上田龍公式サイトRyo's Baseball Cafe Americain  「店主日記」

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「あの日……1980年12月8日」

2005年12月08日 | えとせとら
ジョン・レノンが凶弾に倒れた1980年12月8日(NY時間では7日)、その日は前夜遅くまでアルバイトをしていて、帰宅後夕方まで寝ていたため、その悲報を知ったのは夕方のテレビニュースだったと思う。最新アルバムの「ダブル・ファンタジー」はその数日前に買っていたが、まだ針を落としていなかった(当時はもちろんレコードでした)。
その夜はすべての深夜放送が追悼一色になっていて、それを一晩中ハシゴして聴いていた。翌日、大学に登校したものの、講義はおそらく受けずに、近所の喫茶店にいて、やはり有線から流れてくるジョンやビートルズの曲を聴きながら、呆然と外の景色を眺めていた。
当時、というか現在もそうなのだが、大学時代の同級生の多くは、なぜか知的好奇心が低いというのか、世情に疎く、かといって特に好きなことや熱中することがあるわけでもなさそうな、典型的「ノンポリ学生」ばかりで(現在の大学生はもっとひどくなってしまったが)、世界中に衝撃を与えたジョンの死にも通り一遍の反応すら示さない人間が多かった。私自身はそのことも非常にショックだった。その頃から、こうした友人たちとの間には微妙な距離感を感じ始めていたのだろう。そうした溝は社会人になるにつれ、徐々に広がっていき、やがて数人を除いてはもう彼らと交流することはなくなった。
この80年は、念頭にポール・マッカートニーが自らのバンド「ウイングス」を率いて、1966年のビートルズ公演以来となる武道館ライブを行なう予定だったが、こともあろうに成田空港で大麻所持が見つかって逮捕、強制送還となるショッキングな事件があった。まさにビートルズで明け、ビートルズに暮れた一年だった。

数々の名曲、名言を残しているジョンだが、もっとも私が好きな言葉は、1965年にビートルズがMBA勲章を受けたとき、これに反発して退役軍人から勲章の返上が相次ぐ騒ぎが起きたときのこの一言だ。
「退役軍人たちは戦争で人を殺して勲章を受けたんだろう? でもわれわれは音楽で世界中の人々を楽しませて叙勲の栄誉を担ったんだ。どちらに価値があるか、一目瞭然じゃないか」
の後、ジョンは1969年にイギリス政府のナイジェリア内戦に対する姿勢を批判して勲章を返上。やがてNYに生活と活動の拠点を移し、ここが彼の短い生の終着点となった。
その翌年、初めてNYを訪れた私は、真っ先にダゴタハウスの殺害現場に足を運んだ。「ここで……」と思うと、もういたたまれない気持ちになった。そのとき、ようやくジョン・オノ・レノンはもうこの世の人ではないということを実感したのである。
それから四半世紀が経ち、世界は彼の思い描いた理想とはまったく逆の方向へと突っ走っているような気がしてならない。「イマジン」1曲があれだけ多くの人に歌い継がれていることを思えば、ジョンがもし現在も存命であったならば、やはり世界を理想の方向へと導くリーダーとして活動し続けていたのではないかと思うのである。

ジョン・レノンがもし生きていれば、今年65歳になっていた……。


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