(痛恨のボーンヘッドを演じたが、名将マグロウの励ましで立ち直りレギュラーの座をつかんだフレッド・マークル)
1908年のナ・リーグでCubs、Piratesと三つ巴の優勝争いを終盤まで演じていた猛将ジョン・マグロウ監督率いるNew York Giantsは、9月23日、本拠地ポロ・グラウンズに宿敵Cubsを迎えた。
1対1で迎えた9回裏、Giantsは二死ながら走者一、三塁のチャンスを迎え、打席に立ったアル・ブリッドウェルが見事にセンター前へタイムリーヒットを放ち、三塁走者が生還してサヨナラ勝ち……と思い、スタンドの観客が大挙してフィールドになだれ込んだ。
ところが、Giantsの一塁走者フレッド・マークルが二塁ベースを踏まないで歓喜の輪に加わったのを見たCubsの二塁手ジョニー・エヴァースは、センターにボールを投げるよう要求、これが大きくそれるとフィールドにいたGiantsの大投手ジョン・マグギニティーが記念のウィニングボールとしてスタンドに投げ入れたが、エヴァースはどこからかボールを探し出すと主審に対して、マークルが触塁しないままダッグアウトへ引き上げたとアピールし、これが認められてマークルはアウトとなってタイムリーヒットは取り消される。フィールドの混乱は収拾不可能な状態に陥っていたため、この試合は引き分けとなり、後日の再試合でGiantsはCubsに敗れ、ペナントを逃してしまった。
痛恨のボーンヘッドをおかしたマークルは、前年にGiantsに入団し、この年2年目の若手選手で、問題の試合には代走として出場していた。ファンやメディアは優勝を逃した「戦犯」としてマークルを責めたが、マグロウは「マークルを責めるのはお門違いだ。ウチはあの試合以外にも、勝って当然だった試合を落としたのが1ダースほどあったんだ」と、マークルをかばい続けた。
それでもマークルへの攻撃は止まず、翌1909年、マークルは打率.191と不振に苦しみ、耐えかねてマグロウに「ファンは私の出場を望んでいません。私をラインナップから外して下さい」と直訴する。
これにマグロウは「君がいいプレーを見せれば、彼らの罵声は声援に変わる」と激励してその後も使い続け、翌1910年にマークルはその期待に応えて144試合に出場し、打率.292を記録して正一塁手の座をつかんだ。1913年には来日して六大学チームなどを相手に試合を行ない、三田の慶応義塾大学野球部グラウンド(現存)での試合では、「芝(当時の芝区)から麻布(同麻布区)への大ホームラン」を放って、日米親善野球の歴史にその名を残している。
「リトルナポレオン」の異名を取るなど、選手に秋霜烈日の厳しさで接した(バントのサインを見落としてホームランを打った選手に罰金を科したともいわれる)ことで知られるマグロウだが、遠征先のホテルのグレードアップやクラブハウスの改装、温暖地での春季キャンプの実施など、選手への思いやりに満ちたエピソードも少なくない。マークルを励まし続けてレギュラーに育て上げたのも、そんなマグロウの「人情家」としての一面を物語る話としてよく伝えられている。
さて、今年のナ・リーグ地区シリーズ第3戦で、決勝のタイムリートンネルを含む3失策を演じて、九分九厘手にしていたBravesの勝利を逃し、Giantsに王手をかけられる原因を作ってしまった急造二塁手のブルックス・コンラッドに対し、今季限りで勇退するボビー・コックス監督はどんな声をかけたのか。
数年前、コックスは試合中にボーンヘッドをおかした一塁手のアダム・ラローシュ(現D-Backs)を途中交代させ、翌日のスタメンからも外したが、チャンスの場面で代打に起用し、見事にラローシュがタイムリーヒットを放ったことがある。
「お前がいいプレーを見せれば、ファンの罵声は声援に変わる」──日本では数年前、試合に敗れた「ペナルティー」として選手に炎天下のグラウンドで体罰的な練習を課した末、15歳の少年を熱中症死に追いやった少年野球チームの監督がいたが、プロでもアマでも少年野球のレベルでも、指導者の立場にある人たち、あるいはそれをめざしている人たちには、ぜひマグロウやコックスが見せたように失敗した選手への心遣いを持ってほしいものだ。
(追記)残念ながらBravesは2対3でGiantsに敗れ、地区シリーズ敗退。コックスの采配とコンラッドの捲土重来ぶりをもっと見たい気持ちもあったのだが……Bravesファンは決してコンラッドを責めないでもらいたいし、コンラッドにはさらなる来季以降の活躍を期待したい。
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