「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの随想:故郷新津の「石油噴出」と「私のルーツ」

2013年10月20日 | 時事随想



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 私は、新潟県新潟市秋葉区旧新津市の出身です。旧新津市は、かつて交通の要所で、信越線が通り、磐越西線・羽越線の起点でもあったので、鉄道の町として栄えました。鉄道ファンなら、「鉄道の町・新津」を知らない人はいないと思います。新津には、かつて国鉄(JR)の機関区や操車場がありました。並行する数多くの線路の上を、煙を吹き上げながら同時に幾つもの機関車が行き来するのを、私が子供の頃、渡線橋の上から眺めることができました。

過去のSLに関するブログです。SLに興味ある方はご覧ください。
マッキーの随想:新津駅で見た蒸気機関車…どうしてSLに魅力を感じるのか?   2008-10-27

 また、私の世代よりも以前の話になりますが、新津は日本の石油の一大産地であった時代がありました。私の子供の頃、町を流れる能代川の川面は、オイルでキラキラ光っていました。また、その当時でさえ、規模はとても小さくなりましたが、山の一部で石油掘削の機械が、ギーコ・ギーコと音を立てて動いていました。

 石油産業の最盛期、夢を持った多くの人が集まり、新津は華やかで活気に満ちた町となりました。しかし、やがて石油は枯渇し、平成8年で採掘が終了しました。そんな故郷新津が、この夏の全国版ニュースに石油関連の話題として取り上げられました。今日は、そのことに関連して、私が調べたことを綴ります。



【日本経済新聞報道から抜粋】

 『かつて油田があった新潟市秋葉区の住宅で4カ月もの間、石油を含んだ泥水とガスが噴出する事態が続いている。住民らは悪臭に耐えながら手作業で処理に追われている。新潟市は吸着シートなどを提供してきたが、新たに国際石油開発帝石の担当者らが22日現地を視察した。同社は市と連携して今後、本格的な支援に乗り出す構えだ。

 
泥水が噴出したのは4月27日。同区に住む山田隆さん(65)の自宅の床下と隣接して所有する空き地の地面に複数の穴が開き、石油臭がする大量の泥水が流れ出た。7月中旬ごろからは、15~20時間おきに300リットルほどがまとまって噴出することもあったという。

 
私有地の場合、行政の支援は受けられないため、山田さんは既に80万円以上を自費でつぎ込んでいる。新潟市は泥水の流出を防ぐ土のうや回収するための吸着シートを提供してきたが、噴出が収まらないため帝石に原因の究明と対処法についてアドバイスを求めた。』



【秋葉区役所の《石油の里》紹介から抜粋】

 『668(天智天皇7)年、「越国から燃土、燃水が献上された」と「日本書紀」に見られます。越国が新津であるかは不明ですが、明治時代の越後には頚城油田、西山油田、東山油田、新津油田が存在しました。新津油田は新潟県新潟市新津地区南東の丘陵地帯に分布する出油地帯の総称で、幅約6Km、延長16Kmの広い範囲にわたっていました。

 
この地域には、古くからの石油が地表ににじみ出ているところがあり、くそうず(草水)と呼ばれ、越後七不思議の一つにも数えられていました。近世には、石油採掘権が草水稼人に独占されていました。この代表的なものに柄目木(がらめき)の真柄家がありました。そしてその近くには、新津油田開基の油井(煮坪)が保存されています。

 
中野貫一は1874(明治7)年に借区開坑願を政府に提出し、金津地区で開坑し、この地方の開発の端緒となりました。そして、大正期には中野興業株式会社という日本石油、宝田石油に次ぐ、大石油会社に成長していくことになりました。

 
大正に入り、日本石油のロータリー式削井機による小口第2層の開発が進み、新津油田は、1917(大正6)年に年産12万キロリットルで、産油量日本一となり、第二次の全盛時を迎えました。その後は減少し、平成8年で採掘が終了しました。なお、新津油田は平成19年(2007年)5月10日に「日本の地質百選」に認定されました』

【その他の資料から抜粋】

1893年に日本石油が熊沢地区で上総掘りを導入し、1896年には鷲田種徳が小口地区で上総掘りを始めました.鷲田種徳の掘削は失敗続きでしたが,15坑目でやっと成功し,日産1.38キロリットルの出油をしました。』



 新津の地下深くには、事業収益は望めないものの、石油がいまだに残存するようです。かつての石油ブームの面影は、私の子供の頃にも残っていました。新津の夏の夜を彩る綺羅びやかに飾り付けられた屋台回し、高級な割烹料亭の数、芸者さん達の数、430年の伝統持ち日本の大流しと称される新津松阪流し・・・。けれども、どれを取っても、近年新津に帰省すると、栄枯盛衰の四字を連想します。新津には、JRの新津車両製作所があり、首都圏JRの車両に、新津で製造されたプレートが貼られているのを見かけます。けれども新津は、
一般的な地方都市、新潟のベットタウンになってしまったという印象を受けます

 けれども、かつて新津が石油採掘で華々しかった時代、私の周囲の人達の先祖も無関係ではありませんでした。石油採掘を初めに手がけた「真柄家」は、私のwifeの本家に当たります。私の結婚式にも、医師である当主に参列いただきました。この真柄家は、戦国時代の朝倉家中でも武勇に優れた人物・真柄十郎左衛門の末裔です。

 福井新聞の資料・・・『かつて日本最大の石油産出量を誇った新潟県の新津油田は、1608(慶長13)年前後、真柄仁兵衛(にへえ)という越前国からの浪人が開いたと伝わる。藩の公式記録に残り、越後真柄家の開祖として系図に記されるこの浪人こそ、十郎左衛門の次男、十郎次郎隆重(たかしげ)だという。石油採掘で栄えた子孫たちは1836(天保7)年、越前の十郎左衛門の屋敷跡にほこらを再建。現在も残る灯籠(とうろう)に、記録が刻まれている。』

 黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴の作による五尺三寸(約175センチ)もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦い、1570年、姉川の戦いで敵中に深く斬りこみ、子の隆基とともに戦死した真柄十郎左衛門の末裔が、越後へ生き延び、石油採掘の歴史に名を刻んでいます。現在
真柄太刀」は幾振りも伝わり、それぞれに由緒がついています。最も有名な太刀は、愛知県の熱田神宮所蔵、長さ221.1センチの「末之青江」(通称・太郎太刀) 真柄直澄所用です。

その末裔であるwifeの祖父は、昭和天皇の生物学の助手として、業績を残しました。

マッキーの随想:義理の祖父の生物学研究

 また、新津油田の開発にその名を残す鷲田種徳は、母の実家である齋藤家が支援し、親戚付き合いをしていました。幼かった母は、この人物にたいへんかわいがられ、母を養女にといった話もあったそうです。この人物が羽振りの良かった頃は、お殿様と呼ばれ、豪勢な生活をしていたようです。しかし、加賀藩の名家の出身であったこの人物は、知人の事業の連帯保証人となり、それが元で、膨大な財産を失い、新津を去ったのだそうです。

 アメリカのゴールデンラッシュのような、人間の欲と野望が渦巻く時代が、新津にもありました。そんな状況が、ある資料に残されています。・・・『日清戦争後には石油ブームがやって来て、例えば1895年に中蒲石油会社の募集株式数1,000株に対し、応募は実に10万株に達したそうです。この株100株を1口として、証拠金毎日100円ずつで実に100万円が集まりましたが、預ける銀行が無かったそうです。また、町中に株を買い漁る人々が跋扈し、人々はマネーゲームに狂奔しました。』



 石油で栄えた新津の歴史を後世に残すために、新津の金津に『石油の里』という施設が造られました。そこには、油田開発に名を残した私の母方の鷲田種徳とwifeのルーツである真柄家の業績が、並んで資料展示されています。新津にとって、石油が過去の歴史上のものと、私は思っていました。けれども、今回の石油噴出騒ぎで、新津がかつて日本有数の油田地帯だったことを、私に思い起こさせました。どういった原因で、今頃になって石油が突然噴出したのか、知りたいものです。

 最近では、シェールガス採掘が、アメリカを含む世界各地で、かつてのゴールドラッシュや石油採掘を彷彿させる事態を引き起こしています。人間の欲得や野望には、果てが無いようです。


上の画像の説明:公園のキンモクセイの香りを嗅ぐ5歳児・アイアイの格好をする5歳児・もう咲き始めたサザンカの花・秋と春に二度咲くジュウガツザクラの開花

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