よい時代を生きていたなと思うのです。
もちろん“よい時代”というものと同時に、
胸がつぶされそうな出来事がたくさんあるのもわかっています。
わたしはもうすぐで40歳になります。
10代後半から20代前半にかけてのなんとも言えない絶妙な年齢のときには、
街からもテレビからも安いコンポからも、
いつもきらめいたヒット曲が鳴っていました。
それはとてもきらめいていて、音楽とはそうゆうものでした。
わたしは特に音楽が好きというわけではなく、
音痴だし詳しいことはよくわからないし何でもいいというわけじゃありません。
けれどいつもどこかで音楽が鳴っていました。
二十歳になり自分でローンをくみ購入したマツダオートザムの赤いレビューからは、
爆音でいつも音楽が鳴っていました。
いま大好きなスピッツの「ロビンソン」のあのやたらきらめいたイントロでさえ、
当時はほかの楽曲のきらめきに簡単に埋もれてしまうほどでした。
次々とヒット曲があふれ、インスタントのようでチープな流れでしたが、
次々と流れてゆくそれらは、ただ流れてゆくものではなく、
当時聴いていた私たちにとってそれは一瞬でもつよく心を打ち、
たしかに力をもらっていて日常を彩るものでした。
自分のちいさな日常や夢や理想や恋心に、
棘がささるように引っかかってゆく歌詞とメロディ。
そしてこの年齢になってそれらは、
流れてはゆかずに心のどこかに留まっていたことに気づくのです。
それはいまでも強く心にひびく威力をもっています。
当時聴いていた音楽は、いつしか閉じてしまい開ける方法さえ、
そんな扉があったことさえ忘れてしまった扉を、
いとも簡単に開ける鍵となる可能性のもの。
90年代、きらめいたヒット曲が鳴る素敵な時代を絶妙な年齢で生きたなと、
今日はGLAYやジュディマリなぞを聴いているのです。
いつしかまた今日という時代が、
何十年か後のわたしの閉じてしまった扉をいとも簡単に開ける鍵となる日であるように、
きらめきに耳をかたむけ生きていけたらと思う。