KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

松本にやってきた特攻隊<その4>

2012-09-16 19:27:24 | 戦争遺跡を歩く

 松本空港図書館で開催されていた企画展「記憶から消えた特攻隊と松本飛行場」を見学したのは、これまで書いてきたとおり。

松本にやってきた特攻隊<その1>は→こちら
松本にやってきた特攻隊<その2>は→こちら
松本にやってきた特攻隊<その3>は→こちら

  今日はその「番外編」です。昨日(15日)付の「市民タイムス」に興味深い記事が掲載されていました。見出しには

「旧日本軍ゼロ戦の後継機 貴重な『烈風』設計図発見」とあります。

 先日、企画展を見学した際に、松本空港図書館の川村館長から、松本飛行場に隣接して三菱重工の航空機組み立て工場があり、大戦末期に「烈風」の組み立てや、「秋水」の実験が行なわれいたと伺いました。その設計図が民間人によって保管されていたことに驚かされました。

 記事によると、「松本市内で購入した古本に挟まっていた」とのこと。「その3」で紹介した大本営の通達も、「偶然、別の書類に挟まっていたために現在まで残った」(川村館長)そうです。戦闘機の設計図なら、第一級の機密文書ですから、終戦後、焼却処分にされていたはずです。記事によれば、当事者の三菱重工も「残っていないはずのもの」とコメントしているようです。

 今回発見された設計図は362枚中の1枚ということですが、残りの361枚が見つかる可能性は「ごく少ない」とのこと。この設計図は所有者から松本市に寄贈され、今後は市文書館に保管されるそうです。保存が難しいため現物の「一般公開は難しい」とのことですが、川村館長の話によると「コピーの公開」の可能性はありそうです。

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松本にやってきた特攻隊 <その3>

2012-09-06 18:51:37 | 戦争遺跡を歩く

 先月はじめに松本空港図書館で開催されていた企画展を見学したのは、すでに書いたとおりです(→こちら)。知覧や鹿屋に特攻隊の史料館があるのは知っていましたが、松本市にも記録が残っていたことに驚きました。

 企画展にも写真が展示されていた「秘 総兵甲号分」(川村館長によると大本営からの指令だそうです)と書かれた史料は、昭和20年8月18日付けで松本事務所長から各町村長あてに出されたもの。そこには「機密重要書類焼却ノ件」とあります。

 物資や兵員の移動、国力を判定できる機密書類は、この命令書とともに焼却せよという命令書です。本来なら焼却されていた命令書が偶然残っていたのです(実物は松本市文書館に保管されているとのこと)。陸軍航空隊司令部のあった今井国民学校(現松本市今井小学校)や、航空隊の隊員が寄宿していた広丘国民学校(現塩尻市広丘小学校)の「学校日誌」も焼却されずに残っています。川村修館長からいただいた「郷土史研究―旧陸軍松本飛行場から出撃した特攻隊を検証する」に掲載されている写真(広丘国民学校誌)をみると、「国民学校学徒隊結成式」(昭和20年6月8日)、「進駐軍将校来校 陸軍航空隊より委託されてあった航空機車両を焼却す」(同年11月16日)とあります。昭和21年の「新年祝賀式には天皇皇后の御影を奉掲奉拝せず」の一文とともに「御真影」を地方事務所に「奉遷す」という一文も残されています。写真は掲載されていませんが「高等科以上の学童が飛行場整備のための勤労動員が頻繁に行なわれていた」ことや、「特攻隊が講堂を宿舎とするため、移動教室が行なわれた」「学童の士気を高めるため、特攻兵士との対面式」が行なわれたことなどが記載されているそうです(「 」内は川村修「旧陸軍松本飛行場から出撃した特攻隊を検証する」より引用)。

 終戦から67年を経て、当時の様子を知る方が少なくっているとうえに、とりわけ特攻隊員として終戦を迎えた方は「負い目がある」(川村館長)ため、なかなか証言をしてくれないそうです。さらに個人宛の手紙が残っていることはあっても、命令書をはじめ公式の記録が残っているのは「極めて珍しいこと」と川村館長はいいます。川村館長の掘り起こした史料や証言は絶対に風化させてはならないと、あらためて感じたのでした。

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松本にやってきた特攻隊 <その2>

2012-08-10 22:46:44 | 戦争遺跡を歩く

 先日、松本市に特攻隊員が滞在していたということを日記に書きました(→こちら)。それを読んだ松本市議会議員の池田国昭氏から、鹿児島の知覧特攻平和会館を視察した際に、松本の浅間温泉に滞在していた隊員と疎開していた子どもたちの写真とともに、特攻平和会館に掲げられている隊員の遺影も確認してきたと連絡がありました(氏のブログは→こちら。このページ内の1月21日と24日の日誌に詳しく書かれています)。

 今日は下諏訪町へ行く用事があったので、途中、松本空港図書館で開催されている企画展を見学してきました。事前に館内の撮影はできるかどうか確認の電話を入れたところ、撮影はできないとのことでしたが、松本空港図書館の川村館長がまとめた冊子があるので事務所に声をかけてくださいという大変ご丁寧な返答をいただきました。

 早速、事務所をお訪ねすると、お忙しい中、川村館長直々に企画展を案内してくださいました。おかげで展示だけでは知ることのできない貴重なお話も伺うこともできました。左の写真は川村館長からいただいた「郷土史研究」。副題に「旧陸軍松本飛行場から出撃した特攻隊を検証する―学校日誌にみる戦争と特攻隊員(飛行兵)の手紙から―」とあります。

 さて、先日の日記には「大戦末期に、しかも特攻隊の訓練を松本だけで70機規模で行なったというのは稼動機数や機密保持のうえでもちょっと信じられない」と書きましたが、その謎も明らかになりました。

 当時、陸軍松本飛行場の近くにあった今井国民学校(現・松本市今井小学校)には陸軍第17航空隊の司令部が置かれ、広丘国民学校(現・塩尻市広丘小学校)には陸軍空541部隊と熊谷陸軍飛行学校分教場が置かれていたとのこと。松本市の「神林地区誌」によると、2回に分けて計90人の飛行兵が松本に来たとあります。米軍の空襲にさらされていた東京圏、中京圏から兵力を温存するための「疎開」的な意味もあったようです。それでも集められた機体のほとんどは旧式の飛行機だったといいます。訓練用の複葉機まで「特攻仕様」に改造したそうです。

 記録によると、先日の日記で紹介した「武剋隊」と後述する「武揚隊」の隊員の乗機は99襲撃機だったといいますから、昭和15年に製造が始められた機体です。Wikipediaによると最高速度は高度3000mで時速424km。当時の米海軍のF6F戦闘機の最高速度が高度7100mで時速612kmですから、時代遅れは明らかです。しかも十分な訓練も行なえず、機体の整備も万全だったとはいえなかったそうです。特攻作戦自体が肯定できるものではありませんが、こんな飛行機に乗せられていたなんて・・・。

  さて、川村館長の調査で、「松本にやってきた」もうひとつの特攻隊の存在も明らかになりました。「武剋隊」と同時に満州の新京(現・長春市)で編成された誠第31飛行隊(「武揚隊」)です。「武剋隊」15名と「武揚隊」7名が松本飛行場から出撃し、還らぬ人となりました。そのなかには国民学校高等科を卒業し少年飛行兵となったばかりの16、17歳の子どもまで含まれていました。

 以前、テレビで知覧の特攻隊員の世話をしていた「なでしこ隊」を描いたドラマをみたことがあります(「なでしこ隊~少女達だけが見た特攻隊」2008年9月20日、フジテレビ系で放送)。このドラマにも少年飛行兵が登場します。隊員たちは親や恋人にさえ、自分の任務を告げることができません。そして「なでしこ隊」の少女たちも、特攻隊の世話をしていることを口外することが許されませんでした。いまフジテレビ系で放送されている「ぼくの夏休み」でも、予科練生たちが特攻出撃することを盗み聞きした主人公たちが口止めされるというシーンが出てきます。ですから、これまでは特攻隊は極秘中の極秘だと思っていました。

 ところが川村館長の調査では、浅間温泉に疎開してきた子どもたちは、「武剋隊」の任務を知っていたようです。「武剋隊」の後に特攻出撃した「武揚隊」の隊員が子どもたちに送った手紙にも、「武剋隊」が特攻出撃したこと、自分たちも後から行くことが記されています。川村館長は「御国のために自ら死んでいく人たちがいることを教えることで、彼らの次に行く心構えをさせたのではないか」といいます。これが軍国教育なんだとあらためて感じさせられました。

 さて、川村館長から、ちょうど今日、記念碑の除幕式があったとお聞きし、現地へ行ってみました。松本市が戦争遺跡として建立した碑です。

旧陸軍松本飛行場の誘導路の跡地に立つ碑
(菅野小学校の北西角にあります=下図参照)

青い四角が現在の信州まつもと空港の滑走路
赤い四角が旧松本飛行場の滑走路
(写真左手が北)

記念碑から信州スカイパーク方面をのぞむ
左手が菅野小学校。ちょうどこの道路のあたりに幅30mの誘導路があったそうです。

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松本にやってきた特攻隊 <その1>

2012-08-03 22:55:52 | 戦争遺跡を歩く

 帰宅時の車のラジオから流れてきた「信毎ニュース」で、戦時中、松本に特攻隊がいたことを知りました。松本の陸軍歩兵第50連隊がテニアン島で玉砕したことはしっていましたが、特攻隊は初耳だったので、帰宅して早速「信濃毎日新聞」のWebサイトを拝見。

 以下、記事を引用します。

 松本市内に戦時中あった陸軍松本飛行場から特攻隊の陸軍誠第32飛行隊「武剋(ぶこく)隊」が鹿児島県の知覧飛行場に向けて飛び立ったことが2日、松本市空港図書館(松本市今井)の川村修館長(57)の調べで分かった。川村館長が、当時松本市内に疎開し、特攻隊員と交流があった女性から証言を聞き取り、1年ほどかけて史料やその他の関係者の証言を集めて調査した。

 川村館長が、当時松本市浅間温泉に疎開していた首都圏在住の田中幸子さんから聞き取った。田中さんの証言によると、浅間温泉に集団疎開した東京・世田谷の代沢国民学校の田中さんたちと、18~20歳の特攻隊員6人が交流。「武剋隊」という部隊名や「今野勝郎」「時枝宏」という具体的な隊員名を覚えていたことから、史料を調べたところ、隊員たちが松本飛行場から知覧などを経由し、沖縄周辺で戦死したことが分かった。

 川村館長によると、これまで同飛行場に特攻隊員がいたとの証言は多数あったものの、特攻隊の出撃記録が市内から見つかっておらず、部隊や同飛行場からの経路などは分かっていなかった。敵機に悟られないように飛行機は、同飛行場内の掩体壕(えんたいごう)に格納していたとされる。今も信州スカイパーク内に一つ残っている。

 調査では、他に特攻隊員だった松本市内の男性から、70機ほどの訓練機で急降下の訓練などをしていた特攻隊員が90人いたことなど具体的な証言も得た。

・・・とのこと。

 大戦末期に、しかも特攻隊の訓練を松本だけで70機規模で行なったというのは稼動機数や機密保持のうえでもちょっと信じられないのですが・・・。

 とあるブログによると、武剋隊が満州の新京で編成されたのは昭和20年2月13日(2月10日という記録もある)。5個編隊15機で平壌→大刀洗飛行場→宇佐飛行場→各務原飛行場と移動し、2月20日に松本へ移動。ここで特攻機用の改修が行なわれたようです。武剋隊のうち6人は浅間温泉に滞在。ここで、「信毎」Webが紹介している女子児童と出会うことになります。

 ちなみに当時の松本飛行場は、現在の松本空港の場所ではなく滑走路は菅野小学校の西を南北に走っていたようです。現在も菅野小学校には旧兵舎の礎石が残っているそうです。

 さて、記録によると武剋隊のうち9機が松本を出発したのは3月20日。各務原に向かったようです。さらに別の記録をみると、3月25日に沖縄の中飛行場に到着(26日という記録もある)、整備・給油の後、台湾へ向かう予定が急遽変更され、27日に沖縄沖の米艦船にむけて特攻出撃、残りの6機も4月3日に特攻出撃しています。

 毎年、8月は終戦の月ということもあり、戦争と平和について特別に考えさせられる月でもありますが、今年は、身近にある特攻で亡くなった方たちの足跡を訪ねてみようと思ったのでした。

 企画展「記憶から消えた特攻隊と松本飛行場」は26日まで(午前10時~午後5時、6、13、20、24日は休館)。問い合わせは松本市空港図書館(電話0263・86・8460)へ。

 この記事は以下のブログを参考にさせていただきました。

   「信濃毎日新聞」Webhttp://www.shinmai.co.jp/
   「少年飛行兵と私」http://tokko0403.blog.fc2.com/
   「Web東京荏原都市物語資料館」http://blog.livedoor.jp/rail777/

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被爆地ヒロシマを歩く~番外編

2011-08-27 20:37:37 | 戦争遺跡を歩く

 新聞のコラムに紹介されていたDVDを観ました。タイトルは「ヒロシマの記憶」。サブ・タイトルに「幻の原爆フィルムで歩く広島」とあります。被爆から2ヵ月後、原爆調査の一環として日本映画社が撮影した「幻」のフィルムです。

 「幻」とあるのは、このフィルムとこのときの調査結果がアメリカ軍に接収されたからです。アメリカから返還されたフィルムと証言をもとにハイ・ビジョン映像として再編集されたのが、このDVDです。

 私は今月の6日に、生まれて初めて広島の地を訪れましたが、「このDVDを先に見ていれば・・・」と残念でなりません。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以前の日記で紹介しきれなかった「原爆遺跡」のなかで、このDVDに取り上げられているものをいくつか紹介しましょう。

■相生橋

 日本でも珍しいT字型をした橋。写真奥は「対岸」ではなく右手の橋の中央部から中州へ架かる橋です。B-29が原爆投下の目標にしたと言われています(実際の爆心地は相生橋より東に300mの地点)。

 爆風により南側(写真左手)の欄干は外側に押し広げられ、北側の欄干は倒壊、水面に反射した爆風で橋は1mも持ち上げられたほか、北側歩道部分は70cmも北側へ移動したそうです。 

現在の相生橋。1983年に架け替えられ
被爆の記憶をとどめているものはありません

■元安橋

 爆心地から約130m、市内49ヶ所の橋のうち、もっとも至近距離にあった橋です。多くの橋は原爆や9月の台風で崩壊しましたが、元安橋は、笠石が外側方向にずれ、欄干はすべて川に落下、橋脚にも亀裂が入ったものの崩壊を免れました。

 現在の元安橋は1992年に架け替えられたものですが、橋の名前を刻んだ大理石と両側の柱は被爆当時のものが使われているそうです。

現在の元安橋。熱線による影が今も残されています
(柱左中央から右下に伸びる黒い線)

■相生橋、元安橋と原爆ドーム、爆心地の位置関係

被爆前の広島の町

被爆後の広島の町

※写真上2枚は、8月6日撮影
※写真下2枚は、平和記念資料館に展示されている復元模型

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被爆地ヒロシマを歩く~その4「長野へ」

2011-08-09 18:52:52 | 戦争遺跡を歩く

 広島城をあとにして広島駅へ。ほかの原爆遺跡や厳島神社も訪れたかったのですが、私の「初広島」は、これで幕を閉じます。今回、訪れることができなかったところは、次回のお楽しみにとっておきましょう。

 広島城からは奮発してタクシー。駅前でタクシーを降りると、前に停まっているタクシーから見覚えのある人が降りてきました。参議院議員の井上さとしさんです。お忙しいだろうと思い声はかけませんでしたが、井上議員が広島市のご出身だということを思い出しました(氏のブログで平和記念式典に列席されたこと、母校を訪れたことなどが紹介されています)。

 広島駅でお土産(ありきたりですが「もみじまんじゅう」)を買い、名古屋へ。名古屋から特急「しなの」で長野へ。慌しかった一日もこれで終わりです。

広島発東京行の「のぞみ」

名古屋発長野行の「ワイドビューしなの」

 実は名古屋駅でひと騒動(?)がありました。「しなの」まで時間があったので改札の外に出たのですが、喫煙できる場所が無い!!。駅ビル内の喫茶店は全席禁煙、駅を出ると路上には「禁煙マーク」。しかたなく「しなの」の発車ホームに上るも、喫煙スペースがありません。駅員に尋ねると「全面禁煙です」とのこと。そこで、あらためて一度改札の外に出て「入場券」を購入して新幹線ホームへ。さすがに世界の新幹線ですね~。ここにはしっかりと喫煙スペースが設けられていました。

 さて、この名古屋駅で、長野ではおそらく見ることができないであろうポスターを発見しました。なんか嬉しくなってしまい、ひととおり撮影してきました。

「信州・安曇野」のポスター
隣には「奈良井宿」のポスターがあります

「信州・松本」のポスター

「白馬・花三昧」のポスター

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被爆地ヒロシマを歩く~その3「広島城」

2011-08-08 19:33:47 | 戦争遺跡を歩く

 「8月6日の誕生日に広島に行きたい」・・・という衝動にかられてやってきた広島の街。原爆ドーム、爆心地、平和記念公園、平和記念資料館・・・と、見学をしてきました(その1その2参照)。 

 グラウンド・ゼロ(爆心地)の島病院の周辺を歩いていると目にするのが「大手町」の住居表示。松本でもお馴染みの「大手」の町名は、そこが城下町だったことを示しています。ここ広島は、安芸広島藩42万6000石の城下町。原爆ドームから徒歩10分ほどで広島城へ行くことができると聞き、足を伸ばしました。

原爆ドームと広島城の位置関係です(手前が北。平和記念資料館の模型)
赤い球体は原爆が炸裂した位置と高度をしめしています

 広島城は戦国時代末期に毛利輝元が築城、太田川と京橋川という天然の要害に囲まれた堅城です。毛利輝元、福島正則、浅野長晟と城主を変え、幕末まで浅野氏が城主をつとめました。「忠臣蔵」でおなじみの浅野内匠頭は、この安芸広島・浅野氏の傍系にあたります。

 広島城でいただいたパンフレットをみると、原爆ドームの北側、路面電車が走っている相生通りに沿って外堀があったようです。この堀に大手門があったわけですから、松本城でいえば千歳橋の南側、ちょうど時計博物館のあたりが原爆ドームといえるでしょうか。それを考えると、かなり大きな縄張りです。

ようやくたどりついた広島城の二の丸門
原爆の熱線と爆風で焼失したとのこと
現在の二の丸門は戦後、復元されたものだそうです

二の丸にあるユーカリの木
原爆の熱線と爆風、放射線にも耐えて生き残りました

 さて、この広島城には日清戦争当時、大本営が置かれていました。日清戦争後は大本営のあった建物は記念館として残っていたようですが、原爆の爆風で倒壊。軍事施設だったということもあり、戦後、その姿は復元されることはなかったそうです。現在は「大本営跡」の石柱と、礎石だけが往時の姿をしのばせています。

日清戦争の大本営跡地
ここまで来てようやく天守閣が見えました(写真左後方)

旧大本営の建物(上)と被爆後のようす(下)をしめすガイドさん

 大本営跡をすぎると、ようやく天守閣です。戦前は国宝だった天守閣ですが、原爆の爆風により倒壊、現在は鉄筋コンクリートで復元された天守閣がそびえています。松本城の内部が往時の姿をとどめているのに対し、こちらはエアコン完備。近代的な博物館を見学しているような印象を受けました。

安芸広島藩の中心、広島城天守閣

天守閣最上階から原爆ドームをのぞむ(円内)
原爆ドームの手前は旧広島市民球場

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被爆地ヒロシマを歩く~その2「原爆資料館」

2011-08-07 19:45:16 | 戦争遺跡を歩く

 原爆ドームから平和記念資料館まで歩く。相変わらず日差しは強い。「70年は草木が生えない」と言われた広島の街の木陰を歩いて資料館へ。資料館の渡り廊下の下には、冷水と冷たい「おしぼり」を配布するボランティアがいらっしゃいました。ありがたく、ご好意を受け、記念式典の終わった日差しよけのテントの下でひとやすみ。

 ここで父と、「誕生日おめでとう」のメールをくれた叔母に電話をしました。私にとっての誕生日は、年を重ねたことを祝う日というよりも、両親への感謝の日です。しかし、いつもはふつうに口から出る「この世に生を授けてくれてありがとう」の言葉を出すのを一瞬ためらいました。私が誕生するちょうど21年前に大勢の命が奪われた街にいたせいでしょうか。

平和記念資料館へむかう途中
元安川の対岸から原爆ドームをのぞむ

平和記念資料館から平和記念公園と原爆ドームをのぞむ

 ひとやすみをして、平和記念資料館へ。8月6日という日のせいもあるのでしょうか、大混雑でした。制服姿の中高生が多かったことと、外国人旅行客が多かったのが印象的でした。米国から来られた方もいらっしゃったでしょう。英語が堪能であれば、ご意見やご感想をお伺いしたかったのですが、残念です。

壁一面に展示された被爆後の市街地の写真を動画に収める外国人旅行客
右上から右下へ、さらにそこから上へと「一部分も残すまい」と
文字通り「舐めるように」携帯端末を真剣な表情で操作していました

  私は高校生の頃から、原爆被害の実相について勉強してきたつもりでいました。しかし展示されている「現実」に、ショックを受けると同時に、自分は実際の被害者ではないけれど、この「現実」を後世へ伝えなければならない・・・日本人、いえ一人の人間として、その責任があると感じさせられました。

8時15分で時をとめた時計

 さて、昨年、静岡県伊豆市にある妙蔵寺の僧侶・佐治麻希さんが、小学生の頃から原爆の悲惨さを伝える紙芝居の読み語りをしていることを、あるテレビ番組で知りました(その日の日記)。佐治さんが紙芝居で描いたのは、広島で2歳のときに被爆し、12年という短い生涯を終えた佐々木禎子さんです。禎子さんは、病気が治ると信じて自ら折り鶴を折ったそうです。資料館には、その折り鶴も展示されていました。

禎子さんが折ったという折鶴

平和記念公園にある「原爆の子の像」
禎子さんの死をきっかけに、中学生の手によって建設されました

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被爆地ヒロシマを歩く~その1「被爆地へ」

2011-08-06 22:19:38 | 戦争遺跡を歩く

 今日はヒロシマ被爆66年目の日。8月6日が誕生日の私の人生では45回目のヒロシマ被爆の日となりました。誕生日がヒロシマ被爆の日でありながら、広島市を訪れたことはありません。今年も広島ではなく長野で「被爆の日」を迎えるのだろうなぁ・・・昨日まで、そう考えていました。

 実は、私の職場は毎年、原水爆禁止世界大会へ代表を送っています(今年は長崎大会へ派遣しています)。仕事の都合で、私にその機会は巡ってこなかったのですが、「長崎行き」の準備をしている後輩の姿をみているうちに、「広島に行きたい・・・」との思いが高まってきてしまったのです。

 とはいうものの、仕事を終えて帰宅したのは午後8時。当然、「広島行き」の準備はしていなかったので、「仮想旅行」のつもりでインターネットに接続。すると、22時長野発の夜行バスがあるではありませんか。幸い空席もある。自宅から最寄り駅まで歩いて2分、そこから長野駅までJRで5分・・・「仮想」が「現実」に変わりました。

 ネットでバスを予約、10年前に購入した「ヒロシマ」のガイドブック、それからとりあえず着替えも用意して出発。いつもの気儘なドライブが気儘な旅行になった瞬間です。

運命を変えた大阪行きの夜行バス。南海電鉄のバスでした。
京都までお世話になりました。

は~るばる来たぜ 広島へ~ ♪
京都から新幹線に乗り換えて広島へ。
本当は8時15分、その瞬間に立ち会いたかったのですが
その時間は車中の人でした。

 生まれて初めて降り立った広島の街は、おそらく66年前もそうだっただろう朝から強い日差しです。長野の暑さなんて可愛いもんです。

 さて、新幹線のなかで「予習」したとおり、路面電車で原爆ドームへ。ガイドブックには市内各所の戦争遺跡が紹介されているのですが、綿密な計画もなく飛び出してきたので、今日は原爆ドームと平和記念公園、そして平和記念資料館だけをじっくり見学することにしました。

広島は路面電車の走る街。
被爆当時は男手不足のため女性乗務員も多かったそうです。
(NHK「おひさま」で真知子が郵便配達をしていたようなものでしょうか)

 原爆ドームから平和記念資料館へ向かって歩いていると、中学生の一団につかまりました。「平和新聞」をつくっているとのことで、インタビューを受けたのです。誕生日が8月6日なので一度来てみたかったことなど、いくつかの質問に答えました。最後の質問は、「私たち中学生にどんなことを望みますか?」というものでした。「人間には人を憎しんでしまう心があるけど、憎しみからは何も生まれない。相手の心を分かり合える大人になってください。それが原爆の悲劇を繰り返さないことにもつながると思います」と、自分にできているのか?という回答をしてしまいました。

夏の日差しが照りつける原爆ドーム
45年目にしてはじめて対面することができました

原爆ドームから一本小路を東に入ったところにある島外科内科病院。
人類史上初の原爆はこの上空約580mで炸裂、
爆心地は約3000~4000度の熱線と放射線を受けました。 

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皆神山と地震観測所

2010-08-04 20:29:05 | 戦争遺跡を歩く

 昨日の夕方とはうって変わって残暑と西日の厳しい夕方になりました。終業後、昨日、行けずじまいだった松代へ足を運びました。

松代高校からのぞむ皆神山。
松代群発地震はこの周辺が震源地となりました(昨日の日記参照)。

 別の角度(上信越道長野IC方面)から見ると、山の形の特徴がよくわかるのですが、近寄りすぎました。少し残念。

 ここから西へ車で5分ほどのところに、地震観測所があります。第二次大戦末期、国家機能を移転しようと、象山、舞鶴山、皆神山に巨大な地下壕が建設されました(完成を待たずに終戦)。

 地震観測所前の案内板によると、地震観測所のある舞鶴山地下壕(総延長2600m)には天皇の御座所、参謀本部、学習院が、上の写真の皆神山地下壕(総延長1900m)には軍司令部が、地震観測所より北方の象山地下壕(総延長5900m)には政府各省庁が置かれる予定だったようです。現在、地下壕自体を見学できるのは、象山地下壕の一部だけです(地震観測所そのものは見学することができます)。

舞鶴山に「へばりついて」いる地震観測所の正面玄関。
左手に「気象庁精密地震観測室」、右手に「松代地震センター」の看板がみえます。

いちばん東にある「1号庁舎」。
正面玄関のある「2号庁舎」と坑道でつながっています。

精密地震観測室や松代大本営の概要を説明した案内板。
フェンスが邪魔をしています。なぜ、こんなところに建っているのだろう?

とりあえず、フェンス越しに撮影。これが限界。

 私は学生時代に一度だけ象山地下壕を見学したことがあります。機会があれば、もう一度見学したいと思っています。

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