KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

NHKスペシャル「知られざる大英博物館」(3)日本 巨大古墳の謎

2012-07-09 23:00:40 | 教養・ドキュメンタリー

 これまでの常識をくつがえす新たな発見を、大英博物館の収蔵品を通して描く3回シリーズの最終回は、日本の古墳です(7月8日放送)。

 過去2回(エジプト、ギリシャ)と比べ身近なテーマだったので、どんな常識がくつがえされるのかと期待をもって視聴しました。巨大古墳は天皇の陵墓とも言われています。もしかして、天皇の墓ではないという根拠が明らかになったのか・・・。

 もちろん、そんなことはありませんでした。明治以降、天皇や皇族の陵墓とされた古墳は宮内省(現在は宮内庁)によって立ち入りが禁止されました。平成のいまでもそれは変わりません。宮内庁が立ち入りを禁止していない古墳もあります。しかしこれらの古墳のほとんどは盗掘され、棺が納められた当時の石室内部の様子を知ることはきわめて困難だそうです。それなのに、どのような新発見があったのか。それを大英博物館の収蔵品から探っていきます。

 話は明治時代に遡ります。イギリス人で金属加工の技師であり考古学の研究者であったウィリアム・ガウランドは、16年間で400以上の古墳の調査にあたったといいます。そこで入手したおよそ1000点の遺物をイギリスに持ち帰り大英博物館に納めたそうです(ガウランド・コレクション)。日本に残されていれば朽ち果てていたかもしれない貴重な品々が、彼の手によって、そして大英博物館によって、現在にその姿をとどめることになったのです。

 昨年2月、日本とイギリスの合同調査団が結成され、5年がかりのガウランド・コレクションの調査が始まりました。ガウランドは古墳から発掘した品々だけでなく、数多くの写真、そして古墳を測量した図面を残していました。明治政府が立ち入り禁止にする以前に撮影され、測量された貴重な史料です。大英博物館のティモシークラーク氏は、ガウランド・コレクションの調査は「古墳時代に新たな発見をもたらすでしょう」と語ります。

 実際にガウランド・コレクションにより、現在には残っていない古墳の内部がわかってきたといいます。東大阪市の新興住宅地の一角に「芝山古墳跡」の表示板が立っています。大阪平野を見渡す高台にあるこの住宅地の下はもともと古墳だったのです。ガウランドがこの古墳を調査したときの図面がいまも大英博物館に残されています。石室の寸法だけでなく、発掘した遺物がどこに置かれていたのかまでが記録された詳細な図面です。

 合同調査団は、この図面をもとに原寸大の石室を再現しました。木製の棺はガウランドの調査当時、すでに朽ち果てていたそうですが、発掘された歯の位置から棺の位置を特定できるとは驚きでした。石室の復元の結果、従来は副葬品と考えられていた高杯形の器台が、単なる副葬品ではなく死者に対するお祀りの道具として使われたことも明らかになりました。

 日本で巨大古墳が作られた時期は、これまでの研究からも明らかになっています。卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)にはじまる巨大古墳の歴史は、6世紀前半につくられた丸山古墳(奈良県橿原市)で終焉をむかえると考えられています。

 丸山古墳は現在、宮内庁によって内部への立ち入りが禁止されています。しかしガウランドは、立ち入り禁止になる以前にこの古墳を調査していました。丸山古墳の測量図と調査記録も大英博物館に保管されていました。彼がみたものは、これまでの調査ではみたこともない巨大な石でつくられた巨大な石室でした。彼の導き出した結論は・・・これも記録に残っています。

the tomb of an enperor

  「天皇の墓」だという結論です。ガウランドの調査の15年後、明治政府は丸山古墳が天皇や皇族の陵墓の可能性があるとして、宮内省の管理下におきました。もちろん、現在も立ち入り禁止です。

 そしてこの古墳には、従来の常識をくつがえす「謎」も秘められていました。棺が納められた墓室の位置が墳丘の中心から大きくずれていたのです。これまでは前方後円墳の場合、円墳の中心に墓室があるのが常識だとされてきました。これが日本の古墳の伝統だとされていたのです。ところが丸山古墳の墓室は円墳の中心から大きくずれていた・・・これはなぜなのか。ガウランドの測量ミスなのか・・・。

 この謎を解くきっかけとなる事件が1991年(平成3年)に起こります。雨で土砂が崩れて石室への入口が姿を現したのです。石室内部は専門家だけでなくマスコミにも公開され、宮内庁も丸山古墳の詳細な測量を初めて行なったといいます。そして合同調査団の測量の結果、ガウランドが測量したとおり墓室が墳丘の中心から大きくずれていたことが明らかになります。古墳時代の最後を飾った巨大古墳は、日本の従来の伝統から大きくかけ離れたものだったのです。

 そこから日本で独自の進化を遂げた巨大古墳の実像がよみとれるそうです。古墳時代末期の副葬品には中国や朝鮮から伝来したものを日本風にアレンジした特徴がみられるといいます。この「日本化」は古墳そのものにもあらわれました。当初は小さな石を積み上げていた古墳が、次第に巨大な石を積み上げるように変化しているのです。この背景には日本人の「巨石信仰」があったのではないかと言われています。それが丸山遺跡にも影響を与えたようです。

 しかし石室に用いる石が巨大になればなるほど墳丘の中心に墓室をつくるのが難しくなるという矛盾が生じます。巨大墳丘の古墳をつくるのか、巨大石室の墓をつくるのか・・・墓のあり方をめぐって宮廷内でも大きな議論があったのではないかと調査団は推測します。

 蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳(奈良県明日香村)は、私も数年前に訪れたことがありますが、そこには大きな墳丘はなく巨大な横穴式の石室が残るばかりでした。統一国家をつくる過程で、国のあり方と同時に墓のあり方も変化し新しい段階に入ったのです。

 「大陸の文化を柔軟に受け入れ日本独自の文化を生み出した古墳時代。失うものと新しく得るもの。その繰り返しで歴史は形づくられていく」(番組のナレーションより)

 これは古代の歴史だけに限ったことではないのではないか。現代社会にも通じるものではないか・・・と感じさせられる番組でした。

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