皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

第14回講義は自然の大切さ

2017-11-09 22:18:26 | 生涯学習

美しい紅葉に包まれたものづくり大学キャンパス。気が付けば11月も10日を過ぎ、暦の上では立冬を過ぎた初冬の季節となりまた。行田市民大学9期生第14回講義は「自然の大切さみんなで学ぼう」とのテーマで、環境問題に関する講座でした。講師は埼玉県生態系保護協会事務局長、堂本泰章先生です。
まず環境問題とは種類に分けられ、一つはごみ問題。そしてもう一つが今日のメインテーマである生物多様性の問題です。
生物多様性を考える前提として、自然に対する考え方を見直すべきだとおっしゃっていました。何を以て私たちは自然とするのか。人間から見てその自然度はどれくらいか。そうした観点から本物の自然に対するとらえ方が大事とのことです。

例として美しい芝桜の画です。これをも持って自然度が高いとすると、生物多様性は喪失されるといいます。自然とは景観の良さに左右されるべきものではないそうです。さらに農業や林業でも自然破壊の第一歩であるといえるそうです。自然生態系の五つの基本要素とは生物の多様性、太陽光、大気、土壌、水。多様な生物が連鎖することで、自然の生態は成り立っている。連鎖であり共存することが自然の要素であるといえそうです。聞きながら農耕祭祀を起源とする神道に通じるものがあると思いました。神道も八百万の神とされる多くの神々への信仰が根底にあります。絶対の一つではなく、連なりあって共生しながら生きていくことの大切が感じられるのです。

自然生態系の五つの基本要素は、社会資本でありすなわち生存の基盤であるといえます。現代の過度な利便性の追求から大量生産、流通、消費の過程でそうした基盤が傷つけられている側面があります。こうしたことから、世界が目指すべき「持続可能な社会」の実現に向け多くの提言がされています。先進国はやはり欧州です。自然環境を社会資本とみなして保全する政策は、日本と比べても格段と進んでいるそうです。
 では日本の地域づくりの中で、持続可能な取り組みは何か。人とのふれあいであったり、公共交通の活用、生存基盤である農地の保全など取り組むべき課題は多いようです。その中で歴史や文化的資源を大切にするというのもありました。地域に暮らす人々が、自分の地域に誇りを持つこと。それが持続可能社会の要素になりえるそうです。

こうした話をしながら、講師の先生自身が住む地域の自治会ではごみの問題に取り組むことが難しいと嘆いていました。「環境問題」というのは行政や政治の世界においてはまだまだ力の弱い分野だそうです。経済優先主義。目先の損得でしかことが進まい現実が実際あります。こうしたことに取り組むことは市民団体の役割のようです。

講義の終わりの質疑応答で、屋敷の森の保全が取り上げられました。行田市においても今年「小宮の森」と呼ばれた屋敷森が引き継ぎ手がなく、伐採され現在宅地化分譲されました。戦国時代にさかのぼる名家の家の森であったものが、時代の流れと共にその姿を消してしまったことに対して、意見を出した方がいました。振り返って鎮守の森と言われる神社境内の木をどう保全していったらいいか。講義後に思い切って相談してみたところ、緑地保全地域の指定や、市町村による緑の基本計画等、行政による支援が宗教団体でも受けられる可能性もあると聞きました。名刺までいただき協会でも支援できることがあれば協力していただけると話してくださいました。

「持続可能な社会」への実現に向けて個人でできることは小さなことです。私にできることは何か常に自問していきたいと思います。
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新田荘と生品神社

2017-11-04 22:07:35 | 神社と歴史

群馬県太田市付近は「新田荘」と呼ばれ平安時代末期には荘園として確立していたといいます。開発にあたったには新田義重。
鎌倉時代後期になると政治の実権は執権を握る北条家から家臣に移り、二度の元寇と呼ばれる戦いなどで、社会は混乱します。特に元寇においては、神風のおかげで勝利したのにもかかわらず、恩賞が与えられなかったため、幕府に対する不満は高まるばかりでした。そんな時皇位についたのが後醍醐天皇です。天皇は政治の実権を取り戻すため幕府を倒す計画を立てますが、隠岐の島に流されます。その後島を脱した後醍醐天皇が全国の武士に幕府を倒すようにと宣言し、立ち上がったのが御家人足利尊氏と新田義貞です。

新田義貞が倒幕の旗揚げをしたのが生品神社です。ご祭神は大国主命(平将門との説もあり)。毎年五月に鏑矢祭が行われ、国の指定史跡にもなっています。近年では「ハンカチ王子」と親しまれた、日本ハム斎藤佑樹投手も子供のころ鏑矢祭に参加していたそうです。

本殿前にある御神木「神代木」です。このクヌギの木に倒幕の旗をかけたといいます。
境内地前に立つ新田義貞像です。平成二十二年に神社境内から盗難にあい、三年後の平成二十七年に地域の人たちの寄付により再建されています。
剣を高く掲げた様子にも言い伝えがあります。鎌倉に攻め入った新田軍は、攻め込む方向を思案します。義貞が海の神にささげるよう、剣を海に投げ入れると潮が引いて海岸側から鎌倉に攻め入れたといいます。

倒幕後、建武の新政が始まると新田義貞は足利尊氏によって攻め滅ぼされてしまいました。こうした中世の動乱の歴史が社務所前のVTRで流されています。
中曽根元総理による石碑も見ることができます。武士による旗揚げの地として、現在でも多くの人が祈願に来るようです。
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強請と書いて

2017-11-03 23:02:42 | 心は言葉に包まれて

昨日の世良田東照宮の参拝にて、グループの方から大変面白い語源を教えていただきました。
「強請」と書いてゆすりと読みます。
 徳川家康は死後朝廷より神号「東照大権現」を賜り、日光東照社に祀られ神様となりました。後に「東照宮」と改称する宣下を受け朝廷より奉幣使が派遣され、以降毎年家康の命日には「日光例幣使」が派遣されるようになります。例幣使とは神様に祈りをささげる幣帛を奉納する勅使のことです。明治維新前まで200年以上欠かさず続けられたようです。
 例幣使一行は「金幣」を納めた葵の金紋つきの長持を中心に例幣使が乗った輿、そして御付きのものを乗せた駕籠が続きます。五十人前後の例幣使一行は、四月一日に京を発ち、中山道を通って、倉賀野宿から日光例幣使道に入ります。その後太田宿を経由し、日光までたどり着きます。帰路は日光街道から江戸に出て、東海道で京に戻るといいます。
 これは幕府の威光を示すものであり、朝廷にとっては権威を失墜させるものでしかありませんでした。
その例幣使の一行と言えば、横暴をはたらき、特に日光例幣使街道に入ると、乗っている駕籠をわざと揺すり、金品等を要求するようになり、そのさまが
ゆすり=強請の語源となったとされます。
 権威をかざして、金を巻き上げる。時代は流れても同じようなことが繰り返されているのでしょうか。
江森さん、貴重なお話をありがとうございました!
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徳川家発祥の地 世良田東照宮

2017-11-02 20:34:12 | 神社と歴史

東照宮と言えばまず日光を思い浮かべる人が多いようですが、全国には多くの東照宮が祀られています。全国東照宮連合会もあるそうです。(知りませんでした)昨年今年と2年続けてNHK大河ドラマでも、徳川家康が登場し、重要な役割を果たしています。昨年は内野聖陽、今年は阿部サダヲが熱演しています。
 行田市民大学歴史文化研究班の自主研究の一環として、群馬県太田市の世良田東照宮に参拝することができました。班のメンバーの方が三つ葉葵会にも在籍され、宮司様とご縁があったことから、境内でのご案内までいただくことができました。
 寛永二十一年(1644)三代将軍徳川家光は、この世良田の地が徳川家の祖先の地ということから、日光東照宮の奥宮を移築し、家康公を祀ったといわれています。以降幕府の手厚い保護のもとこの地は文化的にも繁栄し、「お江戸見たけりゃ世良田へござれ」と謡われたといいます。
ご祭神は徳川家康公。東照大権現とは東から照らす朝日のような神との意味。宮司様の講和の中で、天皇家以外で宮のつく神社は菅原道真公を祀った天満宮と東照宮のみだそうです。
 徳川家の先祖、徳川義季は、新田壮の下司職に任命された新田義重からこの地(世良田等六郷)を譲り受けたとされます。義季は鎌倉幕府に出仕しつつ世良田郷を開拓。のちに臨済宗の創始者栄西の弟子栄朝を招き「長楽寺」を開きました。宮司様の話の中でこの長楽寺と東照宮との力関係があり、神社は格下に見られた歴史があるそうです。義季の次男、頼氏は世良田を姓として名乗り三河守として将軍家につかえますが、晩年は佐渡へ流罪となります。
その後南北朝時代を経て、九代目に当たるのが家康公になります。
宝物殿にはこうした徳川家の系図が詳しく展示されています。また宮司様ご本人がこうした研究を独自にされているようでした。特に徳川将軍になってからも七代家継は幼名を「世良田鍋松君」と名乗っています。六代家宣にの子は次々と亡くなってしまい、直系の家継がわずか4歳で将軍となります。
そこで長寿を願って鍋の字を用い、世良田の姓を名乗ったそうです。
行田市との縁はこの石灯篭です。忍藩主阿部忠秋が奉納しています。そのほかにも重要文化財に指定されている大鉄灯篭などがあります。児玉の鋳物師中林仲次が鋳造しています。
本殿も重要文化財に指定され、左甚五郎作とされる巣籠の鷹などを見ることができます。文化財保持のご苦労もされているとのことでした。

10数年前、太田地区を営業で廻っていました。こうしたお宮に興味が向かなかったことに恥ずかしさをおぼえます。「御成敗式目」にある言葉です。「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」人とのご縁によりこうした神社にお参り出来たことを幸せに感じた一日でした。
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SSとCVS

2017-11-01 22:11:53 | 物と人の流れ

私の住む北関東は総じて車社会と言えるだろう。平野部にしろ山間にしろ移動の手段は車が中心で、かつて栄えた鉄道はワンマン運転になったり、廃線になったところもあるのだろう。毎日職場まで片道約35キロ。ガソリンの給油をしようとすると、意外と少ないことに気づく。特に早朝6時に家を出、ガソリンが少ないことに気づくと気が焦ってしまう。焦りは緊張を生み、緊張は疲労を生む。そして疲労は事故を招く。余裕を持った給油を心掛けたいものだ。今朝方出発そうそう給油ランプが点灯し、ハラハラしながら利根川を越え、新三国橋を渡り、古河に入ってすぐのガソリンスタンドにたどり着くことができた。24時間営業のスタンドで、本当に助かった。
 ところでガソリンスタンドは全国でどれくらいあるのだろう。そもそもガソリンスタンドは和製英語らしい。またサービスステーションとの呼称からSSと略されたりするようだ。現在の総数は約31500店そのうちセルフ式のスタンドが約10000店。セルフ式が圧倒的に伸びてきているそうだが、高速道路を中心にまだ有人のスタンドの方が多いようだ。但し給油所の総数のピークは2000年の5300店から半減したような状況だ。
 
 一方のコンビニ。販売店の略はCVS。毎日欠かさずよってしまう。昨日会社の近くにあるYデイリーストアに行ってみると、店内でパンを焼いていた。
毎日のように新しい商品と、情報があふれている。今ではすっかり大手3社に集約されてしまった感がある。個人的にはセーブオンが好きだったのに。
コンビニの数は飽和状態と言いながら約55000店。オセロゲームのように各社で出店を競い合っている。
 ちなみに全国の神社の総数は約80000社。こちらの方が圧倒的に多い。
必要だから数が増えるとは限らないのだろうか。経営的にガソリンスタンドは初期投資に金がかかり(タンクや設備の設置)挙句に価格競争で利益が出にくいのでやめる人は多いが、始める人は少ないという。燃費の向上と電気自動車の開発で、将来性を不安視する向きもあるのだろう。
 目先のもうけやすさで飽和しているコンビニと、必要があるのに減りゆくSS。
なくなって困るのはどちらなのだろう。
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