皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

熊谷市 大塚古墳と熊野神社

2021-01-18 16:22:42 | 神社と歴史

ラグビータウン熊谷のスポーツ文化公園、彩の国熊谷ドームの東側に小さな塚がある。地名も熊谷市大塚とあり、古くからその地内に古墳があったことに由来する。7世紀初頭に作られた古墳は出土品からこの地を支配した豪族の墓と推定されている。墳丘全体としては直径約60m高さ1.2mの基盤に4m上の円丘が乗った形であるという。現存する墳丘はそのうちの僅か四分の一程度。

 昭和57年の古墳の天井石が落ちかける状態となって、天井石を外し石室の調査が行われた。3トンを超える天井石を外すと内部の石室は非常に精巧で1400年もの間地元の協力によって保護されてきたという。

境内に残る石室の天井石がこちら。

墳丘に社殿が建っている。ご祭神は熊野三神(熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神)。新編武蔵風土記稿によれば江戸期には大塚の鎮守として祭られていたことが記されているが、風土記稿においても古墳の被葬者については不明である。

墳丘上には榛名社と三峰社が祭られており、近年まで講社があったことを窺わせる。埼玉の神社の記述には年間祭祀として三月末の雹祭り、八月末の風祭りがあるという。これはいずれも作物を害する悪天候を避けるために祈願する祭事であり、この地が農耕祭祀に一環であることがわかる。古くは年番が氏子家々を回って集めた米で赤飯を炊きおむすびにして子供らに振舞ったという。農・食・祭とは現代社会になるまでは一体のものだったのだろう。赤飯を子供が欲しがらなくなって久しいというが今の世であるらしい。

二の木製鳥居はいつの時代のものか記されていないが、非常に古く時代を感じさせる。近くの上之神社の鳥居は大きいもので江戸期から伝わり市の文化財になっているが、この鳥居も明神鳥居で笠木がそっている分、保存が難しいと思われるが、非常に美しいたたずまいであった。神社東側敷地には旧別当の龍昌寺が建っている。現在寺の管理がどうされているのか不明であるが、明治5年より神仏分離によって村社となっている。寺の入り口には月待講である二十二夜塔如意輪観音も立つ。全国的には二十三夜塔が多いそうだが熊谷など埼玉北西部、群馬の一部においては二十二夜塔が多く分布している。如意輪観音は富を施し六道に迷う人々を救い願いを叶える観音様として江戸期以降民間信仰として広がった。特に女性の信仰が厚かったという。

鳥居脇に立つ松の大木に見守られながら、大塚古墳と熊野神社は氏子や参拝者を静かに迎えている。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日はまた昇る | トップ | 河原神社と水の神 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神社と歴史」カテゴリの最新記事