録画してあったNHK8日放送の「敗れざる君たちへ~作家・重松清 阿久悠「甲子園の詩」を巡る旅~」を見ました。
作詞家の阿久悠さんは、昭和の歌謡界で数々のヒットソングを世に出したと同時に、大の高校野球ファンとしても知られています。1979年夏の大会から「甲子園の詩」と題した詩をスポーツ新聞に掲載、27年間にわたって書き続けた詩は363編に及ぶといいます。そこには、高校野球ファンとして球児におくる優しいメッセージがこめられていました。
番組では作家の重松清さんが「甲子園の詩」の後追い取材を行ないます。生前、阿久悠さんは、自分の書いた詩が、球児たちの人生にどのような影響をあたえたのかを知りたいと語っていたそうです。その「幻の企画書」が、今回、重松さんによって実現しました。
阿久さんが書き綴った363編の詩・・・。そのうちの1編は、1988年の夏の甲子園に初出場した岩手県立高田高校に送られたメッセージでした。
試合開始に小振りだった雨はイニングを追うごとに激しくなり、グラウンドのあちこちに水溜りができたといいます。そして8回裏に試合は中断。その後、主審は試合終了を宣告しました。56年ぶりの雨によるコールドゲーム、高田高ナインは、1イニングを残して甲子園を去らなくてはなりませんでした。
高田高校ナインは9回表の攻撃をすることなく甲子園を去りました
阿久さんは、9イニングをたたかえなかった高田高ナインに、こういうメッセージを残しました。
高田高の諸君
君たちは
甲子園に一イニングの貸しがある
そして
青空と太陽の貸しもある
この詩は石碑となって校庭に建てられ、「1イニングの貸し」を返すために、「もう一度甲子園へ行こう」・・・これが高田高野球部の合言葉となったといいます。
しかし2011年3月11日、東日本大震災による大津波で、高田高校のある陸前高田市は大きな被害を受けました。高田高校の校舎は全壊、しかし「甲子園の詩」の碑は、津波に流されずに残ったそうです。現在、高田高校は大船渡市の校舎を借り、多くの生徒が陸前高田から大船渡へスクールバスで通学しています。大津波から難を逃れた「甲子園の詩」の石碑は、全壊した高田高校の片隅に安置されているといいます。
9回をたたかえなかった球児たちはいま、市の職員として、あるいは建設業者として、震災の復興のためにたたかっています。震災後、「野球が心の支えになった」という元球児、社会に出てはじめて阿久さんが送ったメッセージの意味がわかったという元球児・・・。阿久さんが生前、ずっと思い続けてきた「自分の書いた詩が、球児たちの人生にどのような影響をあたえたのか」という思いは、高田高校ナインにとっては人生の道しるべになったのではないか、と感じた番組でした。
今年の夏、高田高校ナインは、震災後はじめて夏の県予選で勝利しました。残念ながら甲子園には手が届きませんでしたが、「1イニングの貸し」を返すためにグラウンドで汗を流す選手たちを見守る女子マネージャーの背中には、阿久さんが送った詩の一節が刻まれていました。
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