皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

塙保己一生誕の地 

2022-01-13 21:50:45 | 史跡をめぐり

埼玉県本庄市児玉町保木野。塙保己一生誕の地。現在もその生家旧宅は国指定史跡として立派な佇まいをなしている。
江戸時代後半に盲目の国学者として名をなした塙保己一は埼玉の三大偉人の一人として郷土の誇りであるが、幼い頃に病気のため失明し、江戸に出て盲人一座の当道座に入門し、更には和学講談所の設立を幕府に認められ、「群書類従」の編纂という一大事業を果たしている。

延享三年(1746)武蔵国児玉郡保木野村の農家の子として生まれ、姓は荻野。幼名は寅之助と称した。
幼い頃から病弱で五歳のときに肝の病を患い、七歳で失明したという。その際両親は運気を変えるため年を二つ減じて辰のとしに生まれたとして辰之助と変えている。

宝歴七年(1757)には辰之助12歳の夏に最愛の母をも亡くしている。途方にくれながらもこの頃盲目の辰之助に文字やっ古文書を読み聞かせ我が子のように慈しんだのが生家のすぐそばにある龍清寺の住職だったとされる。
この龍清寺には龍が空に飛び上がるような形をした榧の木がたっておりその南には母が病気平癒を祈願した三日月不動が建つ。
三日月はやがて月が満月に向かってみちゆくように、足りないものを補ってくれるという信仰があるという。
尚、塙姓は盲目の当道座の師匠である雨宮検校の姓からもらってから名乗ったもので、名の保己一は故郷保木野村から付けた名だという。
世のため後のため
そう願い続けて編纂した群書類従。その偉業の礎は生まれ故郷児玉郡保木野村、現在の本庄市にあり、その目に光を失う前にみた保己一の幼い頃の山並みは今も変わることがない。
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北本市 東間浅間神社②

2022-01-13 10:49:33 | 神社と歴史

東間浅間神社の創建については諸説あり、一説に万延元年(1860)当時別当を務めた宝光寺の「富士大権現略縁起」によれば、崇徳天皇の御代、武蔵野国守大納言藤原俊行の霊夢に始め本地薬師如来の姿で現れ、二度目に木花咲耶姫となって現れた御祭神が、この地をもって貴賤男女の繁栄の地として飛び立ち社殿を建立したと伝わる。飛び立った先は東の方で東間の由来ともなる。


木花開耶姫の御神徳の碑文が建てられている。
古事記、日本書紀神話にある国産神話で山の神として祀られる大山祇神の御女で天孫瓊瓊杵命の妃として、皇室の始祖大御母。
今日の日本の礎としての信仰深く、安産、子育ての神として御神徳をお授けする。

また塚の階段脇には平成十七年火災による社殿焼失から再建された記念碑も建っている。同年六月一日、不審火による社殿焼失により、氏子崇敬者の悲しみ、怒りは計り知れないものであったが、地元の協力により見事冨士塚に社殿を再建した経緯が刻まれている。社殿再建が平成十九年であるから、今年で15年ということだ。地方の村社にとって社殿の再建は一大事業。かつ不審火による焼失とあってはなおさらのことだ。
神社や境内は今でいう社会インフラ以上の役割を果たしている。お金では変えられない価値や歴史、人々にとっての安息の場であることはいうまでもない。災害を乗り越えいつまで北本の人々にとって大切な社として受け継がれていくだろう。
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北本市 東間浅間神社

2022-01-13 08:47:31 | 神社と歴史

鴻巣から中仙道に入り大宮方面に走ると、北本市に入ってまもなく、冨士塚を有する広い境内に囲まれた神社の前を通ることができる。東間(あずま)の浅間神社。旧村社にあたり、例のごとく村社の「村」の文字は目立たぬよう塗りつぶされている。

地元で浅間様と呼ばれる冨士塚は高さ6メートルを誇る規模で、頂きには社殿が建てられており、また参道と石段、社殿は直線上に配備されその延長線上には富士山が見えるようになっていて、まさに富士見塚として江戸時代からの信仰を今に伝えているという。

ただし現在社殿裏にはマンションが建設されていて、雄大な富士の峰を目にすることは叶わない。
江戸後期になって「冨士講」が盛んになったといい、当社の冨士塚はそれ以前の富士信仰のによるものとして貴重な存在で北本市有形民俗文化財に指定されている。
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