埼玉県本庄市児玉町保木野。塙保己一生誕の地。現在もその生家旧宅は国指定史跡として立派な佇まいをなしている。
江戸時代後半に盲目の国学者として名をなした塙保己一は埼玉の三大偉人の一人として郷土の誇りであるが、幼い頃に病気のため失明し、江戸に出て盲人一座の当道座に入門し、更には和学講談所の設立を幕府に認められ、「群書類従」の編纂という一大事業を果たしている。
延享三年(1746)武蔵国児玉郡保木野村の農家の子として生まれ、姓は荻野。幼名は寅之助と称した。
幼い頃から病弱で五歳のときに肝の病を患い、七歳で失明したという。その際両親は運気を変えるため年を二つ減じて辰のとしに生まれたとして辰之助と変えている。
宝歴七年(1757)には辰之助12歳の夏に最愛の母をも亡くしている。途方にくれながらもこの頃盲目の辰之助に文字やっ古文書を読み聞かせ我が子のように慈しんだのが生家のすぐそばにある龍清寺の住職だったとされる。
この龍清寺には龍が空に飛び上がるような形をした榧の木がたっておりその南には母が病気平癒を祈願した三日月不動が建つ。
三日月はやがて月が満月に向かってみちゆくように、足りないものを補ってくれるという信仰があるという。
尚、塙姓は盲目の当道座の師匠である雨宮検校の姓からもらってから名乗ったもので、名の保己一は故郷保木野村から付けた名だという。
世のため後のため
そう願い続けて編纂した群書類従。その偉業の礎は生まれ故郷児玉郡保木野村、現在の本庄市にあり、その目に光を失う前にみた保己一の幼い頃の山並みは今も変わることがない。