孫と遊んだりすると、子供のころの感覚を思い出す。私の場合は娘とか孫娘で、セーラームーンとかに本気でなって、私はやっつけられてしまう。
こうした子供のごっこ遊びは何も不思議なことはない楽しいことだが、大人の場合はどうか。生き甲斐の心理学でいうと理想と現実の問題だ。
最近の私も縄文小説などを書いたりと、どこかで現実と理想が混濁するところがあるようだ。そこを他者にくすぐられると、豚もおだてりゃ木に登る状態で「私はドストエフスキーよ!」などと自己肥大しそうになる。それも、ある程度はよいかもしれないが、本格的なはだかの王様になると、子供にも笑われてしまう。
逆のケースもある、潜在能力が十分あるのに自己卑下をして、やらずじまいだったり、何故かできなかったりする。宝の持ち腐れということかもしれない。近くの友達や知人のほうが本人以上に気づいているのに、当人は全く気付かない。人の適正とか天職など、意外にそんなところがあったりする。あの時、何故先生の薦めに素直に応じなかったのかなど。
さて、ここまで書いて、等身大は良いものだ、ありのままは良いものだと締めくくりたいところだが、ふと、学生時代に読んだドン・キホーテの物語を思い出してしまった、ありのままで行くのも良いが、人生自分の中のドン・キホーテとサンチョの二人三脚も面白いかもしれないと。というより、いつも等身大感覚絶大で行くのはできないようにも思う。せいぜい等身感覚が大切なことを思い出すことかもしれない。
解釈のこと 9/10