「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの算数指導法:式のたて方のコメントに応える(2)

2013年02月07日 | 学習指導法



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最初のコメントの後に再び、積分定数さんからコメントを頂きました。

はっきり言ってちょっと無視したい内容も含まれ、感情が交錯した低次元のこうしたネット上の議論を好まない私としては、どうしようかと考えました。

しかし、長年の経験を基にした自分の考えを明確に述べておこうと思い、それが長文になることが予想出来たので、今回は「式のたて方のコメントに応える」その2、次回その3と二回に分けて綴ります。

こうした議論の中で、積分定数さんに対して、いろんな意味で問題視されているといった指摘を受けていますが、その積分定数さんのコメントと、積分定数さんに寄せられたコメントの後に、今回は私の考えを青色の文字で記すことにしましたのでご覧下さい。無論のこと、私の綴った主張は、読んでいただく多くの方に参考になるよう配慮したものです。


(積分定数さんから頂いたコメント)


まず、どう教えるか(方法・手段)、と、何を教えるのか(目的)を分けて考える必要があると思います。

かけ算の順序に拘る教え方をする人、及びそれを擁護する人の多くは、ここを勘違いしている場合が非常に多いです。

算数において何を教えるのかということと、子供たちにその内容を理解させるための教え方は、当然ながら密接に関連したものであり、また教師のそれぞれの学習指導法の主張は、生徒の習熟度・考えの深まりについて責任を持つことを前提として語らなければなりません。

子どもに、しっかりとした式のたて方を指導しきれない教師は、自分の低い教務能力を棚に上げて、恣意的な学習法を子どもに強いるべきではありません。

「かけ算の順序に拘る教え方をする人、及びそれを擁護する人」という対象を示す言い回しは正確ではなく、「考え方を式にしっかりと表すことを指導する教師」と「答えが出せれば式の表記はどうでも良いと考える者」との対比で表すべきで、「かけ算の順序」という焦点をぼかした言い回しは避けなければなりません。


■ そもそもかけ算に順序はない。
■ 「かけ算の順序」は目的ではない。

この2点が明確でない順序指導擁護論は、そもそもその段階で失格だと思っています。

かけ算に順序はないと言っておきながら、かけ算の順序は目的ではないと言っていること自体が意味不明です。

単純に言えば、かけ算を表記した段階で順序が発生するのであって、かけ算はその表記した数字の順序を交換しても答えは一緒になることから、かけ算をその式に従って計算する時点で順序が決まると言って良いでしょう。

もっと例を挙げるなら、文字式の乗法には、アルファベット順という明確な表記順序があり、abcをbacとすれば、中学1年の数学テストでは、バツとなります。・・・かけ算の順序など、どうでもよいだろうとは言えません。

「かけ算の順序は目的ではない?」・・・かけ算の計算を指導する場合、かけ算の順序を変えても答えは同じだということ(交換の法則・小学4年で学習)を指導する場合、「かけ算の順序」が学習目的となります。

順序指導を正当化するには、この2点が明確でなおかつ、教育的メリットが上回るということが示されないとならないと考えます。

>計算のルール、すなわち交換の法則・結合の法則・分配の法則などの決まりと、答えを導き出す考えを表した式の区別

このような区別がなぜ必要なのか分かりません。

式だけで考え方を見ることは不可能だと思います。

式の立て方などどうでもよいだろうという考えを主張する者の多くは、「式だけで考え方を見ることは不可能だ」と言いながら、自分が書いた意味不明な式に、天邪鬼的な意味付けをすることを好むようです。言っていることとやっていることのギャップが甚だしいと言わざるを得ません。

何度も指摘しますが、小学生に問題を出したとき、その問題の解答を導き出した自分の考えの手順を示したものが式です。場合によっては式以外に、与えられた条件の整理や考える手順を示す手段として、線分図・情景図・表・樹形図・面積図・ベン図・てんびん図・文字式など、さまざまなアプローチを試す必要があるでしょう。根気よく解答を導き出していくそのプロセスを式に定着させる(自分の考えを整理する)ことが、算数学習の目的の一つであるはずです。

式がしっかりと書かれていれば、その式を指導者が読み解くことにより、その子がどのように論理的に考え式をたてたのかを、おおよそ知ることができるだけではなく、その式にしたがってその子どもは、自分の考えを他の人に伝えることもできるのです。

算数の学習は、論理的に物事を考え、他の人に分かり易く自分の考えを伝える、そうした力を養うことができるからこそ、大切な教科なのです。

どんなやり方でも良いから答えを出すという主張は、その子のノートに、神のお告げの如く答えだけが書かれていても、「よくできました」と丸をつける算数指導ですが、それでは子どもの考えの深まりは期待出来ません。


(追伸)
どんなやり方でもいいからとにかく答えを出す。

やり方を覚えるのではなくて、試行錯誤して答えに行き着く

というのが大切だと思っています。そのためには、恣意的なルールは極力なくすべきだと思っています。

答えに到る道筋は、さまざまあるでしょう。

勾配が緩やかだけれども時間のかかる道、急坂や危険な隘路だけれども最短でいける道、生徒が集中して解答を求める道を探ることも、算数を学習する重要な目的です。


ただし繰り返し指摘したいのは、乗法公式を覚えずにいつまでも分配の法則を使って計算する(答えは同じ)ことを認めるような、計算の結果だけを求める指導法は、因数分解を学習する時点でその子を頓挫させてしまう結果となることを、教える側は知るべきです。

生徒に対して学習内容を習熟させる役割を担う教師の努力と責任を放棄し、「どんなやり方でもいいからとにかく答えをだしなさい。」は、無責任の誹りを免れません。

塾では、性急に答えだけを出そうとする生徒に対して、「答なんてどうでもいいことでしょう。与えられた条件をしっかりと整理して、ちゃんと式を書いて考えなさい。」と私は指導します。・・・個々の問題の答えをだすことが目的ではなく、問題を解く考えの深まりを期待しているのですから。ただし、公立学校での指導では、そんな過激な言葉は発しませんが。



積分定数さん寄せられたコメント。彼の意見を補完する例として紹介されている。

(事例1)
さっきの算数の問題はこれ→「1.5mのホースの重さは270g、このホースの1mの重さは何g?」 教科書的正解は270÷1.5=180g 長女の考え方は「0.5mで90g、なので1mだと180g」 でもこれだと×になっちゃうんなんだって・・・(・ω・;)。
ありがとうございます!担任の先生もこの単元では×になるけど割り算の計算につながる良い考え方だとほめてくださったようです。「小数の割り算」の単元なので小数の割り算を使わないとダメと言う事なのでしょうね。親バカながらこれからの伸びに期待しています(^^)♪

>「小数の割り算」の単元なので小数の割り算を使わないとダメ

そうであれば、「かけ算の単元だからかけ算を使う」と子供が考えるのは当然。

「教える側が望んだ答案を書くべきだ」というような、子供に空気と行間を読ませることが目的なんだからと、順序を擁護する意見があるが、

「かけ算の単元だからかけ算にする」というのは、まさにそういうことではないのか?


(積分定数さんの主張)

こういう「少数の割り算の単元だから少数の割り算を使わなくてはならない」という、解放の制約が、子供たちが素直に自由に問題に取り組むことを妨げて、「こうやって解くのを先生は認めてくれるだろうか?」という、空気を読む訓練をさせることになってしまっているように思えます。

まず、少数は小数、解放は解法のミスでね。

小5のお子さんだと思われますが、割合の考え方・小数の計算(公立学校小5の学習テーマ)を理解したかどうかをチェックするテストだったと思われます。

答えは確かに正解ですし、答えを導き出そうという努力と工夫した跡が見られる式の立て方であり、当てずっぽうの解き方ではありません。

しかし、「小数計算」と、「割合の式の立て方」のこの子の習熟度は、弱いかまたは判定不能です。

この考え方から読み取れることは、この子は条件を線分図で整理して、その考え方に気づき式をたてたはずです。

その取り組む姿勢を評価すべきか、学習した項目の習熟度の判定としてテストを捉えるべきなのか、教える教師としては、判断に迷うことでしょう。

そうした教師の取り組み(この児童に対しても、しっかりとフォローしている)に思いを馳せることが出来ずに、単純にこの教師の判定を非難する者は、算数指導の全容を理解せず、明らかにクレーマーと断言してよいでしょう。

小数計算も、割合の考え方も習熟しない子どもに、そのことを指摘すること無くゴーサインを出すことが、後々の学習を進める上で、大きな負担をこの子に負わせてしまうことになります。


ここで、私が最近経験したちょっとした例を挙げたいと思います。

ある公立小学校の4年生に、九九を覚えていない生徒がいましたが、無論のこと、小学4年の計算は九九を知らないので、ほとんどできません。

例えば、5×7=え~と、5+5は10,10+5は15,・・・小学2年生なら、その努力を褒めても良いのですが、やはり習得すべき学習項目を習熟しないと、とてもかわいそうな結果となります。

この子は、文章題を出すと論理的なしっかりとした式をたてることができ、九九の習熟が大きなハードルになっていることが分かりました。

そこで、「君ね、1日に1回、トイレの中でも良いから、九九を練習しなさい。必ず覚えられるから!」と言い渡し、およそ1ヶ月後の冬休み明けに、九九をその子に確認すると、嬉しそうにしっかりと九九を言えるようになっているではありませんか。


こうした事例からも、学習すべき項目の習熟を考えずに、答さえ合っていればよいという指導法は、子どもに後々たいへんな負担をかけることになることを、強調しておきます。

また、子どものテストに付けるマル・バツは、そのテスト項目における自分(教える側)の指導評価でもあるのです。

教える立場の者は、そこをいい加減に捉えてはいけません。

児童の学習の習熟度を知り、自分の指導を常に検証し、出てきた結果を、その後の指導に役立てるためにフィードバックする努力をしない教え方は、いつまでも学習内容全体を・鳥瞰・掌握できない人の指導法といえるでしょう。



サザンカは最盛期を過ぎたようですが、陽光が強くなった如月の空に、紅の花が映えていました。


関心のある方は、以下のブログも参考にご覧ください。

マッキーの教育論:ネット評論家の無責任な教育論

マッキーの算数指導法:式のたて方のコメントに応える 
 

マッキーの算数指導法:式のたて方のコメントに応える(3)


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1 コメント

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Unknown (積分定数)
2013-02-12 14:26:19
>かけ算に順序はないと言っておきながら、かけ算の順序は目的ではないと言っていること自体が意味不明です。

「かけ算に順序はない」とは、どちらの順序でも正しいという意味です。

「かけ算の順序は目的ではない」というのは、順序を指導する人がその理由を色々述べるのですが、

「これこれこういう理由で、だから順序という手段を使うのですよ」という一方で、

「正しい順序に書かせること」自体を目的にしているとしか思えない授業もあるので、

 後者に関してはその段階で、論ずるに値しないと言う意味です。
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