KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

「信濃の国」を歩く【その2】 佐久間象山編~八幡原史跡公園と象山神社

2012-06-18 21:02:29 | 「信濃の国」を歩く

 長野県歌「信濃の国」ゆかりの地を歩く第二弾は、佐久間象山。「信濃の国」では【その1】で「挙兵の地」を訪れた旭将軍・木曽義仲と同じ「5番」で歌われています(その日の日記→こちら)。

 前回はSDカード未挿入(泣)という痛恨のミスで撮影できなかったので、およそ10日ぶりの松代行きです。たった10日ですが、日が長くなりましたねぇ。だいぶ明るく、フラッシュなしでもOKでした。

 まず訪れたのは「八幡原史跡公園」。ここは象山ゆかりの地というよりは、第4次川中島合戦のさい武田軍本陣の信玄に上杉謙信が斬りかかった(とされる)場所として知られています。園内には信玄が謙信の太刀を軍配で受け止める像が立っています。何度も訪れたことがある場所ですが、今回は「一騎打ちの像」とは正反対の位置にある佐久間象山像が目的(左の写真が「八幡原史跡公園」に立つ佐久間象山の像です)。

 手元にある「日本史人物辞典」(山川出版社)によると、松代藩の下級武士の子だった象山は「16歳から漢学の修行を始め、佐藤一斎に師事。1839年(天保10)江戸に私塾象山書院を開く。老中で海防掛の松代藩主真田幸貫(ゆきつら)の命により蘭学・砲術を学んだ」とあります。妻は、勝海舟の妹だったそうです。

 さて、この辞典、「さくま・しょうざん」とあります。「さくま・ぞうざん」では引くことができません。県歌「信濃の国」では、♪ぞうざん さくま せんせいも♪ と「ぞうざん」です。この付近の観光案内のローマ字表記も「ZOZAN」です。長野県民の私は「ぞうざん」だと思っていましたし、私のPCのIMEも「さくましょうざん」は「佐久間称算」、「さくまぞうざん」は「佐久間象山」と変換します。どちらが正しいのでしょうね?

  余談はこのくらいにして・・・「八幡原史跡公園」を後にして、象山神社へ。「神社」ですから祀られている神様がいるのですが、この神社の「神様」こそ佐久間象山その人です。象山の生誕地と隣り合うようにして境内が広がっています。

象山神社正面にある「佐久間象山先生」像
こちらは騎馬像です

騎馬像の横に参道が続いています

象山神社社殿

 鳥居を入ったところにある説明書きによると、「江戸木挽町に塾(象山書院・管理人注)を開き、「勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、橋本左内など維新の英才を輩出」したとのこと。吉田松陰をペリー艦隊に密航させた責任をとらされ松代に蟄居していた当時も「高杉晋作、久坂玄瑞、山形半蔵、中岡慎太郎、石黒忠悳らが面会に訪れ」と、幕末の志士の名が並びます。長野県民で佐久間象山を知らない人はほとんどいないと思いますが、これらの面々をみると文字通り「全国区」で活躍した人物だったことが伺えます。

 さらには、境内にある「省けん録」の最後の一節を刻んだ碑には、「余年二十以後、乃ち匹夫も一国にかかわり有るを知る。三十以後、乃ち天下にかかわり有るを知る。四十以後、乃ち五世界にかかわり有るを知る」(書き下し文は象山神社公式サイトより)、日本だけでなく世界中に繋がる重要な役割を悟ったと(写真)、国内だけでなく世界に視野を広げていたことがわかります。

 いまでは閑静な住宅街の真ん中にある象山神社ですが、目と鼻の先に「象山記念館」があります。もちろん閉館時間は過ぎていますので外観だけを撮影してきました

 館内には「佐久間象山が製作した電気治療器をはじめ科学に関する資料、佐久間象山が政治に関して述べた記録類」などのほか、「日本ではじめての電信実験を行なった」とされることにちなみ「現在では当館にしかない電話機もあります」とのこと(「」内は記念館前の館内案内より)。これは一見の価値ありですね。今度は館内ものぞいてみよう。(開館時間9時~5時=受付は4時半まで、一般250円・小中学生100円)。

象山記念館

象山記念館(現在位置)と周辺史跡の案内図
「真田十万石」の城下町とあって真田氏関連の史跡が多いです
ここから左手(西方)にすすむと旧大本営地下壕があります

 蟄居をとかれ一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)に招聘されて上京(江戸ではなく京都です)した象山は公武合体と開国を唱えましたが、1864年、京都・三条木屋町で志半ばにして尊皇攘夷派の凶刀に斃れます。 享年54歳。機会があれば、象山最期の地もおとずれてみたいものです。

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