元外資系企業ITマネージャーの徒然なるままに

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鑑真和上坐像と空也上人像

2015-06-01 15:07:20 | 芸術(美術展・映画・コンサートなど)
1. 仏像レポート
鑑真和上坐像と空也上人像

2.鑑真和上坐像の時代背景
 鑑真和尚(688-763)は唐の時代の僧侶であり、日本の遣唐使から授戒制度を日本に確立させることを依頼され日本行きを決心した。日本への航海で何度も失敗を繰り返しながらも決して諦めることなく日本に渡来した。当時は授戒の出来る師僧がいない時代であり、農民が税金逃れのために勝手に僧侶になるケースが多々あった。そんな時代に正しい仏法を広めようと決心した。
 彼の来朝とともに唐の新しい仏像様式、即ち成熟した写実に加え量感豊かな抑揚に富んだ中唐時代の仏像様式が伝わった。檜などの針葉樹一本を用い材から仏像を彫り出す一本造という技法も多く用いられた。また背中に穴をあけ内部を刳り貫く内刳という技法による乾燥による干割れを防ぐ方法も一般的となった。そののち脱活乾漆造、木心乾漆造という乾燥技法も発達した。

3.空也上人像の時代背景
 空也上人(903-972)は阿弥陀如来への信仰が深く、諸国で寺、橋、道などを作りながら仏教の広布に努め、京都で疫病が流行した時は、空也上人像のような格好をして市内を「南無阿弥陀仏」と唱えながら普通の人々の救済をした。彼が生きた平安時代中期は、政治的には王朝国家としての中央集権が進み、仏教は貴族だけの現世利益仏教から、死後の阿弥陀如来による救済を説く、浄土教の念仏仏教が庶民の間に広がって行った。
 空也上人像が作られた時代は、死後100年後以上たった鎌倉時代であり、武士の現実主義を反映し写実主義が栄えた。鎌倉時代は仏教的に末法の時代と言われ色々な新興宗教が起こった時代であり、空也上人の教えは時宗を起した一遍上人にも受け継がれ、念仏仏教はますます庶民の間に受け入れられていく。彼の死後100年経って仏像が造られた理由は、彼が生きた当時と同じように庶民の生活は苦しく疫病が流行っていたのではないか、そして空也上人の救済を人々が望んだのではないかと想像する。

4.作品の特質
4.1 鑑真和上坐像
 日本最古の肖像彫刻で彼が76歳で死去した直後に弟子の忍基が造ったとされている。脱活乾漆造で像髙は80.1センチメートルの等身大、死を惜しんだ弟子が和上の面影をいつまでも残そうとした気持ちが、生きている姿そのままの表情をたたえている。


4.2 空也上人像
 首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と、彼が愛した鹿の角のついた杖をもち、左足が半歩歩き出した姿を忠実に表している。歩きながら唱えた「南無阿弥陀仏」を表す六体の阿弥陀仏を針金で繋ぎ、開いた口元から取り付けられている姿は、今まさに彼が目の前で念仏を唱えながら歩いているような錯覚を覚えるほどリアルに表現されている。作者は運慶の四男の廉勝であると言われている。像高117センチ、檜材、頭体部を一材とした一木造りで、面部を両耳前で割引き、玉眼が挿入されている。

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