丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

猫月夜

2008年02月21日 | 作り話
注)ちえぞー倫理委員会R15指定作品
 若干スケベェ(笑)なネタですので、ご注意下さい。


 屋根の上はお日様がいつもたっぷり降り注いでいるから、瓦はぬくぬくで快適だ。寒い冬が少し一息ついたようなこんな晴れた日は、特に極楽状態。
 ミュウは思いっきり両手を前に伸ばした後、今度は後ろ足を伸ばした。足先から頭の先まで心地よい緊張がぷるぷると筋肉を伝わっていく。なんとも言えない爽快感。ミュウは大きなアクビを一つすると、もう一度瓦の上に寝そべった。身体をゆるく丸めて、後ろ足の付け根に鼻先を突っ込む。自分の身体からはほんわりとお日様の匂いがした。ミュウは耳をぷるっと小さく震わせてから、目をつぶった。
「おい、ミュウ!」
 雀を追いかけている夢を見ていたミュウの耳元で、柄の悪いしゃがれ声がした。ミュウは目を開けてじろりと声の主を見た。
「……なによ。人がせっかくいい気持ちで寝てるってのに。」
 不機嫌な唸り声を上げて、ミュウは目の前のトラ猫を睨み付ける。トラ猫はミュウの耳元に鼻をくっつけた。
「そんなに怒るなよ~。」
「鼻をくっつけるな、うっとおしい!」
 ミュウは鼻に皺を寄せて、ふうっっと一吹きした。
「ちぇっっ。相変わらずつれないねぇ。」
 トラ猫は顔を引っ込めると、ミュウのリーチ範囲から少しだけ遠いところに腰を下ろした。この間、ミュウから強烈な猫パンチを食らって少し警戒しているらしい。
 このトラ猫は仲間内からギンジと呼ばれている。二年ほど前にこの町内にふらりと現れた野良猫だ。喧嘩が強いのでこの辺ではかなり恐れられている。黒味がかった銀色の縞模様はひどく汚れてボサボサしているが、妙な威圧感がある。人相(猫相?)も相当に迫力があり、柴犬くらいならギンジの一睨みで腰が引けるほどだった。
 そのギンジが唯一頭が上がらないのが、ミュウなのである。
「でも、そのつれなさが、また、そそるのよ。」
 ギンジはちろっと横目でミュウを見た。ミュウはフンっと鼻を鳴らしてから、また自分の身体に鼻を突っ込んだ。
 ミュウはギンジとは違い、飼い猫である。輝くような白い毛並みに、背中の茶色と黒の柄が完璧なバランスで乗っかっている三毛猫だ。あまりにも綺麗な毛並みは、ミュウの飼い主が週に一度は丁寧に洗ってくれているからだった。猫的には正直なところ「ありがた迷惑」だが、それほどまでにミュウの飼い主は彼女にメロメロなのだ。
 ミュウの家は近所のボロいマンションの一階だ。そこで諒太郎という「大学生」と住んでいる。背の高い、長い指の人間だ。
「噂じゃ、アンタ人間にクビッタケらしいな。」
「大きなお世話よ。」
 ミュウの喉を優しくかき回す諒太郎の指は、魔法使いのようだ。甘くてちょっといやらしい諒太郎の指使いに、ミュウはいつも二秒で落ちる。
「アンタも一回撫ぜてもらってごらんよ。わかるから。」
 ミュウは諒太郎の指の感触を思い出し、夢心地のうっとりした表情を浮かべた。
「ケッ。遠慮させてもらうぜ。なんで俺様が人間ごときに可愛がられなきゃなんねぇんだよ。胸糞悪い。」
 ギンジはむくれて言った。ミュウは横目でギンジを見て、ふいに立ち上がった。
「おい、ミュウ、どこに行くんだよ。一緒に今から雀シバキに行こうぜ。」
「アンタとは行かない。じゃね。もうじき諒太郎が帰ってくるし。」
 ミュウはしれっとそう言うと、屋根から一段下のひさしに飛び降りた。
「雀シバキならモモを誘ってみたら? アノ子暇してたわよ。」
「いやだよ、あんなデブ猫! なあ、ミュウ!!」
 ギンジの未練タラタラの声を聞き流しながら、ミュウはひさしから塀に降りて、そのまま走り去った。

 築三十年は経とうかという、ボロマンションの一階の角部屋はいつもミュウのために、台所の窓を十センチほど開けてくれてある。申し訳程度の錆びた格子をすり抜けて、ミュウは中に入った。
1DK、ユニットバスと六畳一間。ここがミュウと諒太郎の家だ。
 狭くて薄暗い台所には古びた流しと汚れたガスコンロ、小型の冷蔵庫が置いてあるだけ。しかしたったそれだけで充分狭くなっていた。ミュウには気にならないが、諒太郎はしょっちゅうその辺で身体をぶつけている。その台所の向こうに諒太郎の生活空間が広がっている。
 万年床のソファーベッド、小さなテレビ、折りたたみのちゃぶ台、本棚、プラスチックの引き出しとビニール製のワードローブ。雑然と積み重ねてある本や雑誌、脱ぎ散らかした服。いかにも若い男の一人暮らしといった部屋だ。
 ミュウはソファーベッドの上に飛び乗った。今朝も諒太郎は寝坊をして、ベッドも脱いだ寝巻きもそのままで飛び出していった。ミュウはグチャグチャの布団の中にもぐりこんだ。諒太郎の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ミュウは何かしらうっとりした幸せな気分になる。ミュウはそのまま目を閉じた。
 夜になってバイトを終えた諒太郎が帰ってきた。安っぽい鍵をガチャガチャ言わせて開錠する音を聞きながら、ミュウはベッドから顔だけ出した。
 部屋の電気が点き、ミュウは目をしばしばさせた。諒太郎の大きな影がミュウの上に落ちてくる。
「ただいま、ミュウ。」
 諒太郎はミュウの頭を包み込むようにして撫でる。ミュウはゴロゴロ喉を鳴らしながら、目を細めた。
「ああ、腹減った。」
 諒太郎の手にはコンビニの袋がぶら下がっている。この匂いはどうやらおでんらしい。
 諒太郎はちゃぶ台の上に袋を置き、台所へと向かった。ミュウはベッドから出るとしなやかな伸びをして、諒太郎の後に続いた。
「ねぇ、諒太郎。私もお腹すいたよぉ。」
 ミュウは甘えた声を出しながら、諒太郎のジーンズのふくらはぎに頭を擦り付ける。
「よしよし、今お前にもご飯やるから。待ってろ。」
 諒太郎は鼻歌を歌いながら、冷蔵庫を開けビールを出した。
「ねぇ、ねぇ、竹輪。竹輪がいい。」
 ミュウは冷蔵庫の上の方にしまってある竹輪の袋を目ざとく見つけ、諒太郎にねだった。
「お前も竹輪、食うか?」
 諒太郎は袋を開けると二本取り出した。指でつまんでそれをヒロヒロとミュウに見せびらかす。
「よし、やるぞ。こい。」
 ミュウは竹輪に釣られるように諒太郎の後ろをついて回った。
 諒太郎がおでんとビールで夕食を済ませる傍らで、ミュウは竹輪を齧った。時々、顔を上げて諒太郎を見る。諒太郎の横顔は鼻が高くて、なかなか格好良い。あの高い鼻をミュウの冷たい鼻先にくっつけてくるのだ。諒太郎に愛されてる。そう実感する瞬間だった。
 夕食の片づけを手早く済ませ、諒太郎は風呂に入る。ミュウはこっそり逃げ出そうとしたが、諒太郎の大きな両手に脇を掴まれてしまった。
「いや~あん。今日はいや~。」
 ミュウは足をばたばたさせて抵抗したが、諒太郎の手から逃れられず結局風呂に放り込まれてしまった。否応なしに頭から湯をかぶせられ、シャンプーをなすくられる。ワシワシと体中をこすられ、ミュウは情けない泣き声をあげ続けた。
 ミュウを洗い終えると諒太郎は自分も身体を洗う。
「なんだよ、そんな恨めしそうに見るな。美人が台無しだぞぉ。」
 身体を振るって水を飛ばしたミュウの身体に、笑いながらまた湯をかける。
「莫迦諒太郎!」
 ミュウは据わった目で裸の諒太郎を睨み付けた。
 地獄の風呂タイムの後は、うって変わって極楽タイムである。電器ストーブの前でミュウは身づくろいをする。諒太郎はミュウをタオルで丁寧に拭き、専用のブラシで梳いてくれる。
「お前は本当に可愛いよ。」
 諒太郎はそうささやきながら、ふわふわになったミュウを抱いて布団に入るのだ。
 ミュウは仰向けになった諒太郎の胸の上に乗り、パジャマの布を咥えてチュウチュウ吸いながら、諒太郎の胸板を前脚で揉む。何度も何度も。そして諒太郎はミュウの頭を、耳の後ろを、喉を、背中を甘く、優しく、ちょっといやらしく、撫で上げる。
――嗚呼、蜜月って言うのよ。こういう時間を……。
 ミュウはうっとりしながら、諒太郎の上で果てるのだ。

 ところが、今夜は少し違った。
 ミュウがうっとりと眠りについた直後、諒太郎の携帯電話が鳴った。諒太郎はミュウを下ろすとベッドから這い出て、部屋の隅に転がしてあったデイバックから携帯電話を出した。
「はい。……あ、先輩。」
 寝ぼけた声は一気に少し慌てたような声になった。
「いえ、構いませんよ。……先輩? 大丈夫ですか?」
 ミュウは不機嫌に諒太郎を見ていたが、ごそごそと布団の奥へともぐり直した。諒太郎の電話は終りそうになかった。なにやら電話の向こうで話す言葉に、しきりに相槌をうっている。一方的な電話だった。
 つまらない……。ミュウはすっかりヘソを曲げてしまった。

「ふうん、そりゃなんだ、女だな。」
 ギンジは少し嬉しそうにそう言った。
 いつもの屋根の上だ。今日はあまり日差しがでていなくて寒かった。春はまだ遠い。まるで私の心のようだわ……。ミュウはこっそり溜息をついた。
「アンタに言うんじゃなかったよ。」
 ミュウは不機嫌だった。
 この一週間ほど毎晩のように電話がかかってくる。それもミュウと諒太郎のラブラブタイムに限ってだ。相手はいつも同じようで、その電話がかかってくると、諒太郎はミュウをほったらかしにして電話にかかりきりになる。しきりに相槌をうち、なだめ、慰め……。相手はどうやら女だ。つくづく面白くない。
「私というモノがありながら……。」
 ミュウはイライラと後ろ足で耳を引っ掻いた。イライラしてくるといつも耳が痒くなる。この二日ほど掻き過ぎて、耳の中がひりひりしていた。
「なに莫迦なこと言ってるんだよ。」
 ギンジがせせら笑う。
「お前、猫じゃないか。アイツは人だ。人なんてさ、莫迦でのろまで単純で根性悪で、身体がデカいだけが取り得の木偶だぜ。辞めとけ辞めとけ。ギャッ!」
 ミュウはギンジの頭に猫パンチを放った。
「うるさい! 諒太郎は違うの!」
 そう叫ぶと、ミュウは屋根から飛び降りた。まったく腹の立つ猫だ。デリカシーの欠片もない。ぷんぷん怒りながら塀の上を駆け抜ける。
 窓の下に辿り着いて、ミュウは足を止めた。客が来ているようだった。窓の隙間から諒太郎と聞きなれない声が流れてくる。
 嫌な予感がした。
 そおっと窓から入ると諒太郎の部屋に人間の女がいた。髪の毛が長くて、小麦色の肌の女がちゃぶ台を挟んで、諒太郎と向かえ合わせに横座りでくつろいでいる。てらてらした唇がいけ好かない。諒太郎はというと、なんだか頬を少し赤らめて、鼻の下を伸ばしていた。女のために甲斐甲斐しくお茶なんか入れている。ミュウの知っている諒太郎とは別人のようだ。
「あ、猫? 小林君、猫飼ってるんだ。」
 女はミュウに気付いて、笑いかけてきた。ミュウは女をちらりと一瞥しただけで、諒太郎の膝の上に乗った。
「先輩、猫大丈夫ですか?」
「うん。好き。おいで。」
 女が手を伸ばしてきたので、諒太郎はミュウの脇を掴んだ。手渡そうとミュウを持ち上げる。
 誰がこんな女に抱かれるもんか!
 ミュウは後ろ足で諒太郎の手を引っ掻いた。思わず諒太郎が手を離す。ミュウはそのまま台所の冷蔵庫の上に乗って、二人を睨み付けた。
「あらぁ、嫌われちゃったよ?」
 女はくすくす笑った。諒太郎は引っ掻かれた手を撫でながら顔をしかめている。
「アノ子、メスでしょ。」
「え? ああ、そうですよ。」
「道理で……。ヤキモチやいてるのね、きっと。ご主人様のお部屋に女がいるから。ねぇ? 猫ちゃん?」
 よくわかってるじゃないか。だったら、さっさと帰ってしまえ! 
 ミュウは不機嫌に唸り声を上げながら外へ出た。

 ところが、悲しいことにその女は頻繁に諒太郎の部屋に来るようになった。二人で頭をつき合わせて、相談事をしているようだった。なんでも「大学の先輩」の「結婚式」の「二次会の幹事」をまかされたらしい。ミュウにはなんの事だかさっぱりわからないが、とにかく二人で色々打ち合わせをしているようだった。
 そのうち、女の名前が「先輩」ではなく「奈緒さん」というのだという事がわかった。諒太郎がいつの間にかそう呼ぶようになったからだ。
 ちゃぶ台を挟んで座っていたのが、いつの間にか二人並んで座るようになっていた。くすくすと忍び笑いをしながら、顔を見合わせ、時々時間が止まったように見つめあう。そんな時、諒太郎の身体からは雄の匂いがするのだ。
 ますます面白くなかった。早く「二次会の幹事」とやらが終ればいいのに。ミュウはふてくされながら、ベッドの中で二人を睨み付けるしかなかった。

 ようやく春の兆しが見える頃、猫の世界も春が来る。ギンジも相変わらずミュウの傍に近寄ってきていたが、このところ雄の匂いをぷんぷんさせて積極的にミュウに迫ってくるようになった。ミュウのイライラ感は最高潮だったので、ギンジを寄せ付けはしなかったが、それでもめげずにギンジは擦り寄ってくる。
「なああああ、ミュウ~。春だぜ、恋の季節だぜ。俺様と楽しもうぜ~。なああああ。俺のお姫様よおおお。俺の子供産んでくれよおおお。」
 ギンジのくだらない口説き文句に噴き出しそうになることもしばしばだが、ミュウは心が晴れなかった。
 原因は判っている。諒太郎だ。恋の季節は猫だけではないらしい。彼はあの忌々しい「奈緒」と随分親しくなっていた。時々諒太郎の身体から「奈緒」の匂いがする。諒太郎の胸の上でくつろいでいる時に、微かながらも「奈緒」の気配を感じると気分が悪くなった。諒太郎の胸の上は自分だけの場所なのに……。
 あまりにも悔しくなって、ミュウは諒太郎の胸の上でぎゅうっとツメを立てた。
「いててててて。……痛いよ、ミュウ。」
 寝ぼけた諒太郎はミュウの頭をゆっくりと撫でる。二人の時の諒太郎はいつもと変わらず優しい。
 そうだ、この手もこの胸も私のもの。あんなてらてらした唇の女に諒太郎は似合わない。

 その晩をミュウは待ち望んでいた。ようやく「結婚式の二次会の幹事」というヤツが終る夜だ。今日を境に諒太郎は無罪放免、あの「奈緒」からも無罪放免。またミュウと諒太郎の蜜月が始まる。
 ミュウは屋根の上で諒太郎の帰りを待っていた。遠くでよその猫の歌う声が聞こえる。マオマオとからみあうような歌声。今日はギンジの姿も見えない。きっとどこかで別のメス猫と恋歌でも歌っているのだろう。ギンジのことなど、どうでもいい。
 夜も随分更けた頃、諒太郎の気配がした。
「帰ってきた!」
 ミュウは喜び勇んで屋根から飛び降りた。やっと諒太郎の胸の上で、ゆっくりとまったりと過ごすことが出来る。そう思うと、体が震えてきそうだ。
 しかしその考えが虚しいものである事にすぐ気がついた。
 窓から中に入ると部屋の中は暗かった。いつもならすぐに電気をつけるのに。暗闇の中からは二つの荒々しい息遣いが聞こえてくる。
 ミュウは冷蔵庫の上に乗り、息遣いの方を見据えた。
 諒太郎と奈緒が立ったまま、もつれ合うように抱きあっている。言葉も交わさず、ただ切迫した喘ぎと衣擦れの音だけが生々しく響いてくる。やがて諒太郎のよそいきのスーツも、奈緒のフォーマルのワンピースも乱暴な扱いで足元に落ちていく。
 ソファーベッドの上に倒れこみ絡み合う二人をミュウは氷のような瞳で見つめていた。
 
 そこは私の場所。そこは私の場所。そこは私の場所。そこは私の……。
 
 諒太郎の上になった奈緒が髪を振り乱しながら顔を上げる。ふと冷蔵庫の上のミュウと目が合った。
 奈緒のてらてら光る唇がきゅっと笑う。
「ミュウが……見てる。」
「な……に?」
 諒太郎の手が奈緒の身体をせわしく愛撫するのが見えた。
 
 私の手。私の手。私の手。私の手。私の……。

「猫に見られて……、感じる?」
 諒太郎の言葉に奈緒はぷっと噴き出した。
「ばぁか……。」
 奈緒はミュウから視線を外し、諒太郎の胸に手を置いた。ねっとりと指を這わせながら、奈緒は諒太郎の唇を貪り、身体をくねらせる。諒太郎の情けない喘ぎ声。
 
 その胸は私のモノ。私のモノ。私のモノ……。

 ミュウは冷蔵庫から飛び降り、ちゃぶ台の上に上がった。
 目の前でもつれ合う二人をじっと見つめる。
 奈緒が振り絞るような声を上げ、上半身をのけぞらせる。
 ミュウはちゃぶ台を蹴り、ふわりと宙に舞い上がる。
 無防備な奈緒の喉元に飛びつき、思い切りツメを立てた。
 柔らかい皮膚を容赦なく切り裂く。
 奈緒の鋭い悲鳴。
 ミュウは床に下りると、そのまま台所を駆け抜け窓から外に躍り出た。後ろから奈緒の悲鳴がついて来る。長い長い悲鳴だった。

 ミュウは屋根の上にいた。空には満月がぽっかり浮かんでいて、瓦の上にはミュウの影がくっきりと落ちている。闇の中の猫の目みたいな丸い月。
 右手の先がずきずき疼く。よく見ると爪が一本欠けていて、血が流れている。
 ミュウはその傷を舐め始めた。自分の味と、味わった事のない血の味が混ざっている。そう、あの女の血の味。
「おう、ミュウ。」
 ギンジがふらりと現れた。相変わらずぎらぎらした瞳をしていたが、ミュウの傷に気がついた。心配そうに覗き込む。
「どうした、その手。可哀想に。痛いだろう。」
 ミュウの耳元で囁きながら、首筋を舐め上げてくれる。唐突に切なさと悲しみがこみ上げてきた。
「……ギンジ。私、もう帰らないから。」
 ギンジが怪訝な顔でミュウを見つめる。鳶色の瞳には月の光が映りこんで、もう一つ月があるようだ。綺麗な瞳だった。ギンジの、いつもはふてぶてしくて憎たらしい顔が今日は妙に男前に見える。
「そう。もう帰らない。」
 ミュウはもう一度繰り返した。
「そうか。」
 ギンジは相好を崩した。
「ついに俺様のモノになる気になったか。よしよし。」
 ミュウは苦笑いした。別にギンジのモノになるつもりはないが、少なくとも諒太郎のモノではなくなる。それでいい……。
 ミュウはゆっくりと身体を低く沈め、少しだけ尻尾をあげた。ギンジは嬉しそうに宙に飛び上がり、くるりと身を翻す。
 金色の月の中に、ギンジの影が美しく映えた。
 

                                    了
 
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2 コメント

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場末で街の影でそっと (カミュ)
2008-02-21 15:02:44
時代は関係なくてそこにあるのは唯一、場末で街の影という言葉。愛くるしい猫たちのなにげない会話をてらし合わせてみてしまった。どこか辺境的で中心では居心地がわるい人間をみているようで。自分がそうだからだし、猫がいつもいるのは場末、街の影というのがあるから。
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猫目線(笑) (ちえぞー)
2008-02-21 16:13:34
>カミュさま
猫と長く一緒にいると、猫が猫に見えないんです(笑)。猫の皮をかぶった人って感じで。犬よりもはるかに人間臭い動物です。いかにもこんな事、考えていそうでしょ(笑)。

「場末」とか「掃き溜め」とかって言葉が結構好きなちえぞーです。そこにはささやかな「一生懸命」が息づいている気がします。そんなものを拾い上げて文章に出来たら嬉しいんですけどね(笑)。

精進しなくちゃあ。
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