上田龍公式サイトRyo's Baseball Cafe Americain  「店主日記」

ベースボール・コントリビューター(ライター・野球史研究者)上田龍の公式サイト「別館」

金本の「元日始動」で思い出した“初代ハマの番長”

2010年01月01日 | Baseball/MLB

(まさか球団発行誌の新年号表紙を飾るまでになるとは……)

 

 謹んで新年のお慶びを申し上げます。

 昨年はろくに更新もできませんでしたが、本年は極力こまめにエントリーを行ないたいと思っておりますので、懲りずにご愛顧のほどお願い申し上げます。

********************************************************************** 

  阪神タイガースの主砲・金本知憲外野手が、同僚の新井良浩内野手とともに、元日から広島市内のトレーニングジムで2時間のウエイトトレーニングを行なったという。

  今年4月には42歳を迎える不惑の鉄人には、昨年が自身、チームの成績とも不本意な結果に終わっただけに、全身全霊のプレーを続けるため、なんとか万全に少しでも近いコンディションで1年を乗り切ってほしいと祈るばかりだ。

 

  寒風吹きすさぶ年明けからトレーニングに励む金本と新井のニュースを聞いて、私の脳裏に20年以上も前のある記憶がよみがえった。


 場所は当時横浜市保土ヶ谷区にあった横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の二軍練習グラウンド「大洋球場」。1月中旬、新年のあいさつ回りを兼ねてグラウンドに足を運ぶと、バッティングケージで黙々と打撃練習に励む若手選手の姿が目に入った。

  その前年まで彼が背負っていた背番号「46」は、このシーズンから「59」に変更されていた。埼玉県の県立高校を卒業してホエールズのユニフォームを着てから4年間、一軍出場は1試合もなく、当時決して層が厚いと言えなかったホエールズのファームでも、先発出場の機会は限られていた。その1年半ほど前、私が在籍していた球団発行誌のファーム情報で彼の記事を載せようとしたところ、球団広報の責任者から「あんな奴の記事は載せないでいい」と校正段階でストップがかかり、急きょほかの選手の記事に差し替えたことがある。

 

  たまたま当時のホエールズ二軍に左の外野手が少なかった(後年の取材で分かったことだが、彼の両親や兄弟だけでなく、親戚じゅうを見渡しても左利きは彼一人だけだったという。そんな生まれながらの偶然も「幸運」につながった)ことで、かろうじて首を免れたものの、変更された背番号「59」は、当時の支配下選手枠「60」の一歩手前で、彼にとってはいよいよ自分の野球人生にあとがないとの危機感を抱いて臨んだシーズンだった。

  思わず私の目がとまったのは、バッティングケージを出てダッグアウトに戻ってきた彼のバットを見た時だった。

 「ねえ、そのグリップエンドはどうしたの? 変わった形をしているね」

  いままでおよそお目にかかったことのない、まるでコケシの頭のような形をした大きなグリップエンドだった。

 「特注なんですよ。この形だとバットを持った時のバランスがいいんです」

 もちろん特注バットがすぐに打ち出の小槌や如意棒の役割を果たしたわけではない。自主トレでも二軍のキャンプでも、コケシバットはよく折れて、取材に来た中年の新聞記者やカメラマンがそれに目をつけ、ノコギリでグリップエンドの部分から切り落としては、肩叩きに使っていたのをよくおぼえている。

  しかし開幕が近付くにつれ、折れるバットの本数は次第に減っていった。

  そしてイースタンリーグの開幕戦、スタメンに起用されたその選手は、快打を放ち盗塁も決めた。シーズン途中には、はじめて一軍に昇格し、プロ初安打や初本塁打も放った。

 その4年後、1989年にレギュラーを獲得した彼は、129試合に出場、打率.309、7本塁打、56打点、18盗塁をマークし、外野守備でも好プレーを見せ、最下位に沈んだチームにあって、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。

 短期間ではあったが、ホエールズの中心選手にまで上り詰めた“初代・ハマの番長”こと山崎賢一外野手は、私が取材した野球選手の中でも、もっとも忘れがたい存在の一人である。

 プロスポーツの世界は、不断の努力を重ねていても、必ずしも報われるものではない。血のにじむ努力を重ねても、プロ選手としての基本的な資質が伴わず、「重ねた努力はレギュラー級なんだが」と、監督やフロントが泣く泣く戦力外を言い渡したケースも何度も目にしてきた。山崎もそんな報われない選手の一人になるところだったが、不断の努力に独自の工夫を加え、ちょっぴりの幸運も味方し、ベストナインにまで上りつめた。

 

 山崎に関してもうひとつ思い出として残っているのは、彼が当時乗っていた自家用車のことだ。ホエールズは入団2年目から二軍選手でも車の所有が許されており、保土ヶ谷、あるいは後年移転した横須賀の合宿所でも、二軍の練習が終わると、選手たちは洗車に精を出し、駐車場はまるで自動車販売店の新車展示場のごとき様相を呈していた。

 そんななかで、いつも泥だらけでとびきり汚かったのが、山崎が乗っていた三菱車だった。ほかの選手が洗車にいそしんでいる時間に、山崎はひたすら室内練習場で車のボディーではなく自身の腕を磨いていたのだ。

 

 そんな山崎がベストナイン表彰式の晴れ舞台に立った姿は、本当にわがことのようにうれしかった。そのあと、編集部と球団広報の忘年会で、数年前に山崎の記事を差し替えるよう命じた広報責任者が、しみじみと「毎年整理対象選手のリストに必ず乗っていた山崎がねえ」と感慨深げに語っていたのも記憶に残っている。

 ちなみに、山崎の代名詞となった「コケシバット」の写真を初めて撮影し、「月刊ホエールズ」(あるいはその前身の隔月刊誌「横浜大洋」だったかもしれない)の誌面に載せたのがこの私であることも、野球取材記者としてのちょっとした自慢のひとつである。

 

 ホエールズの仕事を辞してから今年でちょうど20年。あれから山崎賢一には一度も会っていないが、いつかまた、彼とはぜひ再会して、改めてその野球人生について、じっくり話を聞いてみたいと思う。それが依然として彼と同じくプロ野球の世界に関わって生きている私の、ささやかな個人的願望なのだ。

 

 

 

 

 

 

金本知憲―心が折れても、あきらめるな! (スポーツ・ノンフィクション)
金本 知憲
学習研究社

このアイテムの詳細を見る


最新の画像もっと見る