皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

皿尾城公園の桜

2022-03-30 09:43:54 | 日記




皿尾城公園の桜も八分咲きになりました。今日の暖かさで満開になるかもしれません。


花梨の木は
緑に芽吹いています。

水仙の花手水を奉納してご参拝の皆様をお待ちしております。

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引っ越し蕎麦はいつ食べる

2022-03-29 21:14:53 | 風の習わし時を超え

ソメイヨシノが咲いています。昨年があまりに早い開花だったこともあり、弥生の終わりに満開を迎える今年は4月にも少し花が残ってくれそうです。
コロナ禍で迎える三度目の4月は引っ越し需要が増えているといいます。こうした報道を真に受けてよいのかわかりませんが、過去2年間緊急事態宣言を含めて、かなりの人流抑制が続いていましたので、契約更新をした社会人がこの年度末に合わせて、動いていると伝えられています。
私自身社会人となって四半世紀以上たちますが、学生時代も含めて5回の転居を経験しました。学生の時はトラックを借りて東京のアパートへ自力で荷物を運びました。

大手引っ越し会社もこの時期にたくさんのCMを流し、需要の高さを感じます。
『べんきょうしまっせ』や『サカイ~安い~仕事きっちり』など独特のフレーズで利用者の心をつかんだ業界最大手。私も利用したことがあります。
今年はスマホを使ったWEB見積の様子をTVCMしていますね。なんとなくこの企業は他社に先駆けてサービスをい提供しようとしていることが伝わります。『価値ある豊かさ』とは他社に先駆けたサービスであることは昔から変わりませんね。

引っ越し蕎麦という風習は関東周辺で広まったもののようで、所謂『向こう三軒両隣』といったご近所感覚も江戸期からのもののようです。
実は結婚してアパートへ入居した際、お隣りへ挨拶しちょっとした日用品をご挨拶に配った記憶があります。
その時片づけを終えて食べた夕食は確か蕎麦だった。
引っ越し蕎麦を自分で食べるものだと勘違いしていたのです。
引っ越し蕎麦とは、引っ越した先でご近所にご挨拶に配る蕎麦のことです。江戸期に始まったとされるこの風習は『おそばに参りました』『細く長く良しなに願います』といったいみをもっているそうです。餅や小豆に比べて安価であったことが理由の一つでもあったようです。
引っ越し蕎麦はいつ食べる、ではなく引っ越し蕎麦は誰が食べる。
そう縁あってそばに寄った他人様が、細く長ーく食べるものなのです。
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皿尾煉瓦水門郡③~久保樋~

2022-03-29 20:01:23 | 郷土散策

皿尾村は明治期に入ると先進的農業区域として取り組み、治水事業の先鞭をつけるために深谷の日本煉瓦を用いた水門群を設置したことで知られている。忍城北西の農業区域でありながら、すぐ南は忍沼の水辺に接し(沼尻地区)、給水にとどまらず排水に苦労したため、各地に先駆けて煉瓦水門を導入した。地区の西端に当たる久伊豆大雷神社の北側から順に
①外張堰(現在は撤去済)
②松原堰
③堂前堰
となっている
この水門群に加え流れを分ける樋が現存しており、現在久伊豆大雷神社境内に残されている。

久保樋は神社の東側の村境(谷郷との境界)に設置されていたようで、長さ11尺幅3尺6寸、高さ3尺1寸と示されている
(現存の樋菅の長さは3.3m断面は幅1.1m高さ0.9m)
箱型の樋管で大きいものであったようだ。

この煉瓦水門群の建設記念碑が神社の鳥居脇に建てられており、当時の様子を今に伝える。
明治34年4月1日起工 同年6月2日竣工と非常に短期間での設置であったことがわかる。
これは明治20年(1887)深谷市に日本煉瓦製造会社が設立されたこと、埼玉県による補助金が出たこと(50~60%)、当時技術者の育成があったことなど設置条件が極めてそろっていたことが挙げられる。

現在の久保樋
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古河市 鶴峯八幡宮

2022-03-29 16:37:45 | 麻久良我乃許我の里

茨城県古河市は埼玉県と隣接する茨城県最西端の町。中世末期には鎌倉公方が古河の町に遷り、古河公方と名乗るなど、中世関東騒乱の舞台として名高い。鶴峯八幡宮はその古河市でも埼玉県栗橋町から利根川を渡り、旧日光街道のすぐの場所に鎮座する。

社伝によれば、平安末期の治承四年(1180)源頼朝による挙兵にの呼びかけに対し、下河辺と呼ばれる当地に兵を集め、川沿いの小高い山に鎮座する稲荷様に必勝祈願したところ、富士川の合戦に見事勝利。頼朝は武運が拓けたと神徳を感じ翌年養和元年(1181)八月鎌倉鶴岡八幡宮を勧請している。また同じく丸山稲荷も合祀し、『鶴峯八幡宮』と称した。
時代が進んで天福二年(1234)には下総国一之宮香取神宮も勧請され合殿となる。その後古河公方の崇敬を受け、歴代の古河城主からの崇敬を集めている。
また利根川の河川運河より太太神楽が伝わり近郷の鷲宮神社などからも奉納されている。
江戸時代にな栗橋宿が開かれると、その街道の鎮守となる。徳川将軍日光参詣の際には、旅の安全を祈願したという。
勧請以来利根川左岸の流域の湿地帯であったため幾度となく水害にも見舞われ、小高い山に遷座する度、その山々は『八幡山』と崇められている。
明治維新以降廃藩置県の混乱で、一時埼玉や千葉に編入されるなどして社格制度の際には無格社となったこともあるという。
水害や遷座といった混乱を超え、現在でも伝わる神楽は古河神楽として無形文化財に指定されている。
先日の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも征討軍としての平家軍が富士川の戦いで、偶然にも水鳥の飛びたつ音で逃げかえった様子が描かれている。頼朝にとって武田源氏との駆け引きもあった難しい戦を戦わす勝利したという、武運に恵まれた勝利であった。
鎌倉殿(当時は佐どの)にとって御神徳を受けた、坂東の貴重な神社であったことだろう。
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祓いの祭具 大麻

2022-03-29 15:46:35 | 神社と歴史

神道の祭事においてはじめの式次第のは修祓(しゅばつ)。お祓いの儀になります。
これから神様の前にて祝詞を奏上し、玉串を捧げて拝礼するわけですが、まずもって神様のお側に近づくに辺り、自らの罪穢れを祓うのです。もちろん罪や穢れは目には見えませんので、自分の気づかないうちに普段の生活において穢れ(気枯れ)ているというふにとらえます。
「祓詞 」を唱え神職が持つ祭具のことを「大麻」(おおぬさ)と呼びます。
参列者に対して左右左(さ、う、さ)と大麻を振って祓います。

もとは榊の枝が用いられましたが現在では白木の棒に紙垂(しで)をつけたものがほとんどです。(祓串=はらえぐし)

元々は木綿や麻が神様への捧げ物であったといいます。
次第に祭祀の道具として現在の形になった考えられています。
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