさん、科学未来館に来場したことがありますか?」なんて逆質問をされちゃうわけです。

一般に日本的議論では、結末で望まれるのは明確な結論の合意ではなく、お互いのシンクロというか漠とした共感なんですよね。だから、何か指摘されても「おっしゃるとおりです。ですが...」みたいな受け答えをする。これはなんとか共感を得たいというわけです。無理無理質問も、そういった意地悪にどれだけ真摯に答えられるかどうかをみているわけです。そのプロセスを経て共感を得ると。こうしてシンクロさえ得られば、あとは当事者同士で問題解決すると。

しかし、これでは建設な議論になりえないですよ。そういった議論になれきっている自分に反省。

中国のWeb2.0はきっとすごくなるでしょうね.

2006年09月05日 | 雑感
会議で北京に来ています.
思ったより違和感がないのが,かえって違和感に感じるぐらいですね.
それでもいろいろ違いを感じました.とくに「大きいこと」,「多いこと」,この二つは圧倒的ですね.天安門広場はもちろん,デパートも大通りもとにかくでかい.そしてそれを埋め尽くす人がいること.午前中だだっぴろいーと思っていたのが,夕方には人で埋め尽くされているというわけです.
日本でもこういう大人数というのはなくはないけど(アジア的というべきなのかな),とにかくスケールが違う.
これは当然ネットの世界でも同じことがおきているわけです.日本でも2ちゃんやブログが簡単に炎上しちゃうのはこの大人数性なんだからと思うけど,それが10倍にスケールアップするわけだからすごい.
とするならば中国でWeb2.0的Webが普及するとこれはすごいことになるでしょう.マーケットに対しておそるべきパワーをもつことになるでしょう.
ただし,それはアメリカ人の思うWeb2.0を超えてもっとすごい状況になるんじゃないかな.つまり,予想を超えた人数やアイテム数によって主催者が手に負えなくなるじゃないかな.たぶん別の仕組みが必要になるでしょうね.いまのような性善説的,疑似民主主義的方法は無理なような気がする.

移動する日々

2006年03月07日 | 雑感
海外出張以来、滞っていた日記がやっと追いついてひと安心。
しかし帰国後も(だから)なんだか忙しい。
昨日は三島で1日発表アンド会議。今日は本郷、一ツ橋、柏、また神保町。移動しているだけで一日が終わってしまう。うーん.

San Sebastian旅行記

2006年03月07日 | 雑感
WBS会議の中身は別に書いたので,旅行の雑感を少し.
この会議が開催されたSan Sebastianという町はスペインのフランス国境近いところにあるところ.いってわかったけどバスク地方だそうだ.

どうやっていくを決めるまでは結構大変.かなりマイナーなところらしく,地球の歩き方にも4ページしかない.ネットで調べてもさすがに日本語はほとんどなし,英語でも以外にひっからない.やっぱりスペインは英語情報は少ない.どっかの語学学校のページからどうやら空港はもよりの空港ほか近隣に二つあるらしい.結局San Sebastian空港だと3本乗り継ぎなので,bilbao空港にする.

今回はパリ乗換え.乗り換え時間が往復とも1時間ほど.行きは問題なし.しかし,Bilbao空港からが大変.まずタクシーでBilbaoのbus stationへ.そこからSan Sebastian行きのバスにのる.夜中に暗い山の中をつっぱっして1時間ほどでSan Sebastianのbus station.同行の沼くんによるとホテルまでバスがあるらしかったが,ついてみるとどうもなさそう.またタクシーを拾って,なんとかホテルへ.タクシーでは”ハポネ?””シー”以外はまったくわからず.運転手はホンダ,トヨタ,スズキなどをいうばかり...
まあ,僕はそんなもんだったけど,郊外にとった沼くんはもっと大変だったようだ.

San Sebastianの町は小さいな町.美しい弧を描いているビーチがあり,夏は保養地になんでしょうね.冬だから関係ない.旧市街は小さいがまあ趣があるところ.ぐるっと回ると30分ぐらいの小ささ.最初いったとき妙に閑散としていると思ったが,そもそもシエスタ時間だったよう.だいたい,夕方から夜になればなるほど人が増えてくる.これがスペイン式?

土産物屋で日本語で話しかけられる.怪しいかなとおもったら,この店に商品を卸しているスペイン人で日本人の奥さんがいるらしい.品々を日本語で説明してもらう.ありがたい.

会議のDinnerではBilbaoにいく.Bilbaoにはゴンドラ型の橋があった.一応,機械系出身なので,面白い.DinnerではCider Houseというシドラ(りんご酒)をつくっているところであった.そのテーブルではスペイン人とポルトガル人,ブラジル人,イタリア人とラテン系ばかり.そのうち,スペイン人,ポルトガル人と僕でシドラ飲み比べになる.シドラは6%ぐらいなので,まあ簡単に酔わないとおもったけど,なにせ初めて飲む酒なので注意しながら飲む.結局ポルトガル人と僕が残る.因みに二日酔いをスペイン語でサガとかいうらしい.別に翌日サガにはならず.

帰りはちょっと大変.同様に空港までたどりつくが,飛行機がなかなか飛ばない.1時間弱遅れる.これじゃあ乗り継げないだろうなあ,とおもっていたが,結局,そもそもCDG空港が雪で大混乱が問題の元で,東京行きも1時間以上遅れて,ある意味問題なし.でも心理的に疲れるね.

やっぱりSan Sebastianは遠かったですね.

古い建物の匂い

2006年02月12日 | 雑感
会議があってひさしぶりに東大本郷の古い建物にはいりました.行ったのは工学部3号館で,僕が6年間以上通った2号館ではありませんが,雰囲気はよく似ています.建物自体のどっしりした感じや響き渡るような感じがいいです.また,建物の放置されっぱななし具合や雑然とした感じは僕が学生のころのままで,タイムスリップ状態です.僕は卒業以来,新築の建物ばかりにいて,ある意味とっても残念だったので,この感じがいまもあるのはいいことです(いつまであるかわかりませんが).
帰りがけにトイレにはいりました.するとここにも懐かしさが.そう,トイレの強烈な匂い.古い建物はいいことばかりじゃなかったですね :-)