

長年のってきたロードレーサーの紹介をしたいとおもう。この自転車を組んだのは1986年か1987年だ。バブルの最中で、ゴルフの会員権を買うのか、ロードレーサーを手に入れるかでまよい、自転車をとったのだ。当時安いゴルフ場の会員権は50万から80万していた。会員権を買えば儲かったかもしれないが(損をしたかもしれない)、ゴルフはやめてしまったから正解である。

フレームはトーエイのスタンダード・ロードである。オーダーではなく、シートパイプのサイズと色の指定だけができたもので、サイズは520mだ。シートポストとステムのつきだしを長くしたいので、小さ目のサイズにした。色は華やかなブルーをたのんだのだが、窓口のショップのオヤジさんのミスで落ち着いた青になった。1988年8月号のニューサイクリングの広告をみてみると価格は76500円だ。このころは消費税はない。東叡社の住所も当時は埼玉県である。念のために書くとフレームはクロモリ鋼をつかった鉄フレームである。この当時にカーボンのフレームはない。アルミはあったが非常に高価だった。クロモリのフレームが趣味やレース用の自転車につかわれるのが一般的な時代だったのである。

当時社会人だったが、株などに資金をまわしていて、一気に組み上げることはできなかった。部品は順次かいそろえてゆき、組みあがるまでに半年はかかったと記憶する。

まずはフレーム。つぎにハンドルとステムを手にいれた。ハンドルはチネリのジロ・デ・イタリア。ステムもチネリでレコードである。ステムは前述のようにつきだし量を考慮して、サイズは80mmほどだったとおもう。ハンドルとステムはこれと決めていた。

つづいてホイールを買った。フレームだけでは押し引きができずに不便だからである。リムは当時の人気の品、スーパーチャンピオンのアルカンシェール。スポークはステンレスの段つき。タイヤは当時のレーサーの必需品、チューブラー・タイヤである。

そしてハブはケチった。カンパなどにしたいところだが、金の重さがわかるサラリーマンになっていた私は、目立たないハブはサンツアーの廉価品にしたのだ。この組み合わせにするとショップで依頼すると、若いアルバイトは、こんな部品をつかうの? フレームがもったいないよ、と言ったが、オヤジさんは、それでいいんだよ、と世間知らず君をさとしてくれた。

つぎに手に入れたのは自転車の顔といわれるチェーンホイールだ。当時自転車趣味の部品としてはカンパニョロが絶大な人気があった。カンパのコンポーネントでフルセットにする、オール・カンパということばがあったほどだ。しかし私はレースでつかうのではなく、サイクリングに使用するから、より凝った部品構成にしたくてストロングライト49Dをえらんだ。50×40である。アウターとインナーのバランスをみてこの歯数にした。このときはリヤのフリーホイールをワイド・レシオにするつもりだったのだが、そうすることはできなくなってしまい、いまとなっては48×38にしておけばよかったとかんじている。

フロント・ディレイラーはカンパ・レコードである。変速機はカンパにしたかった。レバーもカンパ・レコードだ。

フリー・ホイールはサンツアー・ウィナーである。当初は14から24までの6段としたが、リヤの変速機にカンパ・ラリーを組み合わせると、キャパシティーがオーバーして、フロント・ディレイラーがうまく変速してくれなかった。前後の変速機のキャパシティーをしらべてえらんだのにである。そこでフリー・ホイールを13から21までのレーサー仕様にかえ、リヤ・ディレイラーもカンパ・ラリーからカンパ・レコードに変更した。14から24のフリー・ホイールとカンパ・ラリーは、オヤジさんが買った値段でひきとってくれたのでたすかった。

シート・ポストはシマノ・デュラエース。カンパにしたかったがショップに在庫がなかった。オヤジさんがだしてくれた品のなかからこれをえらんだのだ。
サドルはユニカにしたかった。ロードのサドルはユニカのバックスキンといつの間にか頭にすりこまれていたのだ。オヤジさんは、あなたの頭の中は10年前のままになっている、といったが、倉庫のなかをさがして、ひとつだけのこっていたユニカのサドルをみつけてくれた。デッドストックだ。ユニカなのだが製品名はわからない。プリントされた文字が当時から判読できなかったからである。このロードは私の10代から20代前半までのあこがれを形にした。したがって当時としても時代おくれの部品で組んだのである。

ブレーキはカンパ・レコード。カンパニュロの50周年を記念するモデルのようだ。

ブレーキ・レバーもカンパ・レコードでブレーキとセットだ。これもユニカのように、長いこと店頭に展示されていたパーツだった。何年も買い手がつかなかったのだ。これがほしいとオヤジさんにいうと、あなたこれを買うの! とおどろいて、そしてよろこんでくれた。レバーのパッドは生ゴム色のものがついていたが、劣化してしまい、白いものにかえている。元のカラーにしたかったが、手にはいったのは白色だけだったのだ。

ペダルはランドナーとレオタード・プラットフォームを共用していたが、後になってヤフオクでみつけた三ヶ島のユニーク・ロードにした。三ヶ島の軽合のトゥクリップに皮のストラップだ。

40年前の1980年代はランドナーの全盛期だった。自転車が100台あつまれば95台がランドナーだった時代だ。MTBはまだ存在していない。そして金のない学生は1台しか自転車を手に入れられなくて、2台目のロード・レーサーがほしいが、買えるのはこごく一部の人間か社会人だったのである。

当時自転車雑誌はサイクルスポーツとニューサイクリングの2誌があった。そのなかでもニューサイクリングの発信力と影響力は絶大だった。ニューサイクリングに書かれていることはすべてただしいとされたのである。そのニューサイクリングの影響を私もうけていて、ロードレーサーのアッセンブリーに反映されている。ランドナーもだ。

1979年5月のニューサイクリング臨時増刊号。スペシャルメイドサイクル総覧のトーエイの広告である。当時ニューサイクリングは趣味性のたかいロードレーサーをクルスルートとよんでいた。それにならった広告だ。レーサーをクルスルートとしている。

フランスのルネルセというフルオーダー・メーカーの自転車がもてはやされていた。そこの女主人の愛車はクルスルートと紹介されている。女性は元全仏チャンピオンで、現役当時にのっていたがこのレーサーだ。

当時コレクター兼マニアとしてよくニューサイクリングに登場されていた、大阪の花田尊文氏のクルスルート。ストロングライトにレオタード・プラットフォーム。
オールカンパや国産のデュラエース、シュパーブなどのレース用部品でかためた勝つためののレーサーではなく、趣味性のかたい部品で装飾したのがクルスルートだろうか。私もロードレーサーではなく、クルスルートをイメージしてこの自転車をくんだのだ。
食い入るように一気に拝読、私の地元に島田自転車という老舗がありまして本当によく通いました。
マエダ工業(サンツアー)を下に見る者もいますが、私の中ではシマノより上です。
朗報さんのロードと同年代の国産吊るしミキストフレームに、TA,マエダ、三連勝という節度のない組み合わせ車、現在も大事にしています。
世田谷のやや大きい古いつくりの自転車屋にもよく行きました。
ランドナー系の部品です。
かなり昔なので場所も店名も思い出せませんが、当時のおじさん・おばさんの年齢から考えるとおそらく現在は後継者がいないと存続は難しそうです。
ヨコハマサイクリングセンターシマダは、ご主人がヨーロッパにタケノコ・ディレイラーのデッド・ストックを買い付けに行かれた時期があり、それを見にいったことがあります。
シクロ・ツーリストはトーエイのオーダー・フレームとの抱き合わせで、単独で売ってくれるのはサンプレックスのタケノコ・リヤ・ディレイラーの30000円でした(買いませんでした)。
サンツアーは当時サイクロンが人気がありましたよね。三連勝(シクローネ)は千葉県の柏にあって、たずねたことがありました。こちらも大人気でした。思い出しました。
古いのは長谷川さんではないでしょうか?
それから私の通っていたショップのオヤジさんも亡くなっており、お店も閉じてしまっています。残念です。