上田龍公式サイトRyo's Baseball Cafe Americain  「店主日記」

ベースボール・コントリビューター(ライター・野球史研究者)上田龍の公式サイト「別館」

日本シリーズは「因縁の顔合わせ」?

2005年10月22日 | Baseball/MLB
日本シリーズ第1戦は前代未聞の濃霧コールドでマリーンズが先勝した。
さて、マリーンズとタイガースのこの組み合わせ、年配の野球ファンなら「おや…」と思われたのではないか。
1949年(昭和24年)の秋、日本プロ野球界は新規参入をめぐって日本野球連盟所属の8球団が激しく対立していた。特に新規参入勢力の中心である毎日新聞設立の新球団加盟に対しては、親会社同士がライバルの読売、中日、そして大陽ロビンスの3球団が反対だったのに対し、阪急、南海、東急、大映そして阪神の5球団が受け入れ賛成派だった。ただ毎日に新球団設立を働きかけたのは公職追放中の正力松太郎読売新聞社主だったから、問題は複雑だった。
しかし、正力の読売やプロ野球における影響力を排除したかった当時の読売新聞経営陣は、阪神の経営陣を説得して「反対派」に鞍替えさせ、勢力図は4対4となって完全な膠着状態となり、日本野球連盟はついに1949年11月26日に完全に分裂した形で、「反対派」は既存4球団に大洋漁業、日本国有鉄道、西日本新聞、そして広島の新規4球団が加わった「セントラルリーグ」、一方の「賛成派」は既存の4球団に毎日、西日本鉄道、近畿日本鉄道が加わった7球団による「パシフィックリーグ」としてそれぞれ新リーグを立ち上げた。
現在では「分立」などという言葉が公式に使われているようだが、この2リーグ制移行は文字通りの「分裂」であり、両リーグや球団の間では選手の引き抜き合戦などが泥沼化し、ついに当時日本を占領していた連合軍総司令部(GHQ)マーカット少将の仲介が入り、その調停案のひとつとして現在の日本シリーズが始まったのである。オールスターゲームが始まったのは2リーグ制2年目の1951年からで、それほど両者の反目は激しかった。
さて、そうした争いの中で、阪神の「寝返り」に対する報復として、毎日は当時のタイガースの内紛などにもつけ込み、監督兼投手の若林忠志、主砲の別当薫、リードオフマンの呉昌征、二塁手の本堂安次ら主力選手をごっそりと引き抜き、これに都市対抗野球の優勝チーム・別府星野組から「火の球投手」と呼ばれたエースの荒巻淳、一塁手兼監督の西本幸雄らも加えた「毎日オリオンズ」は、パ・リーグの初代チャンピオンとなり、セ・リーグの初代王者「松竹ロビンス」と対戦した「日本ワールドシリーズ」も制して、初のシリーズ王者となった。
一方のタイガースは、のちの殿堂入り選手3人を含む大量の主力選手を引き抜かれただけに完全に弱体化し、初のリーグ優勝を遂げたのは1962年になってからだった。そうした危機的状況でチームにとどまり孤軍奮闘した藤村富美男を、タイガースファンは「ミスタータイガース」と呼んで讃え、その背番号「10」は球団初の永久欠番となったのである。
その後、毎日オリオンズは大毎、東京、ロッテを経て千葉に移り、現在の千葉ロッテマリーンズとなった。そして2リーグ制分裂後56年目にして、因縁の両者はついに日本一を争う舞台で顔を合わせたのである。


最新の画像もっと見る