「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの教育:コメントで考えた算数・数学の学習

2013年10月24日 | 教育



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メゾフォルテさんとkoderaさんから、 「マッキーの頭の体操・その7:発想力が問われる算数」 にいただいたコメントから考えたことを、今日は綴ります。私を含めて、3人とも理系出身ということで、実際の指導経験を踏まえた興味深い意見が出ました。これらのコメントは、既に公表していますので、使わせていただきます。

【メゾフォルテさん】
「基本的な数学には注意力をつけるところがあるような気がするんですがいかがでしょうか。」

「根本的には、集中力をつけることが大事なんでしょうね。というか、数学が好きになると集中力も向上するといったことはあると思います。」

「定期試験で成績をアップする方法として、ケアレスミスをなくすることが大事だと思います。」

「定期試験の数学には計算用紙を配ってほしいと思います。その計算用紙を回収してチェックする。できれば計算用紙での途中式などを採点対象とする。定期試験では得点だけでなく生徒の勉強量を認める方法があればいいのに、と思っておりました。」

【koderaさん】
「算数で考える力が付くとは知りませんでした。算数は覚える、計算練習し、早くなれば良い、と思っていました。」

因数分解は解析思考の基本でもあるのでは。大事な勉強でしょう。説明は難しいですね。私は、デカルトに迫る一番分かりやすい方策かもと信じています。」

ケアレスミスの発生する原因と、性格の長所短所または特徴について考えるなら、私は良いサンプルだったように、今でもですが、思えます。」



私とメゾフォルテさんとkoderaさんの3人で交わされたブログ上の会話から、浮かび上がってきた3つの命題を整理してみます。

1.算数・数学の学習で、考える力・思考力が養成される。

 すべての人が身に付けるべき能力・技能である「読み書き算盤(そろばん)」という言葉を、ネットで引いてみました。「文字・文章を読むこと,内容を理解して文章を書くこと,および計算すること,ならびにそれらができる能力をもっていること。とくに近世末期以降,初等教育における基本的な教育内容とされ,また初等教育で獲得させる基礎的な能力・学力をいう。」

 義務教育で、そうした基本的な技能(学力)を、国民に求める意義はありました。義務教育で、国民の知的底上げを目指して裾野を広げることは、その上により高い知的な山を築くことを可能とします。国民の知的平均レベルを上げるだけではなく、その結果、高度な知性を持つ人材を育成することにもなりました。けれども、従来の「読み書き算盤(そろばん)」という基礎学力は、現代社会に適合しているかどうかが問題です。

 「読み書き算盤(計算)」という生活上の実利的な側面を強調し過ぎると、「先生、将来にルートとか因数分解など、私は使わないと思います。」といった反撃にあうこともあるでしょう。 そうした質問に応えるために、算数・数学は、算盤・・・すなわち計算や単位そして公式など、
覚えた技能を使って計算するだけではなく、与えられた条件を整理して式を立て答えを求める練習が、物事を論理的に考える力を養成することになる点を、子どもたちに強調すべきでしょう。

 ただし、特に公立小学校における実際の学習指導で言えば、基本事項を覚えさせ、練習させてマスターさせることで、精一杯ではないかと思います。



2.算数・数学の試験における児童・生徒たちの考える力や取り組んだ姿勢は、答えを導き出したプロセスを見ることにより評価できる。

 中学入試や高校入試においては、時間や採点基準などの制約から、多くの場合、解答が合っているか間違っているかのみを採点します。けれども、学校における試験の採点は、結果のみを見るのではなく、答えを導き出す努力や姿勢を、条件整理や途中式などを書かせることにより、採点の対象にすべきでしょう。試験により課題の習熟度を判定する必要はありますが、算数・数学の学習を、もっとさまざまな力を養成する教科として捉えるなら、単に結果を評価するだけでは不十分です。

 式のたて方などどうでもよいのだ。答えが合っていれば良いだろう。自分の立てた式を説明せよと教師が言うから、算数嫌いが増えるのだ。・・・そうした考え方をする人たちがいますが、算数・数学が結果のみを求める技能であるなら、それで良いのでしょうが、もっと本質的な点が違っていると思えます。与えられた課題から、解答を導き出す条件をピックアップして、関連性を洗い出し、過去の経験から類推して解決法を探っていくという、論理的な思考力養成と、諦めずに取り組む姿勢こそ、多くの子供たちが算数・数学を学習する意義だと私は考えています。

 式の立て方に対する私の考え方(論戦)は、以下のブログで述べています。興味ある方はご覧下さい。

マッキーの算数指導法:式のたて方のコメントに応える 

マッキーの算数指導法:式のたて方のコメントに応える(2)

マッキーの算数指導法:式のたて方のコメントに応える(3)



3.算数・数学の学習で、集中力・注意力は養成される。この命題に関連して、ケアレスミスを防ぐには、どうしたら良いのか。

 算数・数学の学習は、無論受験のためにしているわけではありません。また、集中力や注意力を身に付けるために、学習しているわけでもありません。けれども、学習の副次的成果として、集中力や注意力を養成することが可能であることは確かです。

 上位校の中学入試・私立高校入試レベルの計算問題は、途中式をしっかりと書くこと、そして正確に素早く解くことが、練習するうえで大切です。小学生であっても、上位私立を目指す子供たちは、大人を遙かに上回る正確さと速さで、計算する力を持っています。計算をしているときの子供たちは、集中し注意力を全開にしています。

 これは、受験生に限ったことではなく、一般の子供たちにも言えることです。煎餅をかじりながら、テレビをつけてその前で計算練習をしても、成果は上がりません。計算練習は、正しい答えを出すだけではなく、その仕方によっては、子供たちに集中力と注意力をつける効果があります。

 子供たちのケアレスミスをチェックすると、二つのタイプがあります。一つは、純粋のケアレスミスではなく、対象とする問題の解法をうろ覚えしているために、起こすミスの場合です。子どもたちが、分かっていることを強調するために、ケアレスミスとしてしまうことも多い場合で、未習熟な部分をしっかりと指摘することが必要です。二つ目は、問題をいい加減に読む・計算や単位変換をミスする・自分の字を読み間違えるといった、本当のケアレスミスです。

 ケアレスミスは、本質的には、その子の性格に起因する場合がほとんどです。ですから、子どもたちがケアレスミスで間違えた場合、「分かっていたけれど、ケアレスミスだ!」と言って、分かっていることを強調し、ミスを軽視する傾向があります。けれども、ケアレスミスを頻繁にする生徒は、入試や定期試験などを考えると、どんなに習熟度が増しても、ミスによって減点されることを示しています。性格だからといって諦めずに、そうしたケアレスミスを無くすためのアドバイスを、各生徒のミスに対応して行える指導者であることが大切です。子どもたちが、指摘された問題点を、日ごろの学習で意識して行うようになれば、ケアレスミスは改善されます。
 
 計算力を高めケアレスミスを少なくする
学習法を、以下のブログで説明しました。興味ある方は、ご覧下さい。

マッキーが教える算数…計算力を高めるためのポイント・その1:学習の仕方

マッキーが教える算数…計算力を高めるためのポイント・その2:間違えやすい計算



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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (tsuguo-kodera)
2013-10-25 08:41:59
 素晴らしいまとめと思いました。当方のコメントも引用頂きありがとうございました。
 私はは例外中の例外、1%以下の確率の人間だったと思います。今は凡人ですが、例えばIT分野で脛の傷なら人に負けません。
 金持ちや芸能人のお子さんの学校から、難関大学など受験。スポーツが大好きだったのに大学で諦めた男。資格も無いのに高校生の受験指導。
 人を意図せず傷つけ、また裏切られた経験も多数。聞く人もいないのに、先生方にシステム論を話してきました。
 私の経験に共通するのはケアレスミスのデパートだったから。だから若い人はそのまま真似して欲しくありません。
その前提で管理人様のまとめ、3項目に関する経験談を簡単に。参考になるかは分かりません。何しろ全集でも書くべき、話すべきミス男だったから。

①算数数学で生きる力を養う
 小学校上がるまでに、足し算、引き算は得意でした。お小遣いで飴玉などを買ったから、数字を円と銭と思い、計算すれば分かりました。暗算も得意で、人に負けない速度でした。
 壁は時刻の足し算引き算。でも、生活の時刻で考えろと母に言われたら、分かりました。
 二桁の掛け算も壁。筆算しろと母が言いました。得意な足し算になりました。 
 小学校高学年のとき、兄が中学校から教材を持って帰りました。1センチの立方体の角材がたくさんと、それが5個10個繋がった直方体が10個程度だったのか。それをいろいろな積み方をして、立方体への換算で個数を当てる遊びをしました。父は見ただけで個数を当てました。負けてばかりでしたが、面白かったのでよく遊んでもらいました。
 後に高校で級数を習ったとき、父が分かった理由が分かりました。帰納法も。生活の中で数学を学んでいたのです。このような繰り返しでした。
②プロセスを見る
 プロセスを重視しないと計算違いをしたのです。先生に教えてもらったわけではありません。文章問題は簡単でした。ミカンやりんごや歩く早さ、鶴亀、植木算など、全部身の回りにあったからです。鶏と犬は友達でしたので、現実を考えたら分かりました。
 計算は式を書いて答えを出しました。時間をあまらせ、裏でもう一度計算して、自分で答え合せをしました。何処が間違っているか、どちらが正しいか、計算過程が分からないと見直しができないので。プロセスを重視して書きました。それが早稲田と慶応の受験に役立ちました。プロセスを書いているとは思ってもいませんでした。ケアレスミス男の特徴が生きたのです。
③ケアレスミスを防ぐ
 いけないのは、競争心、過剰な自信、自信喪失です。良いのは、前の晩の過ごし方かも。用具の用意かも。事前調査かも。
 でも、経験から私が学んだ個々の事実は普遍性があると信じています。それぞれが独立していて、上澄みだけを話すことができるからです。
私は最後の大学では全部百点だったかも。早稲田に受かっていたから自信がありました。最初の慶応では30点だと思いました。頭が真っ白になったので、全問不正解だと思いました。
 家に帰り、難しかった問題を私は説明しました。父はそれを聞いて、合格したかも、と言いました。できなかった人はできたと言うそうです。
 以上です。長文になり、失礼しました。
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Unknown (藤村眞樹子)
2013-10-25 11:28:41
コメントをブログ記事で取り上げていただき、ありがとうございます。
ネットでつながるのはありがたいことですね。

ぜひとも私のブログにもコメントをいただきたくお待ち申し上げております。

返信する
Unknown (マッキー)
2013-10-25 12:19:40
 藤村さん、コメントありがとうございます。
 頂いたコメントから、今回は綴ってみました。実際に塾や公立学校で指導していて、感じたことも、今回まとめてみました。
 ネット上のコミュニケーションは、人との繋がりの現代的な一形態なのでしょうね。であれば、それを活用してお互いに高め合う場にしたいと思います。
 藤村さんのブログも、閲覧して応援させて頂きます。ありがとうございました。
返信する
Unknown (マッキー)
2013-10-25 12:38:02
 koderaさん、コメントありがとうございます。
 権化とは、神様のことなので、koderaさんが「ケアレスミスの権化」なら、簡単に言い換えれば、koderaさんは「ケアレスミスの神様」ということになります。
 けれども、足下ばっかり見て、転ばないことを自慢するよりも、前に広がる世界を見つめ、そのために時につまずいて転ぶような人の方が、人間的と言えるでしょう。
 また、歴史上の偉大な業績を残した人は、そんな失敗の繰り返しから、思いもよらない新しい道を発見したといったことも事実でしょう。
 受験生を教える身としては、ケアレスミスについて、少し厳しい見方をします。けれども、世の中に出てみれば、さまざまな人がいることが分かってきて、その中でも、時に失敗もする人間的な人の方が好感が持てることを、知ることができます。
 koderaさんが指摘しているように、数値をお金に置き換えて考えたり、時間の計算を生活上の時間として考えるといったことは、とても大切なことです。子どもは、実体験に関連して、新しい知識を定着していくので、その指摘は、教える側が常に意識している必要があることです。
 とても示唆に富んだコメント、ありがとうございました。
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Unknown (tsuguo-kodera)
2013-10-26 09:05:00
 そうですか。それなら私も神様ですね。
 実は私の家は都心にお寺があり、その檀家です。今は兄が面倒を見ています。笠岡から追い出された祖父の葬式で、父が建てた墓です。
 笠岡に代々の墓があったと、確認に行った母が言っていました。小学校の片隅に神社があり、墓掃除は小学生がしてくれていたそうです。今は定かではありません。
 昔、その神社の神官と塾の経営者を代々兼ねていたそうです。幕末まで。でも既に下っ端の教育者だったのでは。
 実は、ご存知かも知れませんが、秀吉と黒田家に謀られたのが先祖。播磨灘物語では愚鈍な君主として書かれています。情け無い話です。お菊を井戸に放り込んだのは遠縁だったようです。
 江戸時代中期までKodera神社と言われていたと父は言っていました。今となれば、歴史は闇の中。そこまでは郷土史にも書いてありませんでした。歴史は勝者が記しますので。
 権化が神とは光栄です。これからはケヤレスの神様と自称します。私は介護者、ケヤの実践者です。まだ未熟者。公共のケヤはレスとして、神を目指します。
 また目標ができました。ありがとうございます。
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