皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

白良浜の甲羅法師

2019-04-16 23:43:03 | 昔々の物語

南紀白浜の地名の由来となった美しい砂浜の広がる白良浜海岸。そこにはこんな逸話が残っています

昔は白良浜の周りにたくさんの田んぼがありました。村には彦左といふ百姓が住んでいて、たいそうな働き者として知られていました。そんな彦左は村一番の角力取りとしても知られていました。

そのころ白良の浜には甲羅法師(かっぱ)が住んでいてこどもの足を引っ張たり、夜な夜な陸に上がっては畑の大根を抜くなど悪さをしていました。

ある夏の夕刻、西の海に赤い夕日が沈み、薄暗くなったころ、仕事を終えて帰ろうとしたさ彦左は「ひこざ、ひこざ」と浜辺で自分の名を呼ばれます。「おーい」と返事を返すと海の中から丘へ上がって来るものがいます。そう、甲羅法師でした。悪さをする河童を懲らしめようと彦左は「良いところで出会った。一つ力自慢に角力をとろう」と申し出ます。甲羅法師も腕に自信があり「よし、角力をとろう」と答えます。

二人は組み合うと力自慢の彦左は甲羅法師(河童)を浜に投げつけました。ひっくり返った甲羅法師は頭から血を流し、「もう悪さはしない命だけは助けてくれ」と涙を流して謝りました。

彦左は「命を助けてやるがこれからは二度と陸に上がることはするな」と甲羅法師に約束させます。そして「万が一白浜の砂が黒くなり、沖の四そう島に松が生えるようなことがあれば陸に上がってもよい」と諭します。

そののち甲羅法師は陸に上がろうと白良浜に墨を塗りましたが波に洗われて消えてしまいます。また四双島に松を植えますが波に流されて消えてなくなります。

こうして甲羅法師は丘へ上がることはなくなったといいます。

悪さをした河童がただ海に帰るのではなく、希望を持たせつつかなわない儚さを伝える味のある逸話となっています。

鬼、天狗と並んで河童にまつわる伝説逸話も数多いようです。妖怪であるが川と童が相まって河童の語源となったようにどことなく、悪さをするも大人に諭される印象が強いように思います。

九州には河童伝説が多く、壇ノ浦に敗れた平家はちりじりになって九州へ逃れたものの、追っ手に討たれて死んでいった後、その霊魂は河童となり、九州各地で田畑を荒すなど悪戯を働いたと伝わります。

敗れた者の悲しい伝説と言えるでしょう。

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弘法大師と立岩伝説~奇勝橋杭岩

2019-04-16 22:25:24 | 史跡をめぐり

和歌山県串本町は本州最南端の町としてしられ、潮岬など雄大な海の風景に出会える町として人気の観光地となっている。

串本駅から5分ほどの海辺には弘法大師伝説が残る名勝橋杭岩がある。国道42号沿い海岸から対岸の大島にむかって大小40余りの岩が整然と並んで立っている。干潮時にはその中ほどまで渡れるという。

地質学では1500万年前の地質活動で泥岩層の間に流紋岩が流れ込んだものというが、後に浸食により柔らかい泥岩部が早く浸食され、硬い岩が杭状に形成されたものだという。

この奇妙な岩の列に弘法大師にまつわる伝説が残っている。

昔々弘法大師と天邪鬼が熊野を旅していたところ、大師の偉大さに押されていた天邪鬼は、我こそは一番の智慧者だと思い込み何とかして大師の鼻をあかしたいと考え、妙案を思いつく。

「弘法さん、大島は御覧の通り海中の離れ島で、天気が荒れると串本との交通の便が絶え島の人は大変困るというのですが、ここはひとつ大島と陸との間に橋を架けようではありませんか」

弘法大師は「それは良い、それは良い」と早速賛成しました。

天邪鬼は「「二人いっぺんに仕事するのも面白くない。一晩に時を限って橋の架け比べをしましょう」と言い出します。

いかに弘法大師でもまさか一晩で橋を架けてしまうとは出来まい。今にきっと鼻をあかしてやれるぞと天邪鬼は内心喜んでいました。

いよいよ日が暮れて大師が橋を架けることになると、山から何万貫もあるともわからない巨石を担いできてひょいと海中に立てていきます。しばらくすると海中には橋杭がずらりと並びました。

天邪鬼はこの様を見て「大変だこの調子でいくと夜明け前には立派な橋が出来上がってしまう」と困り果て邪魔立てする手立てを考案しました。

「こけっこっこー」と大声で鶏の鳴きまねをすると大師は「もう夜が明けるのか」と自分の耳を疑うと、やはり天邪鬼は「こけっこっこー」

と鶏の鳴き声を繰返します。夜明けと勘違いした大師は橋を架けるのを途中で止めてしまったといいます。

こうして串本の浜の先には大きな岩が並び立ち、列岩の起点には弘法大師の小子が祀られているといいます。、

先述しましたが弘法大師にまつわる伝説は数多い。その数三千とも五千とともいう。誰がどう広めたのか。それは高野聖と呼ばれる諸国をめぐる祈祷の僧が、空海亡き後荒廃した高野山を守るため空海を神格化し浄財を集めたものと言われています。浄土信仰として念仏を唱えるだけで浄土に行けると庶民に広まり、僧たちは井戸を掘るなど各地で救済をして回ったのです。そこで大師の杖で突いたところに井戸が湧くといった伝説が生まれ、各地に伝わったとされます。

今に生きる私たちはついその伝説や景色に心奪われがちですが、本当に大切なのはそうした話を伝える人がいたことであり、弘法大師がそうした人々を育てていたことなのでしょう。

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