中山道桶川宿の街道から少し東側に入ったところ、閑静な住宅街の一角に美しい朱の鳥居が立っている。古くは桶皮郷と呼ばれたこの地の総鎮守で享保二年(1717)神祇管領吉田家より正一位を賜っている稲荷神社がある。明治の合祀政策により桶川各地の無各社が合祀され、浅間社白山社、若宮社などが見られ、移築された際神楽殿に使用されたという。
本殿は文化十四年(1817)に幕府御用大工であった江戸の立川小兵衛による造営といわれている。御祭神は宇迦御霊命。
中山道桶川宿として繁栄した宿場町に祀られてきたことから、商売繁盛の神としての信仰が厚い。古くは遊郭や飲み屋の女性が店に出る前、夕刻に参拝する姿が多くみられたという。またその姿を追う男のが神社に足を運ぶことも少なくなかった。
また社殿裏の池は、干ばつにも水を絶やすことがなく腹痛に効くとして近郷から水を受けに来るものが後を絶たなかったという。
古くから「市の立つ日(五・十の日)が初午にあたると火災が多い」と恐れられ、火防の祈願祭が執り行われた。18
天明ー寛政年間に出羽最上地方の紅花の種が江戸商人によって桶川にもたらされ、紅花栽培が盛んになった。安政四年(1857)の奉納された「紅花灯篭」と呼ばれる石灯篭はそうした紅花商人が奉納したものとして、石には紅花商人中の文字と、奉納者の名が刻まれている。
境内には力石が残っており、「大盤石」と呼ばれ市指定文化財となっている。力石とは江戸時代氏子区域の若者が娯楽として石を持ち上げる力比べをしたもので、各地に残っているが、この地の石は特別に大きく口伝として残っている。
嘉永五年岩槻の三ノ宮卯之助という力士が持ち上げたとされ、重さ二百貫(700kg)と推定されている。三ノ宮卯之助は江戸一番の力持ちと謳われ、勧進相撲でも活躍したという。
宿場町桶川の総鎮守として今日でも商売繁盛、火防の神として信仰を集めている。
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