KISSYのひとりごと

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NHKスペシャル「終戦~なぜ早く決められなかったのか」

2012-08-17 19:31:34 | 教養・ドキュメンタリー

 NHKが調査してきた未公開の史料や、これまでに収集した膨大な証言をもとに、終戦はなぜ引き延ばされてきたのかを問う終戦記念番組(15日放送)。番組では、新たな史料にもふれ、これまでの常識を覆します。

 これまで、当時の日本は、米国との和平交渉をすすめるため、中立条約を結んでいたソ連を仲介役にしようとしていたことが知られています。ところがソ連は、ヤルタ会談の密約にもとづいて対日参戦、日本は交渉のチャンネルを失ったとされてきました。同時に、政府や軍の中枢には、「最後の一撃」を加えなければ和平交渉は難しいという判断があったとされてきました。

 しかし番組は、日本の戦争指導部がソ連の参戦を知っていたばかりか、本土決戦はおろか「最後の一撃」を加える兵力さえ残っていないことを知っていたという事実をつきつけます。「本土決戦」を叫びながら、一方で、早い段階から戦争の継続は不可能だと考えていたというのです。それなら、なぜ終戦の決断ができなかったのか・・・番組は歴史の闇に迫ります。

 ロンドンのイギリス国立公文書館には、これまで知られていなかった事実をさぐる史料が収蔵されています。戦時中、ヨーロッパ各国に駐在していた日本の武官が本国にあてた暗号電文を英軍が解読した史料です。そこには当時、日本が「知らなかった」とされるソ連の対日参戦を知らせる第一級の情報が記されています。

「ヤルタ会談でソ連は 対日参戦を約束した」(昭和20年5月24日付、スイス・ベルン海軍武官電)
「7月以降 ソ連侵攻の可能性は極めて高い」(同6月8日付、ポルトガル・リスボン陸軍武官電)
「7月末までに 日本の降伏がなければ 密約どおり ソ連は参戦する」(同6月11日、ベルン海軍武官電)
「ソ連の参戦は あと数週間の問題」(同7月2日、リスボン陸軍武官電)

 ヤルタ密約を日本政府が知っていれば、事態は大きく変わっていたと言われています。ところが、今回の発見で、日本政府がヤルタ密約を知っていた、ソ連参戦を事前に知っていたことが明らかになりました。防衛省防衛研究所の調査官も「8月9日のソ連参戦で初めて皆がびっくりしたというのが定説だった」「再考証が必要になってくる事態だ」と語ります。

 一方で、当時の将官や高級将校、外務大臣や外務官僚の証言や日誌から、早い時期から政府と軍部が終戦工作の必要性を論じていたことが、明らかになります。事態は、米軍の沖縄上陸、日本本土への空襲、ドイツの降伏により、大きく動いたといいます。鈴木首相・東郷外相・阿南陸相・梅津陸軍参謀総長・米内海相・及川海軍軍令部長=後に豊田軍令部長に交代=の6人で構成された「トップ会談」(昭和20年5月11日)でも、終戦しか道はないとの共通認識が語られます。そこで出されたのが「一撃後 講和」でした。米軍に「一撃」を与えた後、ソ連を仲介して米国と講和を結ぼうというものです。外務省は、ソ連に対して、満州からの撤兵はもちろん日清戦争以前の状態にもどすような譲歩が必要だと考えていたようです。

 このソ連を利用するという考え方は、終戦までトップ6人の間で続いたと言います。しかし先にもふれたように、5月24日のベルン武官電以後、ソ連参戦の情報が次々と送られていました。それなのになぜ? 番組は当時の国家システムのあり方に疑問を投げかけます。

 軍部はソ連密約を知りながら、それを外務省に伝えずに和平交渉を行なわせようとしていたのではないかというのです。事実、東郷外相や外務官僚の手記や証言は、「ヤルタ密約は知らなかった」というものばかりです。防衛省の調査官は、軍部が外務省にソ連参戦情報を隠したのは、対米「一撃」のシナリオを維持するためだったではないかといいます。「最初につくった作戦の目的にあわない情報は基本的には無視される」というのです。一方で、外務省は、自分たちが得ている情報より重要な情報を軍部が知るはずがないと考えていました。国家の存亡がかかった最後の最後まで「情報の共有化」が行なわれずに、「タテ割」の弊害があったのです。

 そんなとき海軍はひとつの重要な情報を入手します。米国と接触していた在スイス武官からの暗号電です。米国大統領との直接の交渉パイプができそうだと知らせる報告は、「アメリカにとって無条件降伏は厳密なものではない。いまなら戦争の早期終結のため交渉に応じるだろう」というものでした。最新の研究では、米国内にはソ連の拡大への警戒感から、ソ連が介入する前に日本に「天皇制維持」を伝えるべきだという考えがあったそうです。戦後の歴史を見れば、象徴天皇制になったとはいえ、天皇は戦争犯罪を訴追されなかったのですから、早期和平の可能性があったとみるべきでしょう。日本にとっては国体護持をしながら戦争を終結できる千載一遇のチャンスだったといえます。しかし海軍はこれを謀略の可能性ありと黙殺。対応をゆだねられた外務省も「正規の外交ルートではない」と黙殺しました。せっかく共有された情報も、生かされることがなかったのです。

 「徹底抗戦」を主張し続けてきたとされる陸軍も重要な情報を天皇に奏上します。当時、「精鋭」といわれた関東軍、支那派遣軍を視察した梅津参謀総長の奏上です。梅津は言います。「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」。陸軍のトップが天皇に対して直接行なった「一撃後 講和 は不可能」という報告です。

 そして6月22日、天皇自ら召集した御前会議が開かれます。きわめて異例の会議だといいます。しかし、この会議の中心を占めたのは、ソ連への仲介を求めるという意見でした。そして陸軍の実態を天皇に上奏した梅津からも陸軍の実態は語られませんでした。日本は終戦を決断するおそらく最後の機会であったであろうこの会議でも、終戦を決断することが出来ませんでした。

 この会議の3日後、沖縄における組織的抵抗が終わりを告げます。そして8月6日、9日の原爆投下。さらにはソ連参戦では多くの開拓民の命が失われ、シベリア抑留や中国残留孤児の悲劇が生まれます。戦争で亡くなった日本人は、およそ310万人。そのうち60万人を超える人たちが終戦直前の3ヶ月に亡くなったといいます。もし6月22日の御前会議で終戦が決断されていたら、失われなくてよかった多くの命が助かったのではないか・・・。

 戦争を終わらせたくても終わらせることができなかった日本。降伏以外に道がないところまで追いつめられ、ようやく終戦を迎えます。しかし6人の戦争指導者が終戦を決断することはありませんでした。「まさに天佑だ」(木戸内大臣)、「結果的に見れば不幸中の幸いではなかったか」(外務官僚)・・・当時を振り返る証言に怒りを覚えました。

 番組は語ります。だれも責任をとろうとしなかった。そこに問題があると。そして、現在の日本の政治にも無責任構造が引き継がれているのではないかと問題を投げかけます。戦争から学ぶものは再び戦争の惨禍を繰り返してはならないことは当然ですが、政治のあり方自体も学ぶ必要があると考えさせられた番組でした。

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