KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

プロジェクトX 「日本初のマイカー てんとう虫 町を行く~家族たちの自動車革命~」

2016-03-17 02:34:08 | 教養・ドキュメンタリー

 昨日に続きNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」のレビューです。

 今日紹介するのは2001年5月8日放送の「日本初のマイカー てんとう虫 町を行く~家族たちの自動車革命~」です。日本国民にとって手の届かない存在だったクルマを、「庶民の足」にするために奮闘した技術者の物語です。

 クルマは今日ではもっとも身近な移動手段のひとつですが、戦後の日本では庶民にとっては高嶺の花。当時、米国メーカーの高価なクルマが市場を席巻していたようです。その価格は「一戸建ての家より高かった」といいます。戦後初の国産自動車「クラウン」(トヨタ自動車)でも、サラリーマンの年収の5倍だったというから、いかに「高嶺の花」だったのかがわかります。

 そんなクルマを庶民の手に届く存在にした技術者たちを描いたのがこの番組です。「小型で軽く、しかも4人乗り」の大衆車をつくる」・・・当時としては不可能ともいえる高いハードルでした。立ち上がったプロジェクト・チームが目標としたのは

 ・「価格はクラウンの3分の1」

 ・「悪路を時速60kmで走る」

 ・「どんな坂道でも登れる」

 ・・・の3点だったといいます。

 この課題をクリアしてしまった技術者の執念には頭が下がるのですが、番組を見る限り「安全」という概念がどこにも見られなかったのが残念です。番組では、設計の段階から、「軽量化」についてはさまざまな試行錯誤が行なわれたことは紹介しれますが、乗員の安全性については、「厚さ0.6mmの鋼板の強度をいかに強くするか」というエピソードだけ。1980年代まで「安全」を度外視していた米自動車産業界は別にして、ヨーロッパでは当時でも安全性を高めるための研究と同時に実用も進んでいました。スバル360にそれらの知識がどのように体現されたのか、もしくはそれらは無視したのかが描かれていなかったのが残念でした。

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プロジェクトX 「富士山レーダー」

2016-03-16 02:05:42 | 教養・ドキュメンタリー

 「プロジェクトX」は、NHKが2000年3月28日から2005年12月28日まで放送していたドキュメンタリー番組。動画配信サイトの「Gyao!」が新しいサービスを開始するということで、期間限定で「プロジェクトX」のなかから数本を無料配信しています。

 「富士山レーダー」はその中の一本。「プロジェクトX」としては記念すべき第一回放送なのですが、「Gyao!」で配信されているのは、「特選 プロジェクトX〜挑戦者たち〜」として後年、放送されたもの。「膳場貴子アナ推し」の私としては、こっちのほうで良かったかなと^^ いや~膳場アナ若いですねぇ~。

 この「富士山レーダー」の回は、富士山頂に気象レーダーを建設する男たちが描かれています。いまではテレビの天気予報では気象衛星からの画像が取り上げられるのが当たり前ですが、私が子どもの頃は、まだ「富士山レーダー」の画像でした。毎日のように見る天気予報なのですが、いつから「富士山レーダー」から気象衛星に変わったのだろう・・・。

 番組によると平成11年11月に運用を停止したとのこと。以外と最近まで使われていたのですね。実際に使用されていたのは35年間だそうです(番組より)。

 で、この番組の良いところは、この「富士山レーダー」の回ももちろんなのですが、携わった「人」に焦点を当てていることです。今回も実際に「富士山レーダー」の建設に携わった方が番組に登場されています。もちろん亡くなった方はご遺族の「証言」という形で登場することが多いのですが、今回は、番組のなかでも何度も当時の写真で登場していながら、現在のご本人だけでなくご遺族のインタビューすら流されない方がいらっしゃいました。当時の気象計測器課長をつとめた藤原寛人氏です。番組を見ながら「どこかで、見たことがある」と思っていたのですが、作家の新田次郎でした。番組終盤までこういう「ネタ」を隠すやり方は、個人的に大好きですねぇ^^ 

 新田次郎は、この「富士山レーダー」が完成した2年後に気象庁を退職し、作家になったとのこと。新田次郎と言うと、日露戦争を前にして陸軍が行なった雪中行軍訓練を描いた「八甲田山」が思い出されます。私は映画化された作品しかみていませんが、人物に焦点をあてた作品という点では「プロジェクトX」に通ずるところがあるなと感じさせられる作品です。

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過去から学ぶべきものは何か~ETV特集「摩文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊」

2013-09-02 00:19:21 | 教養・ドキュメンタリー

 昨日から泊りがけで出張。宿泊先で「摩文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊」を見ました(NHK、8月31日日放送)。

 沖縄本島南部の摩文仁の丘。いまから68年前の6月23日、沖縄を守る第32軍司令官の牛島中将は、この地で参謀とともに自決、米軍はこの丘に星条旗を立てました。そして沖縄における日本軍の組織的抵抗は終わりを告げることになります。沖縄戦でもっとも多くの犠牲者を出したのが、この摩文仁だと言われています。

 その摩文仁で、さまざまな慰霊が行なわれています。沖縄県民はもちろん、戦友会、各県の遺族会、さらには自衛隊、そして米軍まで。日米両軍の将兵として沖縄で戦死された方、武器も持たず戦闘の巻き添えになった多くの民間人・・・ひととつの命の重さに違いはありませんが、それぞれの慰霊のあり方の違いをあらためて感じさせてくれた番組でした。

 摩文仁の地に沖縄戦の犠牲者を供養する碑がはじめて建立されたのは1946年のことです。摩文仁で戦争の犠牲者の遺骨を収集し、供養したのがはじまりだといいます。遺骨収集をはじめたのは地元の人たち。「遺骨収集は反米感情をあおる」という米軍の反対をおしきっての遺骨収集でした。その数3万5000体。故人の遺骨が遺族のもとに帰ることがほとんどなかった沖縄にとっては、このとき建立された「魂魄の塔」は、「お墓にも似た場所」だといいます。 

 しかし沖縄の日本本土復帰で摩文仁の慰霊は大きく様変わりをします。旧日本軍の戦友会、各県の遺族会による「慰霊塔」が摩文仁に建てられたといいます。その数、40超。カメラが追う慰霊碑には「大義に殉じた」「英霊」の文字が並びます。いまでは沖縄戦だけではなく、アジア・太平洋全域で「戦死」した方々の慰霊の地となっているそうです。

 私は、あの戦争で戦死された多くの方々は、天皇制政府の犠牲者だと思っていたので、同じく慰霊するべきではないか? と思っていましたが、沖縄では複雑な思いがあるようでした。

 番組では「日本兵がガマに入ってきたためにガマを追い出された」「米軍とたたかっているのは自分たち(日本兵)だ」という証言が流されます。沖縄戦を通じて、「軍は自分たちを守ってくれない」という気持ちが沖縄の人たちの心に刻まれていったようです。

 さて、その軍のトップだった牛島満中将の慰霊塔を参拝する人たちがいます。沖縄に駐屯する自衛隊の幹部たちです。隊員は「個人的に参拝しています」といいますが、頭からつま先まで制服姿。彼らの背中に「私的参拝なら制服はやめてください」という県民の声がかかります。国会議員による靖国神社参拝が、国際問題になる(「内政問題だ」と言った自民党幹部もいますが)一方で、沖縄では制服組による牛島中将の慰霊塔参拝への抗議が行なわれていることをはじめて知りました。

 沖縄に駐留している在日米軍もまた「沖縄慰霊の日」に慰霊を行なっています。元沖縄県知事の大田昌秀さんは、「軍人、民間人、国籍を問わず沖縄で犠牲になった」方々を慰霊する目的で平和の礎の建立をよびかけました。そこには沖縄戦で亡くなった米軍将兵の名前も刻まれています。在沖米軍は、6月23日、この平和の礎にたいして慰霊を行ないます。

 ところが、その一方で在沖米海兵隊が行なっている「教育」に、沖縄県民の慰霊とは正反対の姿を見せつけられました。

 米海兵隊は沖縄に配属された新兵に、沖縄戦の激戦地を見学させる「教育」を行なっているといいます。「過去から学ぶ」ためだそうです。そこで学ぶのは、日本軍の抗戦がいかに激しかったか、多くの犠牲を払いながら米軍が日本軍を圧倒したという「事実」です。

 「沖縄戦から何を学ぶか」・・・日本人の私は、「他国への侵略はもちろん、『友軍』が国民を犠牲にするような戦闘を繰り返してはならない」と考えるのですが、若い海兵隊員たちは違うようです。ある海兵隊員は「過去の戦争から学ぶことはとても大切です」「歴史から教訓を得て同じ失敗を繰り返さないためです」といいます。「経験と知識を受け継いでいくのが海兵隊の伝統なのです」と。彼らが学ぶのは、多くの民間人を犠牲にしたことではなく、海兵隊がいかに犠牲を少なく目的を達成するか・・・にあるようです。

 安倍政権は、その米軍とともに世界的規模で自衛隊が活動できるようにしようと、これまでの政府見解を変えて集団的自衛権の行使を容認しようとしています。沖縄で失われた多くの命が、それを望んでいないのではないか・・・と改めさせて考えさせられる番組でした。

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THE NEXT MEGAQUAKE(巨大地震)

2013-04-02 21:26:36 | 教養・ドキュメンタリー

 「THE NEXT MEGAQUAKE」(巨大地震)とは、NHKスペシャルの特集のタイトル。これまでにシリーズ2回、計7番組が放送され、4月7日には第3シリーズがはじまります。今日4月2日は、かつて「NHK特集」として放送されていたドキュメンタリー番組が「NHKスペシャル」に改変され放送を開始した日です。

 さて「NHKスペシャル」は、NHKオンデマンドで視聴することができるので、「MEGAQUAKE」の第1回放送分を購入しました。サブタイトルは「巨大地震をつかめ 人類の果てしなき闘い」です。これまでは不可能とされてきた巨大地震の予知に挑む地震研究者(クエイクハンター)の闘いに密着します。

 この番組が放送されたのは2010年1月10日、東日本大震災の1年前です。そういうこともあり、番組の焦点は南海トラフが引き起こすと予測されている東海・東南海・南海の3つの地震の予知へのとりくみとシミュレーションにありました。もちろん番組では南海トラフだけでなく、「いつどこで巨大地震が起こってもおかしくない」という研究者の声も紹介されています。

 私が興味を引かれたのは、番組の前半に紹介される東北大学のとりくみです。阪神・淡路大震災の教訓から「短期的な予知は無理でも長期的な予測ができないか」との思いで調査をすすめる研究者の姿がそこにありました。そして、この研究者は1999年に「2001年11月までに釜石沖でM4.8の地震が発生する」という論文を発表、当時はこの大胆な予測が大きな議論をよんだといいます。

 そして、論文発表から2年後の2001年11月13日。釜石沖を震源とするM4.8の地震が発生。予測は現実となりました。なぜ、ほぼ正確な予測ができたのか。

 東北大学が行なったのは、過去40年間に東北地方で記録された8000を超える地震波の徹底的な調査でした。すると、1985年、1990年、1995年に発生したM4を超える地震の波形が、揺れの始まり方、大きな揺れの形、揺れの長さがほぼ一致。この3つの波形を計算すると、その全てが岩手県釜石市沖のプレート境界半径1kmの範囲で起こっていたことがわかりました。

 広大なプレートの境界のなかでも、プレートが滑りやすい場所と滑りにくい(ひずみがたまりやすい)場所(アスペリティ)があるそうです。アスペリティではプレートが強く固着し徐々にひずみがたまり、限界に達するとプレートがはがれ地震が起きるというのです。そのひとつが釜石市の沖にあったのです。

 研究者は「単純に経験則から 過去3回地震があったから もう1回起こりますよ という話じゃなくて そこにはそういう性質の場所がある」(NHKの字幕より)といいます。そして三陸沖には釜石沖だけでなく1300を超えるアスペリティがあることもわかりました。番組ではそのアスペリティの場所をCGで再現。東北沖のプレート境界の形が分かるほどに密集しています。

 今にして思えば、5年周期であれば2001年の次は2006年。2006年は番組では紹介されませんでしたが、気象庁の公式サイトによると4月22日に宮城県沖を震源とするM4.6の地震が発生しています。釜石沖のアスペリティではないのかもしれませんが、その直近でM4以上の地震が発生していたのです。そして2011年3月11日、三陸沖でM9.0の地震が発生したことは誰もが知っていることでしょう。

 この「MEGAQUAKE」を知ったのは、4月7日にはじまる第3シリーズを前にして再放送された第2シリーズの第3回「大変動期 最悪のシナリオに備えろ」を見たのがきっかけでした(3月28日。本放送は2012年6月9日)。番組は3.11の大地震によって、これまでのモデルでは想定できない地震が日本のどこでも起こりうると警鐘をならしています。日ごろからの備えと同時に、災害に強いまちづくりが求められていると実感します。

 ちなみに、今日4月2日はソロモン諸島でM8.0の大地震が起こった日でもあります。

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NHKスペシャル「終戦~なぜ早く決められなかったのか」

2012-08-17 19:31:34 | 教養・ドキュメンタリー

 NHKが調査してきた未公開の史料や、これまでに収集した膨大な証言をもとに、終戦はなぜ引き延ばされてきたのかを問う終戦記念番組(15日放送)。番組では、新たな史料にもふれ、これまでの常識を覆します。

 これまで、当時の日本は、米国との和平交渉をすすめるため、中立条約を結んでいたソ連を仲介役にしようとしていたことが知られています。ところがソ連は、ヤルタ会談の密約にもとづいて対日参戦、日本は交渉のチャンネルを失ったとされてきました。同時に、政府や軍の中枢には、「最後の一撃」を加えなければ和平交渉は難しいという判断があったとされてきました。

 しかし番組は、日本の戦争指導部がソ連の参戦を知っていたばかりか、本土決戦はおろか「最後の一撃」を加える兵力さえ残っていないことを知っていたという事実をつきつけます。「本土決戦」を叫びながら、一方で、早い段階から戦争の継続は不可能だと考えていたというのです。それなら、なぜ終戦の決断ができなかったのか・・・番組は歴史の闇に迫ります。

 ロンドンのイギリス国立公文書館には、これまで知られていなかった事実をさぐる史料が収蔵されています。戦時中、ヨーロッパ各国に駐在していた日本の武官が本国にあてた暗号電文を英軍が解読した史料です。そこには当時、日本が「知らなかった」とされるソ連の対日参戦を知らせる第一級の情報が記されています。

「ヤルタ会談でソ連は 対日参戦を約束した」(昭和20年5月24日付、スイス・ベルン海軍武官電)
「7月以降 ソ連侵攻の可能性は極めて高い」(同6月8日付、ポルトガル・リスボン陸軍武官電)
「7月末までに 日本の降伏がなければ 密約どおり ソ連は参戦する」(同6月11日、ベルン海軍武官電)
「ソ連の参戦は あと数週間の問題」(同7月2日、リスボン陸軍武官電)

 ヤルタ密約を日本政府が知っていれば、事態は大きく変わっていたと言われています。ところが、今回の発見で、日本政府がヤルタ密約を知っていた、ソ連参戦を事前に知っていたことが明らかになりました。防衛省防衛研究所の調査官も「8月9日のソ連参戦で初めて皆がびっくりしたというのが定説だった」「再考証が必要になってくる事態だ」と語ります。

 一方で、当時の将官や高級将校、外務大臣や外務官僚の証言や日誌から、早い時期から政府と軍部が終戦工作の必要性を論じていたことが、明らかになります。事態は、米軍の沖縄上陸、日本本土への空襲、ドイツの降伏により、大きく動いたといいます。鈴木首相・東郷外相・阿南陸相・梅津陸軍参謀総長・米内海相・及川海軍軍令部長=後に豊田軍令部長に交代=の6人で構成された「トップ会談」(昭和20年5月11日)でも、終戦しか道はないとの共通認識が語られます。そこで出されたのが「一撃後 講和」でした。米軍に「一撃」を与えた後、ソ連を仲介して米国と講和を結ぼうというものです。外務省は、ソ連に対して、満州からの撤兵はもちろん日清戦争以前の状態にもどすような譲歩が必要だと考えていたようです。

 このソ連を利用するという考え方は、終戦までトップ6人の間で続いたと言います。しかし先にもふれたように、5月24日のベルン武官電以後、ソ連参戦の情報が次々と送られていました。それなのになぜ? 番組は当時の国家システムのあり方に疑問を投げかけます。

 軍部はソ連密約を知りながら、それを外務省に伝えずに和平交渉を行なわせようとしていたのではないかというのです。事実、東郷外相や外務官僚の手記や証言は、「ヤルタ密約は知らなかった」というものばかりです。防衛省の調査官は、軍部が外務省にソ連参戦情報を隠したのは、対米「一撃」のシナリオを維持するためだったではないかといいます。「最初につくった作戦の目的にあわない情報は基本的には無視される」というのです。一方で、外務省は、自分たちが得ている情報より重要な情報を軍部が知るはずがないと考えていました。国家の存亡がかかった最後の最後まで「情報の共有化」が行なわれずに、「タテ割」の弊害があったのです。

 そんなとき海軍はひとつの重要な情報を入手します。米国と接触していた在スイス武官からの暗号電です。米国大統領との直接の交渉パイプができそうだと知らせる報告は、「アメリカにとって無条件降伏は厳密なものではない。いまなら戦争の早期終結のため交渉に応じるだろう」というものでした。最新の研究では、米国内にはソ連の拡大への警戒感から、ソ連が介入する前に日本に「天皇制維持」を伝えるべきだという考えがあったそうです。戦後の歴史を見れば、象徴天皇制になったとはいえ、天皇は戦争犯罪を訴追されなかったのですから、早期和平の可能性があったとみるべきでしょう。日本にとっては国体護持をしながら戦争を終結できる千載一遇のチャンスだったといえます。しかし海軍はこれを謀略の可能性ありと黙殺。対応をゆだねられた外務省も「正規の外交ルートではない」と黙殺しました。せっかく共有された情報も、生かされることがなかったのです。

 「徹底抗戦」を主張し続けてきたとされる陸軍も重要な情報を天皇に奏上します。当時、「精鋭」といわれた関東軍、支那派遣軍を視察した梅津参謀総長の奏上です。梅津は言います。「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」。陸軍のトップが天皇に対して直接行なった「一撃後 講和 は不可能」という報告です。

 そして6月22日、天皇自ら召集した御前会議が開かれます。きわめて異例の会議だといいます。しかし、この会議の中心を占めたのは、ソ連への仲介を求めるという意見でした。そして陸軍の実態を天皇に上奏した梅津からも陸軍の実態は語られませんでした。日本は終戦を決断するおそらく最後の機会であったであろうこの会議でも、終戦を決断することが出来ませんでした。

 この会議の3日後、沖縄における組織的抵抗が終わりを告げます。そして8月6日、9日の原爆投下。さらにはソ連参戦では多くの開拓民の命が失われ、シベリア抑留や中国残留孤児の悲劇が生まれます。戦争で亡くなった日本人は、およそ310万人。そのうち60万人を超える人たちが終戦直前の3ヶ月に亡くなったといいます。もし6月22日の御前会議で終戦が決断されていたら、失われなくてよかった多くの命が助かったのではないか・・・。

 戦争を終わらせたくても終わらせることができなかった日本。降伏以外に道がないところまで追いつめられ、ようやく終戦を迎えます。しかし6人の戦争指導者が終戦を決断することはありませんでした。「まさに天佑だ」(木戸内大臣)、「結果的に見れば不幸中の幸いではなかったか」(外務官僚)・・・当時を振り返る証言に怒りを覚えました。

 番組は語ります。だれも責任をとろうとしなかった。そこに問題があると。そして、現在の日本の政治にも無責任構造が引き継がれているのではないかと問題を投げかけます。戦争から学ぶものは再び戦争の惨禍を繰り返してはならないことは当然ですが、政治のあり方自体も学ぶ必要があると考えさせられた番組でした。

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NHKスペシャル「黒い雨~活かされなかった被爆調査」

2012-08-08 00:23:47 | 教養・ドキュメンタリー

 広島と長崎で被爆直後に降った「黒い雨」。これまで「黒い雨」がどの地域にどれだけ降ったのか、どれだけの放射線被害があったのかは明らかにされてきませんでした。番組は昨年12月に放射線影響研究所(放影研=国所管の機関)が公表した1万2000人を超える「雨にあった」という証言データをもとに、これまで考えられていた範囲を超えて「黒い雨」の被害があったことと同時に日米両政府の対応をを告発します。

 公開されたデータは、広島と長崎のどこで「黒い雨」にあったのかを示す分布図です。このデータは戦後、被爆の影響を調べる大規模な調査によって集められたといいます。どうして、このデータが活かされなかったのか・・・番組は問いかけます。

 このデータが世に出るきっかけになったのは長崎市内の医師が発見したひとつの報告書でした。広島と長崎で被曝者の調査をしてきた米国の研究機関ABCC(原爆障害調査委員会)の内部向けの報告書です。そこには広島と長崎で「黒い雨」を浴びた人に被曝特有の症状が表れていたことが記されていました。

 医師は、ABCCの調査を引き継いだ放影研にデータの開示を求めますが「個人情報だから」と断られたとのこと。医師の働きかけによって放影研は分布図だけを公開。放影研はこれまで公開しなかったのは「データの重要度が低いからだ」としています。

 その根拠は、爆心地を中心として同心円状に発がんなどのリスクが軽減されるという誤った見方でした。爆心地から2km以内の初期放射線量が100mSvだったことから、それより外側には影響がみられない、「無視してよい程度の放射線量」だというのが放影研の見方だったのです。公開された分布図では、半径2kmの外側にも「黒い雨」を浴びた人がいたことが分かっています。ABCCの調査で「黒い雨」を浴びたとされている人でさえ、「黒い雨」の影響ではないとされてきたことも明らかになりました。

 ABCCはなぜ、被曝の影響があると知りながらそのままにしてきたのか・・・。当時、米国の原子力委員会(現エネルギー省)は、核兵器の開発と同時に核の平和利用を同時にすすめていたといいます。1953年には国連総会でアイゼンハワー大統領が核の平和利用を表明、その一方で核実験を繰り返していました。米国内では被曝の不安が高まり、ABCCは被曝の安全基準をつくることになります。当時のことを知る研究者は言います。「被ばく者のデータは絶対的な被ばくの安全基準を作るものだと最初から決まっていました。残留放射線について詳しく調査するなんてなんの役にも立ちません」。「黒い雨」など残留放射線を調べるつもりは最初からなかったということです。

 さらに原子力委員会は、調査をする研究者に対して「広島、長崎の被害について誤解を招く恐れのある根拠の希薄な報告を押さえ込まなければならない」と圧力をかけます。押さえ込もうとした「根拠の希薄な報告」とは、まさに残留放射線の人体に与える影響の報告でした。事実、原子力委員会は、ABCCが報告した「残留放射線が人体に与える影響は、実際の調査よりも深刻だったのではないか」という調査結果を政治的思惑から黙殺することになります。

 原子力委員会の元研究者は言います。「放射線被害について人々が主張すればするほど それを根拠に原子力について反対する人が増えてきます。少なくとも混乱は生じ 核はこれまで言われてきた以上に危険だという考えが広がります。原子力はアメリカにとって重要であり、原子力開発にとって妨げとなるものは何であれ問題だったのです」

 人命よりも核開発が重要視された米国、そしてその米国に追随する日本政府によって、原爆被害の実相が歪められてきました。日本政府は原爆症の認定制度をはじめますが、認定の対象となるのは初期放射線量が100mSvを超える爆心地から2km以内で被曝した人に限られます。「黒い雨」など残留放射線で被曝した人はほとんど対象とされてきませんでした。

 番組の最後に、被爆地・広島の研究者たちのとりくみが紹介されています。被曝者ががんで死亡するリスクの研究です。初期放射線の量は距離とともに少なくなるので、死亡のリスクは爆心地から同心円状に減っていくはずです(これは放影研の誤った見方でもあります)。ところが調査結果は、爆心地から北西方向へはリスクが下がらず、いいびつな形になりました。初期放射線だけでは説明ができないリスクだといいます。これこそ「黒い雨」の影響ではないかというのです。

 このことは、すでに数年前から推測されていたことでした。番組では紹介されませんでしたが、1945年12月には広島管区気象台が「降雨エリアは爆心地から北西方向に延びる長さ29キロ、幅15キロの卵形の範囲。うち長さ19キロ、幅11キロの卵形の範囲で1時間以上の激しい雨が降った」という報告をしています。今回、明らかになったデータは、そのことを裏付けるものとなったといえると思います。

 しかし放影研は、「黒い雨」が降ったとしても、被曝線量が具体的にどれだけだったのかという資料が必要がなければ議論できないという姿勢を変えていません。この番組が放送された8月6日、野田首相は広島「市などが求めていた援護対象区域拡大について『科学的合理的根拠がなければ難しい』と述べ、拡大は困難との見解を表明した。厚生労働省の検討会は今年7月に『新たな降雨地域の認定は困難』との報告をまとめており、小宮山洋子厚労相も同日、これに沿った考えを示した」(「毎日」jp)といいます。

 いま、日本では広島・長崎とともに福島の放射線被害が深刻な問題となっています。さらに原発の再稼動による不安も高まっています。こういうときだからこそ、正確な情報を国民に開示することと、どんな小さな可能性でも政府の責任で調査し補償することが求められると思います。

 最後に、2年前の「中国新聞」が「黒い雨」について連載を組んでいますので、ご紹介します。

   「黒い雨」解明に挑む 最新調査研究 成果と課題 2010/7/5

   被爆65年「黒い雨」に迫る<1> 線引き 2010/7/5

   被爆65年「黒い雨」に迫る<2> 一人の挑戦 2010/7/6

   被爆65年「黒い雨」に迫る<3> 新たな証拠 2010/7/7

   被爆65年「黒い雨」に迫る<4> 科学と行政 2010/7/8

   被爆65年「黒い雨」に迫る<5> 住民再び 2010/7/8

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NHKスペシャル「知られざる大英博物館」(3)日本 巨大古墳の謎

2012-07-09 23:00:40 | 教養・ドキュメンタリー

 これまでの常識をくつがえす新たな発見を、大英博物館の収蔵品を通して描く3回シリーズの最終回は、日本の古墳です(7月8日放送)。

 過去2回(エジプト、ギリシャ)と比べ身近なテーマだったので、どんな常識がくつがえされるのかと期待をもって視聴しました。巨大古墳は天皇の陵墓とも言われています。もしかして、天皇の墓ではないという根拠が明らかになったのか・・・。

 もちろん、そんなことはありませんでした。明治以降、天皇や皇族の陵墓とされた古墳は宮内省(現在は宮内庁)によって立ち入りが禁止されました。平成のいまでもそれは変わりません。宮内庁が立ち入りを禁止していない古墳もあります。しかしこれらの古墳のほとんどは盗掘され、棺が納められた当時の石室内部の様子を知ることはきわめて困難だそうです。それなのに、どのような新発見があったのか。それを大英博物館の収蔵品から探っていきます。

 話は明治時代に遡ります。イギリス人で金属加工の技師であり考古学の研究者であったウィリアム・ガウランドは、16年間で400以上の古墳の調査にあたったといいます。そこで入手したおよそ1000点の遺物をイギリスに持ち帰り大英博物館に納めたそうです(ガウランド・コレクション)。日本に残されていれば朽ち果てていたかもしれない貴重な品々が、彼の手によって、そして大英博物館によって、現在にその姿をとどめることになったのです。

 昨年2月、日本とイギリスの合同調査団が結成され、5年がかりのガウランド・コレクションの調査が始まりました。ガウランドは古墳から発掘した品々だけでなく、数多くの写真、そして古墳を測量した図面を残していました。明治政府が立ち入り禁止にする以前に撮影され、測量された貴重な史料です。大英博物館のティモシークラーク氏は、ガウランド・コレクションの調査は「古墳時代に新たな発見をもたらすでしょう」と語ります。

 実際にガウランド・コレクションにより、現在には残っていない古墳の内部がわかってきたといいます。東大阪市の新興住宅地の一角に「芝山古墳跡」の表示板が立っています。大阪平野を見渡す高台にあるこの住宅地の下はもともと古墳だったのです。ガウランドがこの古墳を調査したときの図面がいまも大英博物館に残されています。石室の寸法だけでなく、発掘した遺物がどこに置かれていたのかまでが記録された詳細な図面です。

 合同調査団は、この図面をもとに原寸大の石室を再現しました。木製の棺はガウランドの調査当時、すでに朽ち果てていたそうですが、発掘された歯の位置から棺の位置を特定できるとは驚きでした。石室の復元の結果、従来は副葬品と考えられていた高杯形の器台が、単なる副葬品ではなく死者に対するお祀りの道具として使われたことも明らかになりました。

 日本で巨大古墳が作られた時期は、これまでの研究からも明らかになっています。卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)にはじまる巨大古墳の歴史は、6世紀前半につくられた丸山古墳(奈良県橿原市)で終焉をむかえると考えられています。

 丸山古墳は現在、宮内庁によって内部への立ち入りが禁止されています。しかしガウランドは、立ち入り禁止になる以前にこの古墳を調査していました。丸山古墳の測量図と調査記録も大英博物館に保管されていました。彼がみたものは、これまでの調査ではみたこともない巨大な石でつくられた巨大な石室でした。彼の導き出した結論は・・・これも記録に残っています。

the tomb of an enperor

  「天皇の墓」だという結論です。ガウランドの調査の15年後、明治政府は丸山古墳が天皇や皇族の陵墓の可能性があるとして、宮内省の管理下におきました。もちろん、現在も立ち入り禁止です。

 そしてこの古墳には、従来の常識をくつがえす「謎」も秘められていました。棺が納められた墓室の位置が墳丘の中心から大きくずれていたのです。これまでは前方後円墳の場合、円墳の中心に墓室があるのが常識だとされてきました。これが日本の古墳の伝統だとされていたのです。ところが丸山古墳の墓室は円墳の中心から大きくずれていた・・・これはなぜなのか。ガウランドの測量ミスなのか・・・。

 この謎を解くきっかけとなる事件が1991年(平成3年)に起こります。雨で土砂が崩れて石室への入口が姿を現したのです。石室内部は専門家だけでなくマスコミにも公開され、宮内庁も丸山古墳の詳細な測量を初めて行なったといいます。そして合同調査団の測量の結果、ガウランドが測量したとおり墓室が墳丘の中心から大きくずれていたことが明らかになります。古墳時代の最後を飾った巨大古墳は、日本の従来の伝統から大きくかけ離れたものだったのです。

 そこから日本で独自の進化を遂げた巨大古墳の実像がよみとれるそうです。古墳時代末期の副葬品には中国や朝鮮から伝来したものを日本風にアレンジした特徴がみられるといいます。この「日本化」は古墳そのものにもあらわれました。当初は小さな石を積み上げていた古墳が、次第に巨大な石を積み上げるように変化しているのです。この背景には日本人の「巨石信仰」があったのではないかと言われています。それが丸山遺跡にも影響を与えたようです。

 しかし石室に用いる石が巨大になればなるほど墳丘の中心に墓室をつくるのが難しくなるという矛盾が生じます。巨大墳丘の古墳をつくるのか、巨大石室の墓をつくるのか・・・墓のあり方をめぐって宮廷内でも大きな議論があったのではないかと調査団は推測します。

 蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳(奈良県明日香村)は、私も数年前に訪れたことがありますが、そこには大きな墳丘はなく巨大な横穴式の石室が残るばかりでした。統一国家をつくる過程で、国のあり方と同時に墓のあり方も変化し新しい段階に入ったのです。

 「大陸の文化を柔軟に受け入れ日本独自の文化を生み出した古墳時代。失うものと新しく得るもの。その繰り返しで歴史は形づくられていく」(番組のナレーションより)

 これは古代の歴史だけに限ったことではないのではないか。現代社会にも通じるものではないか・・・と感じさせられる番組でした。

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NHKスペシャル「知られざる大英博物館」(2)古代ギリシャ“白い”文明の真実

2012-07-03 19:22:26 | 教養・ドキュメンタリー

 これまでの常識をくつがえす新たな発見を、大英博物館の収蔵品を通して描く3回シリーズの2回目。舞台は古代ギリシャです(7月1日放送)。

 古代ギリシャといえば、パルテノン神殿に代表される巨大神殿や、ミロのヴィーナスなどの彫像が有名です。どちらも材質は大理石、色は「白」。ギリシャ文明が「白い文明」と言われる所以です。ところが、大英博物館の収蔵品の調査の結果、それがくつがえされました。大理石の彫像から色の痕跡が発見されたのです。

 強力なライトを当て、特殊なカメラで撮影すると、青い色を感知するという大英博物館が開発した最新技術で「トロイヘッド」とよばれる彫像の目映し出してみると・・・なんと瞳の部分に反応が。いまは真っ白な彫像に青い色が使われていたことが明らかになりました。

 現在、パルテノン神殿の隣にあるエレクティオン神殿でも同様の調査が行なわれています。こちらも天井の部分に青い色が使われていました。

 ドイツのリービッヒハウス博物館のヴィンツェンツ・ブリンクマン博士は、青だけでなく他の色の研究も行なっているそうです。色には独自の波長があります。この波長と彫像の波長を比較し、もともとの色彩を再現したのです。最新の調査結果をもとに再現されたCGは、古代エジプトの壁画にみられるような、豊かに彩られた世界でした。

 これには理由があります。古代ギリシャ文明は、古代エジプト文明の影響を大きく受けていたからです。たとえば「トロイヘッド」の瞳に使われていた青い色は、古代エジプトの壁画につかわれているエジプシャン・ブルーとよばれる色とまったく同じだということも明らかになりました。

 エジプトの文明をギリシャに伝えたのは誰か? それはエジプトのファラオに雇われたギリシャの傭兵たちでした。エジプトの巨大建造物や巨大な彫像、色鮮やかな壁画を目の当たりにした兵士たちは、やがて帰国し、自分たちの故郷でエジプトで見聞した文明を伝えたといいます。驚くことに、エジプトのアブシンベル神殿の前に立つラムセス2世の像には、兵士たちの落書きが残されているそうです。観光地に落書きをするのは今も昔も同じだったようです。

 では、なぜギリシャ文明が「白い文明」とよばれるようになったのか。もちろん、長い年月をへて色が消えてしまったということもあるでしょう。しかし、250年前までは、ギリシャ文明が「白い文明」ではなかったことが、常識として伝えられていたそうです。

 ところが、18世紀に発掘されたポンペイ(イタリア)の遺跡が、歴史を歪めるきっかけとなりました。時は産業革命でヨーロッパが台頭しはじめたころ。ヨーロッパの優位性をしめすために、ギリシャの文明は「純粋で高度で白い文明」という価値観がつくられたのです。ドイツでは古代ギリシャ語を必修とする教育改革が行なわれ、現在も続いているとのこと。

 そして19世紀のイギリス。ヴィクトリア女王が純白のウエディング・ドレスを着用したことで、白い色には「純粋でけがれのない理想的な色」という価値観がつくられました。この価値観は現在も変わっていませんね。

 さらに番組は、衝撃的な事実を伝えます。

 白い色に対する価値観は、「ギリシャ彫刻は白でなくてはならない」という価値観をも生み出しました。先にも書きましたが、19世紀にはギリシャ彫刻は、色がうすれ「白く見えた」そうです。もちろん、かつての色をわずかに残していた彫刻もあったとのこと。しかし「ギリシャ彫刻は白くてはならない」という価値観が、大事件を引き起こしたのです。

 歴史的遺物を厳重に保管しなければならない大英博物館には、ギリシャ彫刻を「洗浄した」という記録が残されています。表面の色を落とし、より白く見せるためです。張本人は大英博物館のスポンサー。事件当時は、大スキャンダルになったそうです。

 昨日のエジプト文明の日記にも書きましたが、歴史をつくってきたのは名もない多くの庶民です。それが一部の権力者によって捏造されてしまう・・・。それはギリシャ文明に限ったことではないのではないかと感じさせてくれた番組でした。

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NHKスペシャル「知られざる大英博物館」(1)古代エジプト民が支えた3千年の繁栄

2012-07-02 19:29:09 | 教養・ドキュメンタリー

 これまでの常識をくつがえす新たな発見を、大英博物館の収蔵品を通して描く3回シリーズの1回目。舞台は古代エジプトです(6月24日放送)。

 「古代エジプトは絶対的な力をもつファラオによって3千年の繁栄を成し遂げたとされてきました。一方、古代エジプトの民たちは、ファラオのもとで過酷な暮らしを強いられたと言われてきました」(番組のナレーションより)。

 巨大なピラミッドをはじめとする建造物は、支配者たちが奴隷を使って建造したものではなく、農閑期で仕事がない庶民の暮らしを支えるための公共事業だったという説があることを、以前、テレビ番組で知りました。今回は、それを上回る発見です。

 私は、人間の歴史や文明は、一部の支配者がつくってきたものではなく、庶民たちがつくってきたものだと考えています。しかし、教科書をはじめ、これまで一般的に知られているエジプトの歴史は権力者の歴史です。

 番組では、大英博物館の収蔵庫に眠っていた庶民のミイラや遺跡から、当時の庶民の暮らしぶりを解き明かしていきます。

 スーダンのアマラ西遺跡は、およそ3300年前の庶民の住んだ町の遺跡です。当時からごみ問題に悩まされていたという事実も明らかになりました。窓からごみを投げ捨てていたために、ごみの山が床より高くなれば、家を建て替え床の位置を高くしたという話には驚きです。路地という路地はごみだらけ!!ってことでしょうか。

 遺跡から発掘された遺骨からは、痛風の跡までみつかりました。庶民の食生活を知る大きな手がかりとなるそうです。さらに骨を分析すると、3300年前の人々が穀物だけでなく草食動物の肉を食べていたことが明らかになりました。「ほかの文明と比べても突出して豊かな暮らし」(番組名レーションより)だったそうです。

 私の興味を引いたのは、当時の庶民が残したパピルスです。当時の手紙、教科書、会計簿、さらにはラブレターまで。なかでも円周率を知らなかった古代エジプト人が、円の面積を独自の方法で導き出していた・・・という話には驚きを超えて感動しました。

 たとえば、直径9mの円の面積は、半径×半径×円周率(3.14)ですから・・・
4.5×4.5×3.14=63.585平方メートルです。

 古代エジプト人は、(直径-直径×1/9)二乗という計算方法で円の面積を求めていました。この式にあてはめてみると・・・

(9-9×1/9)二乗=8の二乗=64

ほとんど誤差がありません。エジプト文明がいかに高度であったことかを示すひとつの例だと思います。

 さらに、当時はすでに建設されていなかった巨大ピラミッドをつくるための問題まで記されていました。なぜか? パピルスの最初の部分には「これは200年前のパピルスから書き写したものである」と書かれているそうです。人類の英知を庶民が後世に伝えてきたことが、エジプト文明の繁栄を築いたといえるのではないでしょうか。

 人類史上初のストライキの記録もパピルスに残されています。戦争による穀物不足による給料の遅配(当時はパンや麦が給料だった)に抗議するストライキです。パピルスには政府の出先機関での座り込みの様子や、政府にたいする抗議の声が記されているといいます。

 絶対的権力を誇ったファラオはどうしたか。戦争や混乱による穀物不足という状況のなかでも民の声を優先したそうです。どこかの国の首相に聞かせてあげたいですね。

 歴代のファラオに綿々として語り継がれてきたのは、「庶民の暮らしを守れ」ということでした。パピルスには、こう残されています。

 「良き行いにより お前の下にいる民を栄えさせよ」

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平和の心を伝える紙芝居~伊豆市・佐治麻希さん

2010-08-02 23:47:00 | 教養・ドキュメンタリー

 録画してあった番組を帰宅後に早速視聴しました。民間放送教育協会制作のドキュメンタリー番組、「発見!人間力」(信越放送、2日放送)。今回は、記念すべき100回目でした。

 その第100回目は、「戦争の無い世界へ~紙芝居に込めた祈り~」。静岡県伊豆市の妙蔵寺の僧侶、佐治麻希さん(23)が主役です。

 佐治さんは小学6年生の頃から11年間、紙芝居で平和を訴え続け、原爆の悲惨さを伝える紙芝居の読み語りの上演回数は250回以上になるそうです。

 冒頭、ニューヨークの街角で「禎子ちゃんは生きたい思いを込めて鶴を折り続けたんです」と折鶴を見せ、「禎子ちゃんのことを知っていますか?」と問いかける彼女の姿をテレビカメラが追います。

「禎子ちゃん」とは、広島で2歳のときに被爆し、白血病で12年という短い生涯を終えた佐々木禎子さんのことです。小学校2年生の時に広島を訪れた佐治さんが、自分にも何かできないかと、思い当たったのが紙芝居の読み語りだったそうです。

 佐治さんは、今年の5月に国連本部で行なわれたNPT再検討会議に合わせた平和集会で紙芝居の上演を要請され、渡米したとのこと。佐治さんの紙芝居を見たお年寄りからも、「物語を伝えるだけでなく 心を伝えている」と絶賛されました。

 佐治さんは言います。「禎子さんは決して米軍を憎まなかった。憎しみあいは憎しみしか生まないけれども、許しあいの心からは、新たな希望が生まれる」。本当に、その通りだと思います。

 「ねたみ、自分勝手な気持ち どんどん大きくなって 戦争につながっていると思う。自分自身の心の戦争からなくしていくことで平和は始まっていく」・・・佐治さんの言葉です。

 番組の最後で彼女は、こう語りかけます。「平和を祈る心は国境を越えて たった一つ」。渡米しての実感でしょう。久しぶりに心が洗われる、そんな番組でした。

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