KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

東京大空襲

2016-03-10 11:07:43 | 今日は どんな日

 明日、「東日本大震災」から5回目の3月11日を迎えます。被災された方はもちろん、多くの日本人にとって、おそらく生涯を通じて忘れることのできない日のひとつでしょう。

 そして、その一日前の今日、3月10日も、忘れることができない日のひとつだと思います。1945年3月10日は、約330機のB-29が東京の下町を襲った日です。戦後、半世紀以上を経た今日でも、犠牲者の数は判明していないそうです。

 戦略的には首都・東京の軍需工場を爆撃するという意図があったようですが、米軍としては、むしろ低高度での大規模夜間爆撃という戦術面での実験的な「作戦」という意味合いが強かったようです。低高度からの爆撃のため爆撃の精度はあがり、米軍にとっては「戦果」、日本にとっては「被害」が拡大したとも言われています。広島と長崎への原爆攻撃もしかりですが、米軍にとっての当時の日本は、すでに「次なる戦争」のための実験場にすぎなかったのではないかと考えさせられてしまいます。もちろん早期講和をしていれば、このような悲劇は起こらなかったことを考えれば、当時の日本政府や軍部にも非があったとも思うのですが・・・。

 この東京大空襲は、映画やドラマでも繰り返して描かれています。私の記憶に残っているのは3つの作品です。「ガラスのウサギ」(1979年)、「戦争と青春」(1991年)、「東京大空襲」(2008年)の3本です。どの作品も、空襲そのものを伝えているのはもちろん、登場人物がどういう人生を送ってきたのか、その人生が業火のなかでどのように消されてしまったのかを描写しているという点で甲乙つけがたいのですが、徴兵忌避を描くほか戦争そのものへの問いかけを行っている「戦争と青春」が私のお勧めです。

■NTV制作の「東京大空襲」(2008)のレビューは→こちら

 

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山手線あれこれ

2016-03-08 20:12:12 | 今日は どんな日

 検証していたので一日遅れとなってしまいましたが、昨日、3月7日は、国鉄が「山手線」の呼称を「やまのてせん」に統一した日です。そもそも「山手線」は、戦前から「やまのてせん」と呼ばれていたようですが、戦後、GHQが路線名にローマ字標記を併用したときに「YAMATE-LINE」としたために「やまてせん」という呼称が定着したとのこと。それをローマ字標記もふくめ「YAMANOTE」に統一したのが1971年の3月7日です。

 1966年生まれの私の記憶は「やまのてせん」です。「やまてせん」と呼んでいた記憶はないのですが、子どもの頃にテレビで流れていた家電店のCMは「やまてせん」だったことを思い出しました。「♪丸い緑の山手線(やまてせん)・・・」というCMです。もっとも東京圏の方しか見たことはないと思うのですが。

 こういう雑学が好きな「同好の士」は少なくないようで、某動画サイトで新旧CMの聞き比べをすることができました。1985年2月発売のカメラが登場するCMは「やまてせん」ですが、1991年発売の家庭用ゲーム機が出てくるCMは「やまのてせん」に変わっていました。家電店のほうは「本家」の国鉄より改称のタイミングがだいぶ遅れているのですね。

 それでも山手線がウグイス色一色ではなくなったということを反映してなのか、現在は「♪丸い緑の山手線・・・」ではなく、「♪丸いみんなの山手線・・・」に変えているようです(動画は→こちら)。このあたりは広告会社に拍手です^^

 さて、この山手線。都心をぐるっと囲むように運行している環状線です。以前、三鷹市でお世話になったJRの職員さんにお伺いしたところ、一日に10何周もする編成もあるとのことでした。もちろん、乗務員さんは途中で交代するらしいのですが、車両そのものは過酷な勤務を強いられているようです。こちらも「同好の士」がいらっしゃって(笑)、どの編成が何周するのかを事細かに調べていらっしゃるという方もいらっしゃいます(・・・これを検証していたのですが、実証できないのでリンクははらないでおきますね)。

 JR東日本のHPや駅の時刻表をみると、「池」「大」「品」と標記されている列車があるのですが、これは、それぞれ「池袋行」「大崎行」「品川行」を示しています。たとえば駅の時刻表で「池」と表示されていれば、池袋が「終点」ということです。つまり池袋に到着しれば、「もう一周」はしないということですね。これをもとに時刻表を精査すれば、どの編成が何周するかはわかるのですが、いかんせん編成の数が多すぎる!!! さすがの私もそこまで調べる気にはなりませんでした。もっとも「実際に乗車して検証してみよう」という旅心はくすぐられているのですが・・・。こんど帰省したときにやってみよう^^

 ところで、山手線は一周およそ1時間。ある瞬間にいったい何本の山手線が走っているのでしょう。「それを考えると夜も眠れなくなっちゃいますね」(春日三球・照代調でw)。


マーラー「交響曲第1番」初演の日

2013-11-20 21:17:24 | 今日は どんな日

 今日11月20日は、ハンガリー国立歌劇場において、マーラーの交響曲第1番が初演された日です(1889年、指揮:マーラー、演奏:ブダペスト・フィルハーモニー交響楽団)。偶然、今日がその日と知り、その曲を聴きながら、これを書いています。

 手元にあるCDは、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィル演奏の録音(1966年4月10日、ニューヨーク・フィルハーモニック・ホール)です。CBSソニーの「BEST CLASSICS 100」というシリーズの中の1本なので、学生時代に購入したものだと思います。

 手元には1番のほか、4番、5番、8番の4枚のCDがありますが、一番好きなのが、この1番です。

 しかし残念ながら、現在ではマーラーの初演のスコアでの演奏を聴くことはできません。「ブダペスト稿」と呼ばれるこのスコアは、失われてしまっているからです。現在、一般的に聴くことが出来るのは、1896年3月にベルリンで演奏した「第3稿」後に修正を加えたスコアによる演奏だそうです。

 マーラーはオーストリア生まれですが、交響曲第1番を初演した当時は、オーストリア=ハンガリー帝国になっています。1848年のフランス革命の影響はオーストリアにも及びました。対外的にはオーストリアと同じくドイツ連邦を形成していたプロイセンとの戦争に敗北し、ドイツ連邦は事実上解体。このような時代に青年期を過ごしたマーラーが、交響曲第1番にどのような思いを託していたのか・・・初演から7年以上もかけてスコアを修正し続けた青年マーラーの思いに心を寄せて聴いてみるのも面白いかもしれません。

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11月1日にまつわる いくつかの話

2012-11-01 22:23:55 | 今日は どんな日

 出勤途中のラジオで、今日、11月1日が「すしの日」だということを知りました。全国すし商環境衛生協同組合連合会が、新米の季節であることと、寿司ネタの海や山の幸がおいしい時期ということから「すしの日」にしたとのこと。

 調べてみると11月1日は、「○○の日」が多いですねぇ。「本格焼酎の日」「泡盛の日」と、お酒の日がダブっているのは偶然だろうか? 犬の鳴き声が「ワンワンワン」で「犬の日」でもある。1月11日でもよいように思えるのですが・・・。

 何かが行なわれた、制定された日だと、計量法が施行されたことに由来する「計量記念日」、日本初の様式灯台である観音崎灯台の起工を記念した「灯台記念日」、源氏物語がはじめて記録されたこととされる日にちなむ「古典の日」、石川倉次の点字案が採用された「点字の日」などなど・・・。

 さらに調べてみると、日本の国と11月1日の意外な関係が明らかになりました。

 1934年11月1日は、南満州鉄道の特急あじあ号が運行を開始。その24年後の1958年11月1日には、国鉄初の電車特急こだまが運転を開始しています。山手線が完全な環状線になったのも11月1日(1925年)。「車は左、人は右」の対面通行になったのも11月1日(1949年)。

 逓信省、鉄道省、商工省、企画院が廃止され、運輸通信省、軍需省、農商務省が設置されたのも11月1日(1943年)。気象庁がアメダスの運用開始したのも(1974年)、食管法が廃止されたのも(1995年)、みんな11月1日。

 身近な例だと、現在発行されているE1万円券(福沢諭吉)、E5000円券(樋口一葉)、E1000円券(野口英世)が発行されたのが2004年11月1日。その前のD1万円券(福沢諭吉)、D5000円券(新渡戸稲造)、D1000円券(夏目漱石)が発行されたのが1984年11月1日。岩倉具視のC500円券は1969年11月1日、伊藤博文のC1000円券は1963年11月1日発行。戦後に発行された紙幣は全部で19種類。そのうちの8種類が11月1日に発行されています。2000年7月19日発行のD2000円券をのぞけば、伊藤博文の「千円札」以後に発行された紙幣は、すべて11月1日発行。何か理由があってのことなのでしょうか?

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出陣学徒壮行早慶戦

2012-10-16 18:42:39 | 今日は どんな日

 戦争のために高校野球大会が中止されたことは、以前に書きました(→こちら)。この時期、野球は「敵性スポーツ」だとして、高校野球(中等学校野球)だけでなく、都市対抗野球、大学野球も弾圧の対象となりました。

 東京六大学リーグでいうと、1942年の秋のリーグ戦を最後にリーグ戦が中止に追い込まれたほか、翌年4月には、文部省から連盟自体の「解散命令」が出されました。もちろん「解散」させられたわけですから、公式戦をおこなうことはできません。そればかりか、戦局悪化による戦死者の増加にともない、徴兵を猶予されていた大学生の徴兵延期措置が撤廃され(東条内閣、同年10月2日公布)、選手たちは戦地に送られることになります。

 このような時代背景の中で、出陣学徒壮行早慶戦(以下「早慶戦」)が行なわれました。「戦地へ赴く前にもう一度、試合を。できれば早稲田と試合がしたい」という慶大の阪井盛一主将の希望で、まず慶大側が「早慶戦」実現のために動き出します。ところが早大当局は、これに反対。試合当日まで野球部と大学側では激しいやりとりがされたといいます。

 最終的には学生たちの熱意が勝ち、「早慶戦」が早大戸塚球場で行なわれたのが、1943年の今日、10月16日。明治神宮外苑競技場で行なわれた出陣学徒壮行会のわずか5日前のことでした。

 私は、この「早慶戦」を1979年公開の映画、「英霊たちの応援歌~最後の早慶戦」で知りました。映画は「早慶戦」にいたる過程だけでなく、戦地へ赴いた選手たちのその後、そして戦後、ふたたびリーグ戦を再開しようと決意する早大マネージャー(慶大だったかな?。勝野洋が演じていました)を描いています。

 映画では「早慶戦」で早大の「最後」のマウンドを踏んだ三上(中村秀和)に特攻命令が下され、彼とバッテリーを組んだ捕手・秋山(永島敏行)も三上の最期を見届けた後、彼の後を追います。

 秋山は直掩隊で特攻する必要はなかったのですが、このあたりが、いかにも映画らしい脚色ですね。現実には「早慶戦」の早大バッテリーは無事復学、捕手の伴勇資さんはプロ入りしています。しかし早大のメンバー3人が還らぬ人となりました(慶大のメンバーで戦死された方はいないそうです)。

 この「早慶戦」は、2008年にも「ラストゲーム 最期の早慶戦」として映画化されています。

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北の国から

2012-10-09 23:30:37 | 今日は どんな日

 今から31年前の今日、10月9日は、「北の国から」(脚本・倉本聰)の第1話が放送された日です。この連続ドラマの放送後、8本のスペシャルドラマが制作され、純や蛍の成長物語として描かれていくことになります。

 「純」を演じた吉岡秀隆さんは、「男はつらいよ」で寅さんの甥っ子の満男役をはじめ、多くのドラマや映画に出演されているのですが、私にとっては「純」のイメージが強すぎて、他の作品でも、どうしても「純」と重ねて演技を見ていたような気がします。

 さて、「北の国から」の影響で、富良野を訪れる観光客が増えたそうです。NHKの大河ドラマで「風林火山」が放送された年は、川中島の古戦場にも毎日のように観光バスがひしめいていたっけ。日本人て、意外にミーハーな人が多いような気がする^^ 話を「北の国から」にもどして、第1話で五郎、純、蛍が降り立った布部駅前には、倉本聰の筆による「北の国から ここに始まる」と書かれた碑が建てられているそうです。一度、訪れてみたい土地ではありますが、いかんせん遠い(泣)

 「北の国から」といえば、主役の黒板一家だけでなく、脇を固めていた役者も個性の強い方が多かったように感じます。五郎の同級生の中畑和夫役の地井武男さんは今年6月に、純たちの兄的存在だった草太(岩城滉一)の父・清吉を演じた大滝秀治さんもつい先日、お亡くなりになりました。大滝さんが演じた北村清吉はドラマの中でもすでに亡くなっていますが、オリジナル・メンバーでの続編が見られない(倉本さんは続編をつくるつもりはないようですが)のは、ファンとしては残念でなりません。

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横浜ベイスターズ 38年ぶりのリーグ優勝

2012-10-08 22:22:18 | 今日は どんな日

 1998年10月8日、横浜ベイスターズが、前身である大洋ホエールズの優勝から38年ぶりにリーグ優勝を果たした日です。あれからすでに14年・・・最近では優勝どころか、どっしりと「定位置」に座っています(泣)

 さて、この試合。ローズのタイムリーで先制。その後、斉藤隆が3点を失いリードを許したものの8回には2死満塁から進藤のタイムリーで逆転。そして最後は大魔神・佐々木が新庄を三振にしとめて優勝決定。午後8時56分08秒のことでした。

 記念すべき球場は阪神甲子園球場。この年、同じ甲子園球場では、松坂を擁する横浜高校が春夏連覇を果たしていますから、「横浜」は同じ年に甲子園で3回も優勝しているんですね(て、こじつけ)。

38年ぶりの優勝を記念して発売されたCD
下は日本一を記念して発売されたCD

 この年は、投手陣と打撃陣がうまくかみ合ったシーズンとなりました。「守護神」佐々木は46セーブ(防御率0.64)、野村、斉藤、三浦の三本柱は79勝のうち半分ちかい38勝をあげています。今では考えられない^^;

 「マシンガン打線」の異名がついた打線は、本塁打こそ100本でリーグ3位だったものの、チーム打率.277、642得点二塁打235本、三塁打23本はいずれもリーグ1位。首位打者となった鈴木尚典をはじめ、ローズ(5位)、石井琢朗(6位)と打撃ベストテンに3人が入り、石井は盗塁王も獲得。

 その石井選手(広島)も今シーズンで引退。今日、行なわれた横浜-広島戦に先立って、古巣の横浜スタジアムでは、石井選手の引退セレモニーが行なわれました(→こちら)。

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その時歴史が動いた~満州事変 関東軍独走す

2012-09-18 22:52:33 | 今日は どんな日

 「その時歴史が動いた」は、NHKが2000年3月29日から2009年3月18日まで、毎週水曜日に放送していたドキュメンタリー番組。大小を問わず「歴史が動いた」瞬間にスポットをあて、その瞬間にいたるまでの人物や社会の動きを追った番組でした。

 番組は、最後に「その時」を紹介して終わるのですが、司会の松平定知アナウンサーの「そして、みなさん。いよいよ今日のその時がやってまいります」の一言は、今でも忘れられません。

 さて、今から81年前の今日、9月18日にも「その時」がありました。関東軍が「でっち上げた」とされる柳条湖事件です。この事件をきっかけに、日本軍は中国東北部への影響力を強めていきます。翌1932年には傀儡政権の満州国が成立。多くの開拓民、開拓義勇兵が満州へ送られ、ソ連の参戦により多くの方々が犠牲となりました。

 この満州事変は、「その時歴史が動いた」でも、「満州事変 関東軍独走す」のタイトルで、2001年11月21日に放送されています。この番組は好きな番組のひとつだったのですが、その内容に記憶がありません。あらためて視聴しようと思ったのですが、「NHKオンデマンド」でも配信されていませんでした。

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広島慰霊の日(1946年~)/「東洋の魔女」の連勝止まる(1966年)

2012-08-06 19:11:50 | 今日は どんな日

 7月31日の日記に書いた(→こちら)「父からの誕生日プレゼント」のなかには、私が生まれた日の新聞と翌日の朝刊も納められていました。なぜ翌日の朝刊があるのか・・・。そこが両親のすばらしいところです。私が生まれた日に起こった出来事が報道されたのは翌日の朝刊だからです。おかげで、自分の生まれた日がどのような日だったかを知ることができました。

 私の誕生日は、今日、8月6日。広島慰霊の日です。毎年、誕生日の夕刊にはヒロシマの原爆死没者追悼式のもようが報じられます。46年前の夕刊のトップ記事も同様でした。浜井信三・広島市長の「平和宣言」には、「ベトナム、中近東その他世界各所において大いなる危険を冒しつつ」と、被爆から21年しか経っていないのに、再び人類が過ちを犯すことへの懸念も表明されています。

 この新聞の2面には、「アメリカ第4師団の一部 クイニョン上陸」「米軍機 ハイフォン付近を爆撃」などの見出しが躍ります。ときは米軍による北爆が本格化し韓国が派兵を決定した翌年。ベトナム戦争が泥沼化していく・・・そういう時代でした。

 
21回目の広島慰霊の日(1966年8月6日)の夕刊

 さて、7日の朝刊はというと、女子バレーチームの日紡貝塚(以下、ニチボー)の連勝が258でストップしたことが1面で大きく報じられています。こちらも歴史的な日ですね。

 ニチボーの敗戦を大きく報じる1966年8月7日付け朝日新聞1面

 記事によるとニチボーは、昭和34年11月16日の全日本選手権で明治生命に勝って以来、連勝を重ねてきたとのこと。7年近くも無敗だったのですね。大金星をあげたのはヤシカ、セットカウント3-2での勝利でした。スポーツ面をみると、第1セット2-15(ヤシカ-ニチボー、以下同)、第2セット15-12、第3セット15-10、第4セット6-15、第5セット15-10と、白熱した試合だったようです。

 同じくスポーツ面には「ニチボー258連勝のあゆみ」が掲載されています(以下、年度は昭和、数字は国内連勝・国外連勝の順)。34年3・9、35年8・9、36年11・22、37年16・4、38年19・31、39年14・38、40年36・21、41年26とあります。36年のヨーロッパ遠征で22連勝したニチボーは「東洋の魔女」とよばれました。当時、まだ(!)62連勝中ですから、名付け親の先見の明もすごいですが、そこから200ちかくも連勝を伸ばしたニチボーには驚くばかりです。もっとも女性に対して「魔女」の異名は失礼なのかもしれませんが・・・。

 さて、世界バレー代表選考会でニチボーを破ったヤシカの選手を中心としたチームは、翌年の世界バレーで金メダルをとることになります。

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一九二八年三月十五日

2012-03-16 19:42:06 | 今日は どんな日

 本当は、昨日書きたかった日記です。一日遅れで投稿します。 

 表題は、1928年3月15日にはじまる天皇制権力による弾圧事件と、特高警察による執拗な拷問を描いた小林多喜二の作品です。雑誌『戦旗』に掲載されたものの、後に発売禁止となってしまいます。

 現在は再版され全文を読むことができますが、発表当時は検閲のため、ところどころが伏字になっています。

 青空文庫版の「一九二八年三月十五日」では、冒頭、わずか数行目の「××は臺所から――これは動かせない公式だからなあ。小川さん、甘い、甘い。」(ちなみに「××」は「革命」)にはじまり、全部で155ヶ所。なかには、警察へ連行される途中で「赤旗の歌」が歌われる場面で「民衆の旗 ×旗は・・・・・・」と、「赤」の字だけを伏せているというところもあります。

 さて、途中の重要なシーンも伏字が多いのですが、小説の最後の部分は以下のように伏字だらけです。

   ××××××××××
   ××× ××!

   ××××××××せよ
   ×××××××。

   一九二八、三、一五!
   田中反動内閣×××!

   ××× ××
   勞働農民黨 萬歳
   萬國の勞働者 團結せよ

   ××××を覺えてろ。
   ××××を忘れるな
   勞働者と農民××××××!
   ××××× ××!

・・・となっています。残念ながら手元に「一九二八年三月十五日」がないので、正確なところはわからないのですが、以前、読んだときの記憶を思い起こすと、「××××を覺えてろ。××××を忘れるな」のくだりは、「三月十五日を覚えてろ。三月十五日を忘れるな」だったような気がします(「××××」で4文字なので「三・一五」だったかも)。

 「一九二八、三、一五!」「田中反動内閣」「勞働農民黨 萬歳」「萬國の勞働者 團結せよ」が伏字でないのに、どうして「三月十五日を覚えてろ。三月十五日を忘れるな。」が伏字になったのか・・・。その経緯は歴史学者や文学史、思想史の先生に譲るとして、私は、「三月十五日を忘れるな」と書いた多喜二の気持ちこそ忘れてはならないと感じるのです。

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