KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

出陣学徒壮行早慶戦

2012-10-16 18:42:39 | 今日は どんな日

 戦争のために高校野球大会が中止されたことは、以前に書きました(→こちら)。この時期、野球は「敵性スポーツ」だとして、高校野球(中等学校野球)だけでなく、都市対抗野球、大学野球も弾圧の対象となりました。

 東京六大学リーグでいうと、1942年の秋のリーグ戦を最後にリーグ戦が中止に追い込まれたほか、翌年4月には、文部省から連盟自体の「解散命令」が出されました。もちろん「解散」させられたわけですから、公式戦をおこなうことはできません。そればかりか、戦局悪化による戦死者の増加にともない、徴兵を猶予されていた大学生の徴兵延期措置が撤廃され(東条内閣、同年10月2日公布)、選手たちは戦地に送られることになります。

 このような時代背景の中で、出陣学徒壮行早慶戦(以下「早慶戦」)が行なわれました。「戦地へ赴く前にもう一度、試合を。できれば早稲田と試合がしたい」という慶大の阪井盛一主将の希望で、まず慶大側が「早慶戦」実現のために動き出します。ところが早大当局は、これに反対。試合当日まで野球部と大学側では激しいやりとりがされたといいます。

 最終的には学生たちの熱意が勝ち、「早慶戦」が早大戸塚球場で行なわれたのが、1943年の今日、10月16日。明治神宮外苑競技場で行なわれた出陣学徒壮行会のわずか5日前のことでした。

 私は、この「早慶戦」を1979年公開の映画、「英霊たちの応援歌~最後の早慶戦」で知りました。映画は「早慶戦」にいたる過程だけでなく、戦地へ赴いた選手たちのその後、そして戦後、ふたたびリーグ戦を再開しようと決意する早大マネージャー(慶大だったかな?。勝野洋が演じていました)を描いています。

 映画では「早慶戦」で早大の「最後」のマウンドを踏んだ三上(中村秀和)に特攻命令が下され、彼とバッテリーを組んだ捕手・秋山(永島敏行)も三上の最期を見届けた後、彼の後を追います。

 秋山は直掩隊で特攻する必要はなかったのですが、このあたりが、いかにも映画らしい脚色ですね。現実には「早慶戦」の早大バッテリーは無事復学、捕手の伴勇資さんはプロ入りしています。しかし早大のメンバー3人が還らぬ人となりました(慶大のメンバーで戦死された方はいないそうです)。

 この「早慶戦」は、2008年にも「ラストゲーム 最期の早慶戦」として映画化されています。

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