この広い世界を。

可愛い歳月。
思ったことの記録。

強烈な音楽がかかり、生の意味を知るような時。

2011-10-13 01:52:29 | ひとしずく。

YouTubeで小沢健二の動画をあれこれみていたりするんですけれども、
コメント欄に、元ネタはなんですか?とか、元ネタは○○です、というような、
気になるコメントがいくつかあったんです。


…。

はてはて。元ネタ?とは?なんぞや?



持ち前のヲタ魂を発揮してあちこち調べてみたら、
小沢健二のほとんどの曲には元になる曲があって、
それをサンプリングして曲をつくっていたんですって。
(ヒップホップなどではサンプリングはよくある手法なんですって)


ま、簡単にいうとパクリですね。


それは有名なはなしだったらしいし、
彼が自らの意志で表舞台からおりて13年もたつので今さらなんですが。




で、小沢健二はそれをどうやら確信犯だったらしいんですね。

彼なりの哲学にのっとって悪びれず堂々とそれをやっていたみたいなんです。





そこで、わたしは考えてしまうのです。


オリジナリティーとはなんぞや?と。



わたしはいつも逃げてしまう。自分から逃げてしまう。
責任転嫁をしてしまう。もしくはそうする準備をいつもしている。

たとえば「○○さんが言っていた」とか、「○○がそう言っていたから」とか、
そんなような台詞でいつもいつもにげている。

攻撃されることや傷つくこと、恥をかくことなんかから逃げる準備をしている。


だけど、ほんとうのオリジナリティーはどこにあるんだろうって考えたとき、
「○○さんが言っていた」というような言葉で逃げた気になっていても、
逃げることなんかできないんだっておもったんです。


『わたし』というフィルターを通したのなら、どんなことでもどんな言葉でも、

それはすべて『わたし』の言葉だと気づいたんです。


わたしの言葉、わたしの感情、わたしの考え、
わたしの行動、わたしの見るもの。


わたしというフィルターを通したのなら、それはすべて『わたし』です。


わたしがあるから、すべてはすべてとして存在しているんだなぁとおもうんです。



わたしはわたしに無責任であって、

わたしはわたしでいる度胸すらなかったのです。


どんなわたしであろうと、わたしがわたしであるということに腹をくくったとき、

そのときはじめて快感をしるのだとおもいます。



たったひとつのオリジナリティーが光をもつのだとおもいます。



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