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(1961年のワールドシリーズ第1戦終了後。ロジャー・マリス=左、ミッキー・マントル=中央とともに取材に応じる在りし日のクリート・ボイヤー氏=右)
1988年以来、7度もクーパースタウンに足を運んでいるが、こんな田舎街で、何度か思いがけない幸せな出会いをしている。2003年には、ちょうど野球殿堂博物館にサイン会と講演のために訪れていた殿堂入りの名投手ロビン・ロバーツ氏に、1953年の秋、ロパット・オールスターズ(ロバーツ氏を含め、のちに殿堂入りしたメンバー6人が参加していた豪華チーム)で来日したときのエピソードをうかがうことができた。
その2年後、殿堂に連なる街のメインストリートを歩いていると、その一角にあるベースボール・ショップ「Mickey's Palace」のショー・ウィンドーに、「元ヤンキース三塁手クリート・ボイヤーのサイン会開催」の看板が、彼の現役時代の写真と一緒に掲げられていた。
「Boyer」の文字を見るや否や、私は店に飛び込み、入り口の近くにいた店員に超ブロークンな英語で尋ねた──「ボイヤーさんは何時ごろ、このこの店に来るんですか?」。 すると店員は黙って、私の背後に指を向けた。その先には、ヤンキースのキャップをかぶった体格のいい老紳士が、キョトンとした表情で、闖入者である私を見つめていた。現役時代、あるいはヤンキースやアスレチックスでコーチを務めていた当時に比べてもだいぶ胴回りは太くなり、髪の毛にもすっかり白いものが増えてはいたが、それでもその人物がクリート・ボイヤー氏その人であることは瞬時にわかった。
(そのときの写真がこの一枚である)
ボイヤーさんの名前は、私と同世代以上の野球ファンにとっては、忘れ難い名前である。1972年に来日し、当時の大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に入団。一発長打を売り物に来日する外国人選手が圧倒的だったなかで、彼が注目を集めたのはその三塁守備だった。
ホエールズの本拠地は、今はなき(グラウンド部分は残っているが)川崎球場。当時、セ・リーグのなかでも、施設のお粗末さ、(読売ジャイアンツ戦以外の)観客の少なさ、そしてグラウンドコンディションの悪さは間違いなくワーストだったが、「弘法筆を選ばず」のたとえどおり、デコボコのグラウンドもものともせず、三塁戦の鋭い打球を逆シングルで捕球するや否や、両ひざをついたまま一塁に矢のような送球を見せるなど、前年の秋にオリオールズの一員として来日したブルックス・ロビンソンに勝るとも劣らぬ名サードぶりを発揮。当時、選手生活の晩年にさしかかり動きも鈍くなっていたが、日本球界においては不可侵の存在だった長嶋茂雄がいたために、この年から制定されたダイヤモンドグラブ(現ゴールデングラブ)の受賞こそならなかったが、翌年からは2年連続で受賞。いつしか「長嶋がダットサンならボイヤーの守備はキャディラック」とまで賞賛を集めるようになった。
もちろん来日前、メジャーリーグにおけるボイヤーさんの実績もまた偉大なものだった。カンザスシティー・アスレチックスでメジャー生活をスタートし、1959年にヤンキースへ移籍後、1960年にレギュラーになると、この年から5年連続のリーグ優勝、61・62年の連続世界一に貢献。特に61年レッズとのシリーズ第1戦では、試合の流れを変えるファインプレーを再三にわたって披露し、この試合の殊勲者としてスポットが当てられた。冒頭の写真はこの試合後、クロスリー・フィールドのヤンキース側クラブハウスで、ロジャー・マリス、ミッキー・マントルの「MM砲」とともに取材を受けたときのもので、ボイヤーさんが生涯誇りにしていた一枚である。また1964年には対戦相手のカージナルスで同じサードを守っていた兄のケンとともに、史上初のシリーズ兄弟本塁打を達成している。
同時代にロビンソンがいたため、ゴールドグラブの受賞はアトランタ・ブレーブス移籍後の1969年まで待たなければならなかった。しかし、60年代前半のヤンキースにあって、単に三塁で鉄壁の守りを見せただけでなく、内野陣全体の優れたリーダーでもあったボイヤー氏は、のちに78年のシリーズで歴史的な名守備を見せたグレイグ・ネトルズとともに、ヤンキース史上最高の三塁手との評価が高い。
大洋では一塁=松原誠、二塁=ジョン・シピン、遊撃=米田慶三郎、山下大輔とともに、当時セ・リーグ最高の守備力を誇る内野陣を形成し、兼任・専任コーチとして山下、田代富雄の育成にも力を注ぎ、また一時期は実質的な監督も務めている。
また日米双方でのゴールドグラブ受賞を果たした最初の選手であり、その後もボイヤーに続いたのはデイブ・ジョンソン(オリオールズ/読売)、イチロー(オリックス/マリナーズ)しかいない。
ボイヤー氏がプレーヤーとしてのみならず、人間的にもいかにすばらしい人物であったかは、彼を日本に呼んだ牛込惟浩さんの著書「サムライ野球と助っ人たち(正編)」に詳しい。
クーパースタウンではサイン会の最中であまりゆっくりとお話しはできなかったが、それでも冒頭の写真にサインをお願いすると、サインペンを走らせながら、「私と一緒に写っているこの二人が誰かわかるか?」と尋ねられ。「もちろん、ミッキー・マントルとロジャー・マリスのMM砲ですよ!」と答えると、実にうれしそうな表情を見せてくれた。
その数日後、ヤンキースタジアムでのオールドタイマーズデイで再度お目にかかり、今度は大洋時代のことなどをいろいろうかがうことができた。
私は「あなたが日本でプレーしている当時、現在のように日本人選手がメジャーの主力選手として活躍する時代が来ると想像できましたか?」と質問すると、ボイヤーさんはそれには直接答えず、後輩となった松井秀喜について次のように語ってくれた。
「マツイのプレーを見ていて驚かされるのは、野球IQが実に高いことがプレーの端々に見え隠れしていることだね」
つまり、自分自身が手取り足取り教えていた30年前と比べ、自分の想像を上回るプレーを見せるレベルにまで日本人プレーヤーは上り詰めたのだということを、ボイヤーさんは表現していたわけである。
ちなみに、ボイヤーさんのヤンキース時代の背番号は「6」。現在この番号を背負っているジョー・トーリ監督はブレーブス時代のチームメイトでもあった。
このとき、「また次のオールドタイマーズデイでお目にかかりましょう」と約束して彼の元を辞去したのだが、それがボイヤーさんとの永遠の別れになってしまった。
改めて、「ヤンキース史上最高の三塁手」クリート・ボイヤーさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(クリート・ボイヤー氏の現役時代の成績)
http://mlb.mlb.com/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=111319
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