皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

古河公方の歴史①平将門の乱から御家人下河辺氏に至るまで

2017-11-23 19:36:44 | 麻久良我乃許我の里

北川辺から新三国橋を越えると右手に緑に囲まれた大きな森が見えてきます。古河公方公園と呼ばれる総合公園です。春になると桃祭りも行はれ、四季折々の自然を楽しむことがせきます。

鎌倉公方足利成氏が古河にいたときの別館で鴻巣御所と呼ばれた古河公方館跡が史跡として残っています。歴史好きではありますが、なかなか記憶も薄れ日本史の教科書に室町時代に関東にいた将軍家ゆかりの人物だったと思いますが、細かいことは知りませんでした。古河の歴史を知るうえで、重要と思い歴史博物館で古河の歴史につての文献を買って少しづつ読んでみました。

 遡ること平安時代。藤原氏を中心に京都で貴族政治が行われていたころ。地方の国司の中には任国を私領化し、富を蓄え始めるものも出てきました。また地方の豪族の中には中央貴族や寺社と結んで荘園を開き税を納めないものも出てきます。天智天皇以来推し進めてきた中央による律令国家のほころびが顕在化したころです。
 豪族は勢力を伸ばすため武装し、朝廷や貴族は地方の武士を『侍』として宮中警備や地方の治安維持にあてたりします。桓武平氏の高望王は上総の国司として関東に下り、一族は土着し地域の支配者となります。平将門もその一人です。将門は土地の支配をめぐって国司と対立し反乱を起こします。天慶二年(939)平将門の乱です。将門は常陸、下野、上野の国府を攻め落とし自ら関東の国司を任命し『新皇』と称して関東を支配しようとしました。この欄は中央朝廷を驚かせ、武士の力を認識させる事件となりました。
 高校の教科書にはこんな風に記述があります。ではその後どうなったか。将門の乱を鎮圧したのは藤原秀郷です。
 秀郷は将門を討ちながらその後の史料には出てこない人物です。将門討伐の際には高齢であったとされます。しかしその子孫は関東に勢力を伸ばし中でも小山氏は下野の南部を支配し力をつけていきました。(現在の栃木県小山市)
 平安時代末期の古河は小山氏の一門である下河辺氏が開拓した荘園の一部でした。下河辺荘は古河周辺から東京の手前江戸川付近まで広がる広大な土地であったと考えられています。
 平家追討に活躍した下河辺行平は頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府の御家人として活躍します。また弓の名人として、二代将軍頼家の弓の師でもあります。
下川辺では馬の産地としての役割を担っていましたが、その調達に難儀し、行平は将軍頼朝の難儀を救ったさいの褒美として馬の調達の免除を願い出たとされる逸話も残っているそうです。源氏三代に仕えた下河辺氏でしたがその後の動向は史料に見ることはできません。
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頼政神社と御首伝説

2017-11-23 16:14:46 | 麻久良我乃許我の里
古河には源氏にまつわる伝承がいくつか残っています。ひとつは頼朝が幕府を開く前、治承四年(1180)平家追討のため挙兵した源頼政に関するものです。
頼政は平治の乱に活躍し、平氏政権の中で源氏の実力者として認められた人物です。弓の名手で京都で「ぬえ」という妖怪を射止めた伝説も残っています。平家との戦で敗れ宇治平等院で自害した際「我が首を持って魂の安らぐ土地を探せ」と命じます。言葉に従った家臣が古河の木崎に至ると首がにわかに石の如く重くなり、ここがその土地に違いないと、首を祀ったと言われます。現在神社は旧古河城の北側の土塁の上に立っています。古河城内には頼政曲輪の名も残っていたそうです。
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