群馬県太田市付近は「新田荘」と呼ばれ平安時代末期には荘園として確立していたといいます。開発にあたったには新田義重。
鎌倉時代後期になると政治の実権は執権を握る北条家から家臣に移り、二度の元寇と呼ばれる戦いなどで、社会は混乱します。特に元寇においては、神風のおかげで勝利したのにもかかわらず、恩賞が与えられなかったため、幕府に対する不満は高まるばかりでした。そんな時皇位についたのが後醍醐天皇です。天皇は政治の実権を取り戻すため幕府を倒す計画を立てますが、隠岐の島に流されます。その後島を脱した後醍醐天皇が全国の武士に幕府を倒すようにと宣言し、立ち上がったのが御家人足利尊氏と新田義貞です。
新田義貞が倒幕の旗揚げをしたのが生品神社です。ご祭神は大国主命(平将門との説もあり)。毎年五月に鏑矢祭が行われ、国の指定史跡にもなっています。近年では「ハンカチ王子」と親しまれた、日本ハム斎藤佑樹投手も子供のころ鏑矢祭に参加していたそうです。
本殿前にある御神木「神代木」です。このクヌギの木に倒幕の旗をかけたといいます。
境内地前に立つ新田義貞像です。平成二十二年に神社境内から盗難にあい、三年後の平成二十七年に地域の人たちの寄付により再建されています。
剣を高く掲げた様子にも言い伝えがあります。鎌倉に攻め入った新田軍は、攻め込む方向を思案します。義貞が海の神にささげるよう、剣を海に投げ入れると潮が引いて海岸側から鎌倉に攻め入れたといいます。
倒幕後、建武の新政が始まると新田義貞は足利尊氏によって攻め滅ぼされてしまいました。こうした中世の動乱の歴史が社務所前のVTRで流されています。
中曽根元総理による石碑も見ることができます。武士による旗揚げの地として、現在でも多くの人が祈願に来るようです。